UP20020412

この世の果てで愛を叫んだ獣





 カチャン、という微かな音。
 浴室のガラス戸がそっと開かれた気配に、暁人はふと我に返って振り返った。
「暁人。大丈夫か?」
 眉をひそめ覗き込む、兄の心配そうな顔。
 言われて初めて、自分がシャワーを出しっぱなしにしたままその場にぼんやりと座り込んでいた事を自覚した。
「あ……ごめんなさい。大丈夫、何ともない」
 気恥ずかしさからか、暁人の頬が微かに朱色に染まるのを、総一郎は苦笑と共に見つめた。
「辛ければ、我慢せずに言いなさい。少し、無茶をしてしまったかもしれない」
 兄の、あからさまとも取れる台詞に更に赤くなりながら、暁人は「そうじゃない」と首を振る。ぬるめの湯が、飛沫となって疲労した肌にかかるのが気持ち良かっただけなのだ。
 兄弟とはいえ、弟の入浴中に声も掛けずに入り込んでくる兄というのは通常滅多にないが、今となっては、暁人はそういった事実にも違和感など憶えなくなっていた。もともと仲の良い兄弟ではあったが、今のような状態になってからは尚更。
 総一郎は、浴室に素足を踏み入れると、勢い良く湯を吐き出し続けるシャワーのコックをひねった。銀糸のような湯がしぼみ、それが小さな水滴へと変わるのを待ってから、大きなバスタオルで暁人をふわりと包み込み、そのまま抱き上げる。
「兄さん……! 大丈夫だから……」
「いいから」
 うろたえる暁人にかまう事なく、総一郎は暁人の身体を抱えたまま寝室へと向かった。
 大きなベッドに暁人を降ろし、傍らに自分も腰掛けると、総一郎は暁人の小さな身体を抱きしめる。暁人はされるがままで、その頬を兄の胸に預けた。
 まるで従順な愛玩動物のように。
「暁人……」
 その唇に触れるだけの口接けをひとつ降とし、総一郎は暁人の瞳を見つめた。
「後悔しているか?」
「兄さん?」
 唐突な台詞に、暁人は目を丸くして兄を見つめる。
 一瞬、質問の意味を掴みかねたが、総一郎の言わんとしている事が、今のこの生活の事を指しているのだと思い至った。
 暁人が総一郎を選び、人として生きるのを諦めてから、そんな事を訊かれたのは初めてだ。目を見開いたままぽかんとしている暁人の濡れた髪を、総一郎はゆっくりと撫でつけながら、暁人の言葉を待っている。
 総一郎とて、もしもここで暁人が後悔の念を口にしたところで、彼を手放すつもりなどさらさらない。しかし、時々接触する人間を見つめるたび、高い場所から街並を見下ろすたびに、暁人の表情に微かな翳りが生ずるのに、彼はもちろん気付いていた。
 まだ手放しきれない何かが、彼の中に存在するのだろうと。
 それも無理からぬ事だろうと、総一郎は思う。
 暁人を人として育ててきたのは自分だ。その気なら、生まれてからずっとどこかに隔離し、己だけを見つめさせて時を過ごさせる事だってできた。少しでも暁人の安らかな表情を見たくてこういう形になったのだと思いこそすれ、もしも何も見せず、何も聞かせないまま純粋に『贄』として育てていたなら、暁人の今の苦しみもなかったのではないかと。
 しかし、押し問答なら自分の中で繰り返ししてきた。己が、自分でも理解に苦しむ行動を取るたびに、幾度も。
 今となってはすでに遅く、そして同じ過去を何度繰り返しても、自分は同じ行動を取るであろうという確信はあるけれど。
 今更暁人の心の内を探ろうなどと、己ともあろう者が、らしくもない感傷に揺り動かされてしまったという事だろうか。
「後悔、しているか?」
 再び問う。
 兄がどんな感情によってそんな事を口にするのかは解らない。けれど暁人から見る総一郎の表情は真摯で、純粋な答えを欲しているのが分かった。
「後悔……」
 暁人の視線が、どこへともなくさまよう。
「後悔なんて……沢山したよ。今だってしているかもしれない」
 絶対的に人間との共存が不可能な総一郎。その兄に、人としての生活をすべて投げ打ってついてきた暁人。捨ててしまったその世界は、どんなに明るく、いとおしいものであった事か。
 あのまま暮らしていたかった。本当は。
 贄だなんて。最初から普通に生まれ出た純粋な命ですらなかったという真実。そんな事実は、まったく己の知るところではなく、降ってわいたような過酷な運命だ。
 この世界で、普通に静かに暮らす事すら、己には許されないのかと。
 何度も思った。
「だけど……僕が選びたかったその世界には、兄さんがいなかったんだ」
 いつかは手に入れたかもしれない沢山の友人。日を増すごとに見慣れるいつもの風景。焦がれてやまないその優しい世界の中に、しかし兄の姿はないのだ。
「色々な事があったけど、それでも僕は、それなりに生きてた。楽しかったと思う。ずっとあのままでいたいと何度も願ったよ。けど……今まで過ごした時間がこんなにもいとおしいのは、いつも傍に兄さんがいたからだ」
 辛い事ばかり、沢山あった。けれど、それよりも沢山、優しい日々を作り上げてくれたのは、いつも傍にいてくれた総一郎だ。
 総一郎がいなければ、何の意味もないのだ。
 それがどんな場所でも、そこにこの兄がいないのでは、暁人に本当の安らぎはない。
 もともと、総一郎がいなければこうして存在すらしなかった命。けれど、その事実を差し引いても、暁人はただ総一郎の傍にいたかったのだ。
 何を犠牲にしても。
「僕は、凄く自分勝手だ」
 この世界は、総一郎の手の内にあるといっても過言ではない。彼がそこに存在するかぎり、必ず人は彼の糧となり、世界は少しずつ変貌して行く。
 あるいは暁人なら、総一郎を止める事ができたのかもしれない。だがそれは、総一郎の存在の喪失を意味する。
 兄か、世界か。
 途方に暮れるような選択肢の、兄の方を暁人は選んだのだ。
「何よりも、兄さんの傍にいたかった。今までその一員として暮らしてきた、この世界を犠牲にしても……。僕は……」
 総一郎の胸に、暁人は額を押し付けた。
「暁人。お前が自分を責める事はない」
 蒸し返すような問いかけをしてしまった。
 暁人にはただ、ずっと傍らで共に生きてほしいと思っているのに。
 ――失う事に、不安になっているのだろうか?
 暁人が兄を選んだ時から、もう彼には総一郎しかいなかった。総一郎から離れれば、暁人は独りぼっちになってしまうのだ。
 けれどそれは、総一郎にしても同じ事だった。
 次元を渡り歩き、いつか旅立つ時のために用意したはずの『贄』に心奪われた時から、総一郎はひとつの未来を失った。
 力を付けるための、かりそめの弟の存在。けれど今はこの弟と共にいるために力を行使し、望んでいるのは、暁人と共にある未来。
 彼の存在ゆえに縛り付けられてしまったこの地上で、暁人がいなければ、本当に孤独なのはむしろ総一郎の方だ。
 彼もまた、弟のためにすべてを捨てたのだ。
「もう訊かないよ、暁人。俺もお前も、自分の望むままにここにいるんだからな」
「兄さん……」
 傍にいたいとふたりが願った時から、道はひとつしかなかった。
「暁人。明日は久しぶりに、外出しよう」
「外出? どこへ?」
 暁人のキョトンとした表情に、総一郎は優しい微笑を返す。
「ゆっくりできる場所にだ。たまにはいいだろう」
 今は、暁人はほとんどの時間を室内で過ごし、滅多に外に出る事はない。軟禁されているという訳ではないが、既にはじき出された世界に足を踏み入れるのには、いささか抵抗があるのだ。
 そんな暁人に対する総一郎の気遣い。
 はにかんだ暁人が黙って頷くのに、総一郎は再びやわらかな微笑みを贈った。


 久しぶりに見た海は、夕暮れ間近の太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
 海風が心地良く、空と交じりあうような水平線が美しい。
 人の多い場所でなく、静かな浜辺に連れてきてくれた総一郎に、暁人は感謝した。人ごみはもちろん苦手だが、普通に生きている人々を見るたびに、自分や兄との隔たり、その関係を思って彼の心は沈みがちになってしまう。
 人間を糧にするという行為が総一郎の本能である以上、暁人にはどうする事もできない。それを止めさせようとすれば、総一郎は生きて行くための力を失う事になり、総一郎を失っては生きて行けない暁人も、それに準ずるしかない。
 それは誰のせいでもなく。総一郎のせいですらないのだ。
 微かなジレンマに苦しむ暁人の負担にならぬよう、いつも総一郎は極力その事実を思い出させないように気を遣ってくれた。
 そして、今も。
「見て、兄さん。キレイな貝殻。珍しいよね」
 いつか、兄と共に訪れた海辺。優しい思い出の場所に、暁人の心は自然と浮き足立った。
 決して人として明るい光指す道行きではない旅をしていると解っていても、今だけはその事を忘れていられる。
「暁人、気を付けなさい。靴が濡れる」
 兄の言葉に、暁人は平気、と返しながら裸足になる。
 他愛のないやり取りをしながら兄と共にただはしゃぐのが、とても楽しかった。

 日が暮れ、いつしか丸い月が輝き出す頃まで、ふたりはただ海岸線をさまよいながら、その空気の色合いが変化して行くのを楽しんだ。
 歩き疲れてからは、波打ち際に腰掛け、何をするでもなく暗い海を見つめる。満ち潮で足許が濡らされるのもかまわずに、ふたりはぼんやりと、夜にしかない輝きを目に焼き付けた。
「兄さん、月が……蜂蜜みたいな色」
 空を見上げた暁人が、橙色に輝く月を指した。
「蜜月と書いてハニームーン、といった表現がどこかにあったな。確かに言い得て妙だ」
 珍しく俗な事を口にしながら微笑む総一郎に、暁人は気恥ずかしげな視線を送る。月の光に照らし出された総一郎の姿も、甘い輝きに満ちていた。
 神秘的な光を纏うその身体に、暁人は不意に甘えたくなってその身を寄せた。体重を預ける暁人の肩に総一郎の手が回され、優しく抱き寄せられる。いつもこうして、何も言わずに受け容れてくれる兄が、暁人は好きだった。

 ――コノヒトノコトガ、トテモ、トテモ、スキ……。

 暁人が今ここにいる理由は、至極簡単だった。
 すべてを敵にまわす事も、怖くない。
 この人を愛するという事は、そういう事だ。
 どれだけ後悔しても迷っても、行き着く先は、絶対的にひとつ。
 たったひとりを失う事だけが怖い。
「ずっと、一緒に連れて行って。そこが世界の果てでもいい。兄さんがその翼を広げてしまったら、僕は一緒には飛び立てない」
 少し強くなった海風が、暁人の髪を揺らす。この風に乗って羽ばたく力すら、兄は持っているのだ。いつ、そうしてもおかしくはない。
「本当はお前だって、翼を持っているんだよ。だが俺達は、これから永遠にそれを使う事はない。暁人。もうひとりでは、飛び立つ事ができないんだよ」
 お前のいない世界には。
 その言葉の代わりに、総一郎は暁人の肩を抱く腕に力を込めた。
「お前の怖れるような世界の果てなど、このまるい惑星に立つ限り存在はしない。だから心配しなくていい」
「兄さん……」
「世界に果てがあるとするなら、今俺の存在するこの場所がそうだ」
 世界を、終わりへと導く事すら造作も無い。
 けれど今は、暁人と共にいるこの空間を、守ろうとしている。
 連鎖の頂点に立つ最強の獣は、たったひとりのためにその翼をたたんだ。
「お前が、俺のすべてだ――」

 降りてきた口接けは、ふたりを照らす月の光のように甘い。
 幾度か角度を変えた後に、暁人の上唇を辿る総一郎の舌を受け容れるように、暁人は静かに口を開いた。優しく侵入してくる舌が、暁人の口腔を蹂躪する。兄の口接けに懸命に答えようとする暁人の身体中を、じんわりとした痺れがかけ抜けた。
 絡んだ舌の濡れた音にも、微かに漏れる己の声にすら、暁人の身体は敏感に反応し、熱を帯びる。そこに僅かな空気すら入り込もうとするのを拒むように強く引き寄せられ、体温は更に上昇した。
「暁人……」
 耳元で、総一郎が囁く。
 大好きな、兄の声。
 行為におぼれるようになってからも時々、過去の痛みがフラッシュバックとなって暁人の脳裏をかすめる事があった。
 いつまで経っても忘れる事ができない。
 癒える事の無いように思われるその記憶に震える時も、いつも兄の静かな声が暁人の心を今へと引き戻した。
 耳に届くのはいとおしい人の囁きで、この身体に触れ、抱きしめているのは大切な兄の手。瞳を開けば、そこに飛び込んでくるのは他の誰でもない総一郎の姿だ。
 その現実が、暁人に恐怖ではなく快感をもたらした。
 何時でも、そして今も。
 口接けを繰り返しながらその場にゆっくりと身体を横たえられても、暁人はされるがままになっていた。ここが屋外であるという事も、身体中が砂にまみれる事も、もはや気にならない。
 兄に触れられる身体は歓喜に打ち震え、心に愛おしさを募らせる。
 暁人の腕が兄を求めて伸ばされ、深く重なり合うためにその背をかき抱いた。まるで天に存在する美しい獣を、この地に繋ぎ止めようとするかのように。
 はなさないで。はなさないで。
 ずっとそばにいて。
 身体中で、そう囁きかけるように。

 月明かりの許でひとつになった影は、それから長い事、離れる事はなかった。




   天へと向かい羽ばたく事をやめた 熾天使
   あなたに私がそうであるように
   あなたは 私のすべてです
   あなたと共にあるために 私はすべてを捧げましょう
   それは 私の方こそが
   あなたのすべてを 手に入れるという事なのです――


END




●あとがき●
兄とのベストエンドその後です。総一郎が大好きなんです〜〜vv ゲームのベストエンドは賛否両論だったようですが、そのストーリーを踏まえた上で、こんな感じかな、なんて。ちなみにこのお話のタイトルは、某海外小説のパロです(笑)。



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