小さな森の禁断の果実 1


 それは、彼と彼が聖地での職務に就くようになって間もない頃――。

 オスカーは、今日もご機嫌で聖地の中を散策していた。
 仕事にも慣れはじめ、そろそろお気に入りの場所なんぞを探す時期に来ているのである。
 今日も今日とて、聖地の女性方は美しいし、いつも穏やかな陽気は、特に気持ち良く感じられる。ジュリアスに叱咤される事もなければ執務の失敗もない。ここ数日の己の調子の良さに、オスカーはひとり極上の笑顔を浮かべながら、辺りを歩き回る。鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。
 と。
 まだ彼にとって未開の地であった、宮殿から少し離れた小さな森の中で、大きな木の根本にもたれかかっている人物を発見した。
 先程までの上機嫌もどこへやら、オスカーは途端に仏頂面になる。
 そこにいたのは、オスカーが聖地で唯一(でもないが)苦手とする、水の守護聖だった。
 水の守護聖――リュミエールとは、守護聖としてはいわゆる同期に当たる訳だが、どうにもこうにも彼とは反りが合わない。
 第一印象で随分おとなしそうな奴だと思ったあたりで、すでに気が合いそうにないと思い込んでしまったフシもあるが、どっこい、お綺麗な面をしていながら、付き合ってみれば意外や毒舌だったりする。それが更に気に入らない。
 そしてそれが、オスカーには他人の5割増しくらい余計に向けられているように感じるのは気のせいではないような気がする。
 向こうにとっても、自分は気の合わない相手なのかもしれないが、自分が何か、悪い事をしたか? 他の奴に向けるようなお優しい笑顔を、自分に向けた事があるか?
 ――いやいや、別に笑顔なんて向けて欲しい訳ではない。断じて。
 それにしたって、水の力は優しさの象徴などと、よくぞ言ったもので、リュミエールは年がら年中他人にお愛想を振りまいている。
 それがどうして、自分と向き合う時にはいかにも嫌そうに顔を俯かせるのか。その水色の瞳と視線が合う事なんて、数えるほどしかない。
 ――違う違う、リュミエールに見つめて欲しい訳じゃない。絶対に。
 リュミエールの態度が不満なのであって、決して彼に何かを望んでいる訳ではない。ましてや、彼の優しさや笑顔など。


 たかが、リュミエールをちょっと見掛けただけなのに、自分がえらく錯乱した思考を繰り広げている事に気付かないまま、オスカーはその場に立ちすくんだまま逡巡していた。
 このまま踵を返して、見なかった振りをしてしまおうか。しかしそれでは、もしも彼に気付かれた時にあまりにも不自然に思われてしまうのではないか。まるで逃げるような後ろ姿を捉えられてしまうのは、いたくプライドが許さない。
 しかし、それでは何といって声を掛ければいいのか。話題なんて、彼相手にそうそう見つかるものでもない。
 第一、声を掛けたら掛けたで、またいつものように俯かれて拒絶されそうな気がする。それはそれで、テンションが下がる。
 ――どうしたものか。
 何をそんなに悩む必要があるのかという程に、オスカーはその場に佇んだまま、微動だにできないでいた。
 しかし。なんとなく、視線の先で地に腰を下ろしているリュミエールがいつもと違うように見えて、たまには歩み寄ってみてもいいか、などと彼らしくもない事を考え、オスカーはついと歩を進めた。
 言い訳がましいかもしれないが、本当に、リュミエールはいつもと違って見えたのだ。木のたもとに小さくなって腰掛けている姿は妙に可愛らしく、なんだか転がしてやりたいような衝動にも駆られる。
 瞳を閉じているその表情は、水の冷たさよりも、湖面のようなやわらかさをかもし出している。
 いつもこうであれば、少しは話しやすいのに。
 それとも、そこにオスカーがいる事に気付いていない故か。
 普段のリュミエールの頑なさは、半分はオスカーの行動性格に問題あっての事だと、オスカー本人は気付いていない。
 故に、幾分手前勝手な事を考えながら、オスカーはできるだけ自然に見えるよう、リュミエールに近付いた。
「よう、リュミエール」
 顔に微笑(薄笑い)を浮かべながら、オスカーはリュミエールの側面から声を掛けた。
 伏せ目がちにしていた瞳をゆっくりと開き、リュミエールは寝起きのような潤んだ瞳をオスカーに向ける。
「……オスカー……?」
 ぼんやりと呟いた後、やっと状況に気付いたかのように、慌てて顔を上げるリュミエール。
「あ……、ごきげんよう、オスカー。こんな処でお会いするなんて……」
「リュミエール?」
 何だか、口調がもどかしい。
 というより、全体的に、どこか変だった。
 会いたくない人に会ってしまった、ともとれる表情だが、オスカーを見上げる瞳は潤んだままで、頬は微かに上気している。それは、淡い桜色にも見えた。
 いつもと違うと感じたのは、どうやら間違いではないらしい。
「リュミエール? どうかしたのか」
 極力さりげなく当たり障りのない事を言いながら、オスカーはその場に身を屈める。
 ――おいおいおい。
 内心、オスカーはリュミエールのその姿に、舌を巻いていた。
 いくらなんでも、ちょっと色っぽすぎやしないか。
 何だその潤んだ瞳は。何だその桜色の頬は、柔らかく動く唇は!!
 はっきり言って、リュミエールはそこいらの婦女子とは比べ物にならないくらい、美しい容姿を持っている。普段の行動も、繊細でしなやかだ。
 口には出さないが、それはオスカーも認めている。
 リュミエールのトロンとしている姿は、それら総てが、これでもかという程に強調されていた。
 普段の、繊細ながらもしっかりと地に足の付いている様子と、あまりに違いすぎる今のリュミエールに、オスカーは動揺しまくっていた。
 鼓動が、知らずに速くなる。
「――別にどうもしませんが……私、どこかおかしいでしょうか」
 おかしいとこだらけだ。
 まるで――そう、酒にでも酔っているようだ。
「リュミエール、お前、まさか酒でも飲んでるのか?」
 この水の守護聖に限って、白昼堂々と外で酒をあおっているなどありえない話であるが、この異常な状態は、そうとでも思わなければ説明が付かない。
「お酒など……飲んではいません。そのように見えるのですか?」
 見える。
 途端に、リュミエールはくすくすと笑い出した。
「オスカー一流の冗談ですか? ですが、もう少し説得力のある事を言わないと、笑いなど取れませんよ」
 すでにその姿で笑いが取れるというのに。
 一体どうしてしまったというのか。
 笑い方からして、尋常ではない。言う事も変だ。
 まるで幼児退行してしまったかのように、リュミエールは無邪気な笑顔をオスカーに向ける。
 ぐらりと、体が傾いだような感覚はオスカーの気のせいであったか。
「おいリュミエール……」
「はい?」
「今日のお前は、絶対におかしいぞ。何かあったんじゃないのか」
 変なものを食べたとか、お日様に当てられたとか。
「何もありません。そんなに、私の事を異常な人のように扱いたいのですか……?」
 すでに異常だ。
 うって変わって、リュミエールは拗ねたように眉間に皺を寄せ、瞳を更に潤ませた。
「あなたは、いつもそうです……。私を異邦人でも見るような目で見て、そっけなくて……」
 リュミエールの言葉に、今の彼がおかしいとはわかっていても、カチンときてしまうオスカー。
「いつもそっけないのはお前だろうが。軽蔑するような眼差しが、いつも俺に突き刺さってくるぞ」
「そんな事は知りません。私には、あなたの態度の方が辛辣に思えます」
 この場合、どっちもどっちというのが正解なのだろうが、こんな状況下でも、お互い一歩も譲らないあたりが、普段からの不仲の原因のひとつかもしれない。
「私がどんなに歩み寄ろうと努力しても、あなたに一瞥されただけですべてが無に帰してしまうのです……。そもそも、私のこの性格が嫌だと言われては、直しようもないではないですか」
「あのなあ。その台詞、そっくり返すぞ。お前の方こそ、俺を思いっきり軽蔑してるんじゃないのか。いつもそれとなく避けるくせに」
「オスカーがいけないのです! ……口をきけば私をからかうような事ばかり……。私は、あなたのその強さが羨ましくさえあります。ですが、それを矢のように突き立てられては、お話するのも怖くなって当然ではないですか……」
 羨ましい?
 それは初耳だ。
 それに、矢のように辛辣な態度を取っているのはリュミエールの方ではないか。他の者に見せる優しさを、少しでも自分に見せていたなら少しは口のきき方だって変わるだろうに。
 あるいは、たった今見せているこんな姿とか。
 正直、こんなに可愛らしいリュミエールを見るのは初めてだ。普段のすました社交辞令的な微笑みを見せる彼とは、全然違う。
 これはちょっと……。
 客観的に見ても、他の追随を許さないほどに、今の彼は魅力的に見える。その器量も相乗効果となって、他のどんな人間よりも、その存在が美しく輝いて見えてしまう。
 オスカーはぶるぶると首を振った。
 何を考えているんだ。
 今自分が考えた事を打ち消すように、オスカーは自分の両頬を手で叩いた。
 リュミエールが、これまたらしくもなく声をたてて笑う。
「おかしな人ですね。オスカーの方こそ、酔っているのではないですか?」
 普段、絶対に見せないような開けっぴろげな笑顔に、オスカーの心臓は跳ね上がる。
 そんな自分が信じられなくて、わざときつい口調で言ってしまう。
「いつもそんな風だったら、俺だって少しは考えて話もするだろうさ」
 それがいけないのだと、オスカーはまだ気が付かないらしい。
 リュミエールはオスカーの強さを羨ましいと言っていたが、オスカーだって、実のところリュミエールのその優しさ、繊細さに憧れの念すら抱いていた。
 それは、自分がそうなりたいという類の物ではなく、それが自分にまっすぐに向けられていたなら、さぞ心地良いであろうという思いだ。
 ただ、オスカー自身はそれをうまく自覚していない。
 だから、他の者にだけ向けられるその優しさが口惜しいなどと、思い付かないというよりは、思いたくない。
「とにかくリュミエール……」
 絶対におかしいリュミエールの手を取ろうとオスカーが右手を伸ばすのを、リュミエールは先程とは打って変わった態度で払い除けた。
「触らないで下さい」
「何?」
「あなたは……勝手です」
 にこにこ顔もどこへやら、今度は今にも泣き出しそうな表情になって瞳を伏せるリュミエール。
「勝手? 俺のどこがだ」
「勝手です。私の事なんて、ちっとも考えて下さらない。私がどんなに戸惑って迷っていても、あなたは少しも解ろうとして下さらないではないですか」
 戸惑って、迷って?
「一体、何にだ。第一、少しもそんな風に振舞ってないだろうが!」
 思わず怒鳴ってしまうオスカーに、リュミエールはいやいやをするように首を振ると、折った両膝に顔を埋めてしまう。
「故郷に帰りたい……」
 今度はホームシックか。
 オスカーは、頭を抱えた。
「いいえ、どこでもいい……あなたのいないところに行きたい……」
 ものすごい言われようではないか。
「ずいぶんな嫌われ様だな」
 オスカーが言うのに、リュミエールはキッと顔を上げた。
「こんな風に、解ってもらえないのがいやなのです! あなたは知らないでしょう。私がどんなにあなたの事を考えているかなんて。あなたのその強さ、軽快さに戸惑いながら、それでもそれに憧れ、惹かれてしまっている事なんて!」
「……何……?」
「私ひとりが、道化のように悩んでうろたえて……あなたの傍にいると、私が、私でなくなってしまう……そんなのは、もう耐えられないのです」
 リュミエールの言葉に、オスカーは呆然とする。
 リュミエールが自覚しているかは知らないが、そんな事は、今までおくびにも出した事がなかったではないか。リュミエールの態度に逡巡し、らしさを失っていたのは自分の方だ。少なくとも、今まではそう思っていた。
 ――自分がおかしくなって行くのを認めたくなくて相手のせいにしているのだと、二人はまだ気付かない。
「ずっとこんな気持ちのまま、あなたの傍にいたくない……」
 とうとうリュミエールは、顔を伏せてべそべそと泣き出した。
 だめだ。
 リュミエールとの押し問答は、後だ。こんな酔っ払ったような状態で、まともな思考回路を保っているとは到底思えない。
 自分の胸の内が混濁して行くのを食い止めるように、オスカーは、無意識の内にこの状況を酔ったリュミエールのせいにした。
「あのな、リュミエール。ここに座り込むまでを、順を追って説明してくれ」
 いくら何でも、今日のリュミエールはおかしすぎると、あらためて思う。
 絶対に、何かあったに違いないのだ。
 オスカーは、リュミエールの言葉をそっと促すかのように、その瞳を覗きこんだ。

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