UP20020412

告白





 キン、という、幾度も繰り返される澄んだ金属音のような音色に、暁人は今日も耳を澄ます。
 水琴窟の微かな響きを聞きながら、そこに落ちる滴の行く先と回帰を想う。
 ――あなたと僕の環る場所は、どこですか。
 僕はいつまでも、あなたとともに、いてもいいのでしょうか――。


「アーキートッ!!」
 放課後、2年A組の教室前の廊下。
 元気の良い声で呼びかけられるのと同時に、体当たりでもするかのような勢いで背中をドシンと押される。前のめりに転びかけるのをかろうじて持ちこたえながら、暁人は振り返った。
 視線を向けた先でニコニコと邪気の無い笑顔を見せているのは、須王大輔だ。
「須王……どうしたの」
「どうしたの、じゃないだろ。お前、まーた女子のカラオケの誘い断ったんだって?」
「……あ」
 今日の昼休みの出来事が、須王にも伝わっているらしい。
「ちょっと都合がつかなかっただけだよ……」
 ほんの少し頬を染める暁人の言葉に、須王はバンバンと彼の背中を叩きながらケラケラと笑う。
「無理すんなって! そういうの、苦手なんだろ? ……でも」
 ふと、須王が表情をゆるめ、優しい瞳を暁人に向ける。
「女子が言ってたよ。暁人がいつも真っ赤になりながらしどろもどろに言い訳を考える姿が可愛くて、断られるのわかってるのについ誘っちまうんだってさ」
「え……」
「……よかったよ。なんかさ。……お前が転校してきた頃、いろんな事があったせいで、お前ちっとも周りに理解してもらえてなかったからさ。こんな風にクラスの奴等と溶け込めるようになって、本当に」
「須王……」
 転校初日から起こったあの事件には、目の前で微笑む須王も巻き込んだ。すべてが解決した今でも、あの日の出来事は微かな痛みを伴って思い出される。
 すべてが終わった時、須王にだけはという思いで、ある程度のいきさつを話した。その時も、須王は自分が巻き込まれた事など忘れたかのように、優しい瞳で「そうか」と言ってくれた。
 最初から暁人の事を不審に思いもせずに、ずっと心配し続けてくれた須王。彼には、感謝してもしきれない。
「カラオケはともかくさ、今暁人が住んでるあたりで、凄くいい穴場があるんだぜ。キレイで落ち着けてさ。今度、一緒に行こうな」
 暁人が世話になっている旧家の在る山の方には、須王も良く出掛けているらしい。澄んだ空気と溢れる緑が心地良いのを、暁人も知っている。
「うん。いいね」
 暁人が笑顔で答えるのに、須王は歓びの表情を隠そうともせずに「絶対な!」と念を押す。
「……と、加納先輩じゃん」
 暁人の肩越しに廊下の向こうを見やって、須王が呟いた。
「え」
 暁人が振り返ると、須王の言葉通りに、長身の上級生がこちらに向かってくるのが見える。
「加納さん」
 その姿に思わず暁人が微笑んで声を掛けると、呼びかけられた加納はひょいと手をあげた。
「久神。……話の途中だったか?」
 駆け寄る暁人の肩に軽く手を置くと、加納は気遣うように須王の方を見やる。が、視線の先の彼は気にするなと言うように屈託の無い笑顔を見せた。
「久神、今日は先に帰っていてくれ。食材を切らしていてな。買い出しをしてから、すぐに行くから」
「え、僕、手伝います」
「いや。せっかく買い物をするんだから、今日は少し手の込んだものを作ってやろう。楽しみが半減しないように、家で待っていてくれ。それとも、何か特別に食べたいものでもあるか?」
「いえ、お任せしますけど……でも」
 暁人が言い募ろうとするのを視線で止め、加納は有無を言わせぬ調子でポンと彼の肩を叩き「いいから」とだけ言って、その場を去った。
 他愛の無い、いつものやりとりだ。時々買い物に付き合う暁人を今日は置いて行くという事は、本当に手の込んだものを作ってくれようとしているのだろう。あれこれと考えて唸りながら、買い物カゴを片手に陳列された食料品を睨む姿を暁人に見せたくないのだ。
「加納先輩って、料理するのか? ……意外」
 加納が去った方をぼんやりと見つめながら、須王が呆然と呟く。
「うん……美味しいよ。いつも、良くしてくれる」
 本当に加納は、いつもさりげない仕草で暁人の事を気遣い、心を砕いてくれる。いつも何も返せない自分がもどかしくもあるけれど「そんな事はない」と言う加納の優しい言葉に甘えている今日この頃だ。
 加納が暁人の事を心から想ってくれるのがわかるから、迷惑を掛けている、という考えは捨てる事にした。というか、最近ようやく考え方を変える事ができるようになったのだが。迷惑を掛けている、と考えるよりは、それなら自分にできる方法で恩返しをしたいと、そう思っていた方がいい。暁人が困っているのは、未だにその方法が思い付かないという点に対してなのだが。
 そこにいるだけでいい、と、加納は言う。
 けれど――。


 空にぽっかりと浮かぶ月を、暁人はひとり、窓辺からぼんやりと眺めていた。
 瞳に眩しいほどの、満月。
 月は人を狂わせるというけれど、今夜の暁人の心も、満月にざわめいていた。
 月が満ちるたびに強く思い出す。
 失った、大切な人。
 思い描いただけで涙が零れそうになるその人の姿。
 忘れるには、早すぎる。いや、きっと一生、忘れる事なんてできない。せめて、一時も早く記憶を思い出に変える事ができればいいと望むけれど、それはきっと難しい。
 加納がいつもそばにいてくれるおかげで、痛みを和らげる事はできるけれど。

「眠れないのか」
 静かな声にギクリとなって振り返る。
 音もなく佇んでいる加納の姿を認め、暁人はその場の空気がシンと暖かく静まり返るのを感じた。
「加納さん……」
「今日はずっと沈みがちだったな。今夜は満月だ。ひとりにしておかない方がいいだろうと思ったが、その通りだったみたいだな」
 落ち着いた加納の言葉に、暁人は加納がずっと自分の事を気に掛けていてくれた事を知った。今日のあたたかな食事も、その為だったのだろう。
 あくまで静かな動作で加納は暁人の傍まで歩み寄ると、隣に並んで白い月を見上げた。
「こんな日は、ひとりでいたくないものだろう。無理をせずに俺を呼べばいい」
「でも……」
 優しい加納の言葉。
 だめだと思いつつも、暁人はいつもそれに甘えてしまう。
「いつまでもこんな事じゃ駄目だって、思うんです。強くならなきゃって思うのに、躓きかけた時に、僕はいつも加納さんの姿を探してる……」
「強い人間は、いつも独りで耐えなければならないという事ではないよ」
 俯いた暁人に振り降りる、穏やかな言葉。
「君は強くなった。君の屈託のない笑顔がそれを証明している。けれど、人は誰でもひとりきりで生きていける訳じゃない。それは、君が俺に教えてくれた事でもある」
 暁人はゆっくりと加納を見上げた。
「誰かと共に在ってこそ、強くなれる。俺にとって君はそんな存在だ。だから君にも、ひとりではなく俺がいるのだという事を、何に気兼ねする事もなく認めてほしい」
 加納の言葉は、大地にしみわたり、そこを潤す水を思わせる。
 暁人がゆっくりと頷くのを見て、加納は微笑んだ。
「圧倒されそうに冴々とした月だな。君の心を鎮めるには、どうしたらいい?」
 月明かりの許、自分よりも低い位置にある暁人の瞳を伏せ目がちに見つめる加納の表情に、暁人は一瞬見とれた。
「加納さんを見てると、落ち着きます……」
 さらりと、素直にそんな言葉が出た。
「そうか……」
 加納はそんな暁人の前髪に指を差し入れると、ゆっくりと髪を梳くように頭を撫でた。既に、彼の癖になりつつある行為だ。
「俺は、君とは逆だな。日々を静かに暮らせればいいと、それが俺の望みでもあったが、時折、君を見ていると微かに胸が騒いで落ち着かない時がある。けれど、それは決して嫌なものではなくて、心地の良い胸騒ぎといった感じだ。何故だろうな」
 ゆっくりと言葉を綴りながら、加納は暁人の手を取り、窓辺から部屋の奥へとその身体を誘導した。敷かれたまま放置された布団の上に、そっと暁人の身体を沈ませ、座るように促す。
「落ち着くと言うなら、俺はここで君のそばにいよう。だから、安心してもう眠るといい」
 加納の手が、暁人の両肩を優しく包んだ。
「でも……」
「君のために、言ってるんじゃない。俺が君のそばにいるための口実だと、思ってくれて良い」
 加納の言葉は優しい。
 なんだかんだといって、それは結局暁人のためだ。
 暁人と総一郎の事実を知り、穏やかな包容力でその傷をゆっくりと癒そうとしてくれる加納。
 けれどそんな彼だから、暁人の心は更に重く沈んでしまうのだ。

 ――まだ彼に、言っていない事がある。
 前の学校を退学になった理由。優しかった先生や先輩の変貌と、受け容れてもらえる場所をなくした過去の自分。
 そしてその事よりも何よりも、死んだ父と自分との間に起こった、忘れ難い醜悪な事実――。
 もう、過去の事だ。
 今となっては、それらを加納に話さないからといって彼が危険に巻き込まれたりする事はない。暁人が口を閉ざしている限り、加納はそれを知る事もなく、また詮索する事もなく、心静かなままで暁人のそばにいてくれるだろう。わざわざ加納に嫌な思いをさせる事はないだろうとも思う。余計な事を知らせて、もしも加納に軽蔑され、彼が離れていってしまったら、今度こそ暁人はどうやって生きていったら良いのだろう。
 けれど。
 一生残るかもしれないこの傷を抱えたまま、加納のまっすぐな思いを受け留め続ける事ができるのだろうか。
 何より、言えば軽蔑されるかもしれない事実を、ずっと隠したまま彼の温かさを享受し続けるのは、ずるい事なのではないか?
 加納は、過去の自分の傷をちゃんと話してくれたというのに。

「まだ……加納さんに、話してない事があるんです」
「久神?」
 再び俯いてしまった暁人に、加納はいぶかしげな視線を送る。
「以前、黒田って不良が言ってた事とか、他にも……」
 ――他にも。
 暁人は、我知らず己の身を守るように身を小さくしていた。
「僕は、亡くなった父との間に確執を持っていました。そのせいもあって、両親が他界してから入退院を繰り返していたんです。やっと普通の生活を送れるようになってからも、ずっと他人に……特に大人の男性に触れられるのが嫌でした。酷い時には吐き気すら感じていたほどで……僕は、父に……」
 たどたどしく言葉を繋ぎながら、それでもどうしても真実を上手く伝える事ができなくて、暁人は唇を噛む。
 兄と、従兄である諒以外を受け入れようとしなかった、少し前までの自分。摂るものも摂らず、他人をひたすら拒み続けた最低な時期の自分を。己の身に何が起こってそうなったのかを。絶対に加納に知られたくないという気持ちと、知ってほしいという気持ちが入り混じって胸のうちを渦巻いていた。

 ――それを知ってもあなたは、僕の傍で笑っていてくれるのですか。

 加納の事を信じていない訳ではない。
 加納に裏切られるとか、そんな事を思って不安になっている訳ではないと、思う。暁人は過去に何度も人に裏切られ、ことごとくその人たちの末路を目にしてきた。そんな目に遭いながら、性懲りもなくまた人を信じているのだ。
 心優しく誠実な彼を、信じている。
 むしろ、自分の過去がそんな加納に不快な思いをさせるのではないかと、こんなに優しい人を自分の方が裏切る事になるのではないかと、その方が心の楔になっているのだ。

 唇を噛み締める暁人の頬を、加納はゆっくりと撫でた。
「久神。無理に口にする事はない。……辛い事なのだろう?」
 暁人をいたわる言葉に、その身と共に、心が震える。
「辛いです……。でも、言えないのも辛い。僕は僕の事を、加納さんに全部知ってほしいと思うんです。でも、僕は加納さんが言ってくれるような、綺麗な存在じゃない……」
 暁人の存在を、清らかな光と視てくれた加納。
 けれど、この身はとっくに汚れている。
 それを加納に知られる事が、こんなにも辛い。
「わかってくれるまで何度でも言うが、君は綺麗だよ。汚れてなんかいない。君が言うように物理的に多少汚れていたところで、それが何だと言うんだ? そんなものは、俺にとって物の数にも入らない。……君の心は誰にも汚せない」
 俺の『目』が信用できないか? と、暁人をまっすぐに見つめる加納の瞳は、深い輝きでもって暁人を捕らえる。
 この瞳に、暁人の姿はどんな光をたたえて映っているのだろうか。
「加納さん……僕は……」
「俺に話す事で君が楽になれるというなら、もう少し後で、ゆっくりとその事を思い返せるようになってからで良い」
 加納は暁人の肩を抱いていた両手をそっと彼の背中に回し、その身体を静かに抱きしめた。ピクリと震える暁人の、ほんの小さな動きさえ感じるほどに深く抱きしめたのは、これが初めてだ。
「そばにいてくれ。これが俺の願いだ。他の事は全て後回しでいい」
 暁人の身体は加納に包み込まれ、心は全て加納で満たされていた。
 こんなに自分を満たしてくれる優しい人に、返せるものは何? 本当に、ただここにいるだけでいいのだろうか。――本当に?
「……一生?」
「一生だ」
 静かでありながらも、確たる加納の言葉。
 切ないほどに、心が震えた。胸の奥から溢れ返るような、不可解な激情に押し流されるように、暁人はその手で加納の袖を捕らえた。
「ずっと、ここに……」
 控えめに伸ばされた暁人の小さな手が、己の袖を強く握りしめる様に、加納は一瞬視界が眩むような感覚を憶えた。
 その手も、肩口に埋められた揺れる瞳も。
 ――愛おしいとは、こういう事を言うのか。
 他の誰にも抱いた事のない深い情愛を、改めて思い知る。
「俺もまだ、君に言っていない事がある。君がいつか心に抱えている事を話してくれるというのなら、その時に、俺もそれを言うよ」
 袖を掴む暁人の手に、加納は自分の手をそっと重ねる。それを優しい仕草で、己の頬へと導いた。
「これからずっと、変わる事なく君はここへ帰ってくるといい。他の誰にも空け渡さない。ここが、君のいる場所だ」
「僕の……」
「そう、君のだ」
 加納の言葉をゆっくりと噛み締めるように、暁人はその両手を彼の大きな身体に巻きつけた。
 自分が帰るべき、大切なひと。
 こうする事がこの人の望みでもあるとするなら、自分はゆっくりと、今よりも強くなろう、と思う。こんなにも強くて優しい彼が、安らぎを得られる場所となれるように。
 ゆっくりと――。


 水琴窟の微かな音色に耳を澄ますうちに、いつからか暁人の瞳が閉じられたまま、その呼吸が規則正しくゆっくりと紡がれているのに、加納は気付いた。
「久神……?」
 小さな問いかけにも、返事はない。
 ようやく眠る事ができたかと、その身体を横たえようとするが、身体に巻き付けられた腕だけはしっかりと固定され、己の背を握り締めたまま緩められていなかった。
「そんなに力を入れたままでは、疲れてしまうぞ」
 苦笑しつつ呟いてみるが、その手が緩められる事はない。
 穏やかな彼の表情を見ていると、無下に引き剥がすのも躊躇われる。
「仕方がない……なんていうのは、言い訳か」
 加納は自嘲気味に呟き、暁人をその腕に抱えたまま静かにその場に横になった。

 ――この夜が明けた時、君の瞳が開かれる様を眺めるのも楽しいかもしれない。
 きっと彼はあまりにも近くにいる加納に驚愕し、一瞬後には羞恥に頬を染めながら頭を下げまくるのだろう。
 そんな彼の様子を想像しつつ、加納もまた穏やかな眠りに就いていった。
 何よりも大切な人を、その腕に抱きしめながら。


 きっといつか、暁人はずっと耐え、躊躇い続けた心の傷を、加納にすべて打ち明けるのだろう。
 そして、加納もまた、その時すべてを知った後で、それでも暁人に『まだ言っていない事』を告白するのだ。


 ――『君に出会えて、良かった』――


END




●あとがき●
加納さんとのベストエンドその後。兄と競って、加納さんが大好きですv ゲームではとても控えめなシナリオでありながら、誰よりも熱いものが隠されている、そんなお話でしたよv



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