UP20020412

I was born...





 暫く続いていた水音が途切れた。
 と、認識した途端に、ドタドタとけたたましい足音をさせながら緑金色の髪を振り乱し、アレンが満面の笑みで駆け寄ってくる。
「マスター! 明日、絶対海に行くんだよね!?」
 今日一日、こいつはずっとこんな調子だ。たまには海にでも出掛けようかと誘ってみたのがよほど嬉しかったらしい。
「アレン、髪!」
 先刻までシャワーを浴びていた身体中から、水滴がポタポタと零れ落ちている。長い髪なんて、ほとんど拭っていない状態だ。
 落ち着いて、風呂にも入れんのか。
 嬉しいのはわかるが、今日は何をやっていても突然思い立った時に「海」と確認を取ってくる。
 シャツ一枚しか羽織っていないアレンを椅子に座らせ、タオルで強引に頭を掻きまわす。そのシャツでさえ、すでに絞れば水が出そうな状態で、シャツの役割を果たしていない。まあ、素っ裸で飛び出してこなかっただけ良しとしよう。
「おまえなあ、いい加減自覚しろよ。人間は、風邪なんか簡単にひくんだぞ? 明日、海に行きたいんだろう?」
「ごめん。でも凄く、すっごく楽しみなんだ。早く明日になれば良いのに」
 がしがしと頭を擦られながらも高揚するアレンの表情は、容姿の大人っぽさに似合わず、今も幼くて可愛い。
 アレンが人間になるという、信じられないような事件から暫く経った今も、彼はあまり以前と変わる事はなかった。もっとも、ナリは20代の青年でも、彼が生まれてからまだ2年とたっていない。いくら彼が普通の人間の何倍もの速さで成長してきたといっても、本質はまだまだ子供っぽさを残していて当然だ。
 シャツを替え、髪の水滴を拭って櫛を通している間も、アレンはされるままになりながら、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気でにこにこしている。
 海なんて、数回行っている筈だがアレンは未だに飽きる様子を見せない。そういえば、小さな頃から海に憧れてたっけ。初めて旅行で海に連れて行った時も、本当に嬉しそうだった。
「早く明日になる方法を教えてやろうか」
「え!? どうするの!?」
 勢い良く振り返るアレンに苦笑を禁じ得ない。
「さっさと寝るのさ」
「……そうか……!」
 てっきり何かのツッコミが返ってくるかと思えば、アレンはバカ正直にその言葉を受け取ったらしく、ガタンと音をたてて椅子から立ち上がると、さっさとベッドに潜り込んだ。
 思わず忍び笑いを洩らしそうになるが、きっとへそを曲げるだろうから何とか耐える。
 しばらくそのまま様子をうかがってみる。
 5分と経たないうちに、アレンはむくりと起き上がった。
「マスター……眠れないよ……」
「ははははは!」
 あまりにも予想通りの展開だったから、今度こそ声をたてて笑ってしまった。
「まったく……」
 仕方がない。付き合ってやるか。
 力無くベッドの上でこちらを見つめるアレンを、ちょいちょいと避けさせる。そのまま、彼の隣に潜り込んだ。どうせだから、もう寝てしまおう。
 アレンももう一度トライするかのように、もぞもぞと隣で上掛けを掛け直した。
 ……しかしなあ。
 いいかげん、この状態で寝るのもどうかと思う。
 子供で、しかもピノッチアだった頃はあまり意識していなかったが、今のアレンは姿だけは一人前の大人だ。ベッドが狭すぎるという事は無いが、あまり他人に見せられる姿でもない。しかもこいつは、寝る時は決まって、ピノッチアだった頃よりもべったりとひっついてくるのだ。
 あの頃には感じる事のできなかった、体温が心地良いらしいのだが。
 しかし、今さら新しいベッドを買おうなんて言ったところで、アレンは了解しないだろう。それに、経済的にもそんなに余裕がある訳でもない。
「マスターの、鼓動が……」
 微かな声で呟いたと思ったら、アレンはあっという間に眠りに就いてしまった。
 先刻までの興奮状態はどこへやら。
 規則正しい鼓動が、子守り歌代わりにでもなったか。
 まあ、こういうのも悪くない。
 こんな小さなひとつひとつでアレンが喜んでくれるのなら、それで、二人ともが簡単に幸せになれるのだから。
 アレンにならって静かに目を閉じると、いつもよりはるかに早い時間なのに、睡魔がさざなみのように訪れる。
 胸に広がる彼の髪の香りが、心地良かった。


「マスター!」
 潮風に長い髪が乱れるのもまったく気にしていない様子で、アレンが波打ち際で手を振った。
「本当に海が好きだな、アレンは」
 膝下まで水に濡らしたアレンが、元気良く駆け寄ってきた。午後の陽を背後から受けながら、笑顔で見下ろしてくる。
「おじいさんみたいに座り込んでないで、マスターも来れば良いのに」
 確かに年寄りくさいが、この辺りには、腰掛けるのにちょうど良い岩があちこち点在している。
 以前よりも遥かに男前に育ってしまったアレンと海ではしゃぐのは……正直、少々照れるのだ。
「いつか、ここに帰って来ることが出来るようになって……良かったな」
 アレンは、一瞬キョトンと目を見開いた。
 そして、ふっとその目を細める。
「マスターにはまだ言ってなかったっけ……」
「? 違うのか?」
 アレンの表情が、微笑みに変わる。
「違うよ。僕が帰るのは、この海じゃない」
 この海じゃないって、違う海なのだろうか。
「僕が帰る場所は……」
 頬が、アレンの両手にそっと包まれる。その左側に、そっと降りてきた彼の唇が触れた。
 水に濡れた掌とは対照的に、唇はあたたかかった。
 潮の香りの豊かな髪が、ざらりと肩に掛かってくる。
「マスターが、嫌じゃないなら……ね」
「ばか……」
 嫌だなんて、言うと思っているのだろうか。
 こうなることを望んだのは、アレンだけじゃない。むしろ……。
「マスター、海の水って、凄く冷たいんだ」
「今は、ちょっと時期を外してるからな」
 くすくすとアレンは笑う。しかし、その表情はどこか切なそうだ。
「でもね、海面はあたたかいんだよ」
 それは、陽の光を受けているからだ。
「同じ水なのに、海や川や飲み水……みんな違うんだ。不思議だよね。人形だった頃には、気付かなかった」
 ピノッチアは温度を感じることが出来ないから、仕方が無い。
 アレンはまだ人間になって間も無いから、色々な事に慣れていないのだろう。
「まだ、不安な事もあるんだ……。人として、これから暮らして行く事」
 あまりにも違いすぎる、ピノッチアと人間の感覚。
 ピノッチアとして暮らしていた一年を超える時間を、人として過ごす事が出来たなら何かが変えられるのかもしれないと、アレンはそっと呟く。
「最初から、人として生まれていたらどうなっていたかなって、時々思う。でもマスターと出会えて、一緒に生きていく事が出来る、それだけでピノッチアとして生まれてきた事が誇りに思えるんだ」
「アレン……」
「マスターがいるから、今も僕はこうして生きていられるんだよ」
 アレンは膝まづき、身体に両腕を回してきた。
「マスターだけだ。他には何も要らない。僕はずっと、どんなに遠い未来も、必ずここに……」
 アレンが抱いている不安に、気付いていない訳じゃなかった。
 不安が無い方がおかしい。
 永遠でない命。同じ輪廻の流れの中を巡る事が出来たとしても、いつかはぐれてしまうかもしれないという不安。
 今が幸福であればあるほど、それは未来に向けて、どんどん膨れ上がっていくのだ。
 ただ、それをどうやったら拭い去ってやれるのかが、わからなかった。
 だからこんな自分が、アレンにとってこれほどまでに唯一至高の存在であって良いのだろうかと。
 けれど、それは本当はとても簡単な事だった。
「遠い未来の魂がどんな形になっても、俺はお前を待ってるよ」
 両腕を絡めるアレンの背中を、強く抱き返した。
 思えばアレンが人間になってから、こんな風に抱きしめた事はなかったような気がする。

 ただ、抱きしめれば良かったのだ。
 ひとりではない証に。

「ずっと、ずっとずっと……」
 傍にいて。
 マスターがいない世界なら、僕はひとりきりでいい。
 だけどどうせ、生きてなんて行けない。
 たったひとり、あなたがいなければ――。
 潮騒に紛れて、アレンの声が微かに胸を打つ。
「お前と俺の行く道は、いつもたったひとつだよ」
 アレンが生まれる前の、独りで過ごした日々を思い出す。
 もう絶対に、あの頃には戻れない。
 愛おしい、たったひとりの人。
 もしも人の心が最後に海へと還るのなら、この海となってお前の心を受けとめよう。

 君と出会うために、俺はたったひとりで生まれてきたんだよ。


END




●あとがき●
幸せです。はい、幸せでした(笑)。このゲームの切なさと優しさはハンパじゃないので、それを上手く表現できるのか、ちょっと自信はなかったのですが(苦笑)。一応は私なりにその後の幸せを、ね♪



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