UP20020531
feeling
珍しいものを見た。 熱帯魚の餌を買い込んで店の外に出た緒方は、普段その場所で見た事のない人物を見つけて、思わず立ち止まった。 「あれは……進藤?」 緒方の立つ場所から数十メートル。 歩道の植え込みを囲う柵に腰掛けているのは、ぼんやりと路上を見つめているヒカルだった。棋院以外の場所で彼に会うのは珍しい。彼が院生になってからは特に。 「何やってんだ、あいつ……」 足を止めたまま思わず見入ってしまった緒方の視界の中で、ヒカルは手に持っていた何かをおもむろに口許へと運んでいた。 ポワン、と、そこに生まれる透明な球体。シャボン玉だ。 ――おいおい、お前いくつだ。 心の中でそんなツッコミを入れる緒方の目の前で、ヒカルは次の瞬間、あろうことか口許を離れたシャボン玉にパクリと噛み付いた。 「……!!」 シャボン玉、食った!? 「おい、進藤!!」 あまりの光景に、緒方は我を忘れてヒカルに駆け寄った。 「お前、何やってんだ!?」 「……へ?」 突如現れたその姿に、ヒカルは振り向きざま目を真ん丸に見開く。 「あれ? 緒方先生? なんでここにいるの?」 「なんでって、俺は魚の餌を買いに……って、そんな事はどうでもいい! お前一体何やってんだ!」 「何って……」 ヒカルはいささかうろたえながら、手に持ったシャボン玉の容器を緒方の目の前に差し出した。 『おいしいイチゴの味のシャボン玉』 ……ナニ? 「食べられるシャボン玉」 こともなげに、ヒカルは言う。 ガクリ。 緒方は心底、脱力した。 なんなんだ。最近のおもちゃは一体どういう神経の持ち主の企画で作られているんだ。なんでわざわざシャボン玉なんぞを食わなければならんのだ? おちゃめにも限度ってモノがあるだろう!? 「いい歳して、奇妙なモン間食してんじゃねえよ。驚くだろうが!」 はたしてこれが間食になるのかどうかは謎だが。 怒りも露な緒方にたじろぐヒカル。なにも彼とて緒方を驚かすためにやっていた訳ではない。勝手に通りかかっておいて、ずいぶんな言い草ではないか。 「ちょっと試してみただけじゃん……」 普段は必要以上に子供扱いするくせに、こういう時だけ『イイ歳』とかって牽制しないでほしい。ヒカルはそんな風に思う。 『ほら、だからやめときなさいって言ったのに〜』 ヒカルの隣にいる佐為の呟きは、緒方には聞こえない。 うるさいな、と心の中で呟くヒカル。緒方に目撃されたのはイレギュラーなのだから仕方がない。けれどたしかに、シャボン玉を口にしている子供の姿を知らない人間が見たら、緒方でなくとも驚くだろう。 「緒方先生、魚飼ってんの? 熱帯魚?」 「あ? ああ」 話を逸らすかのように質問されて、今度は緒方が少々たじろいだ。 ヒカルは興味深げに、小首をかしげて緒方の手の中の小さな袋を見つめている。 「……?」 なんだか、いつもと違うような気がする。 緒方は、瞬間的にそんな風に感じた。何故か今日のヒカルは、いつもより元気がないような。気のせいだろうか。 「おい、進藤?」 「なに?」 緒方の呼びかけに、不思議そうな表情で彼を見上げるヒカル。 「いや、……こんなところで道草くってないで、はやいとこ家に帰れよ」 そんな言葉しか、出なかった。 「ちぇ、わかってるよーだ」 おおよそ中学生には見えない仕草でそっぽを向くヒカルに、緒方はいささか戸惑いながらも背を向けた。 「じゃあな」 そう言い置いて歩き出すが。 数歩進んで、ふと振り返る。 「進藤?」 ヒカルはまだそこに腰掛けたまま、背を丸めて溜息をついていた。自分の名を呼んだ緒方の方へ、ゆるゆると顔を向ける。 「あはは、は。お腹、空いた……」 胃のあたりを押さえて苦笑いしているヒカル。 おいおいおい。 まさか元気のない原因は、空腹か? 俺にどうしろって言うんだ? そのまま立ち去れば良いものを、緒方は立ち止まって逡巡してしまう。もともと、彼はこれでけっこう面倒見がいいのだ。 ぐるぐると思考は回転する。 この場合。この場合はやはり、そうなのか? どうして俺が? ここで会ったからには? そういう事か? 「……何か、食っていくか?」 ほんの少し、渋い顔。 しつこいようだが、彼は面倒見が良いのだ。 対してヒカルの表情は、実に満面の輝きを放っていたのだったが。 「で、ラーメンかよ……」 なんでもいいぞ、との緒方の言葉に対し、ヒカルの希望はラーメン、だった。 なんでも、と言われたら普通はもっとこう……いや、あまり高級な食事に関しては、彼の場合思いもつかないのかもしれない。歳が歳だし、生活習慣も違うだろうし。それにしても。いや、別にかまわないが。 単にラーメンがヒカルの好物であるという事は、緒方は知らない。 「おがたせんせ、ありあとー」 あふあふとラーメンを口に運びながら、こぼれんばかりの笑顔を見せるヒカル。 考えるのも馬鹿らしくなって、緒方もラーメンをかき込む事に専念する事にする。 「……」 ヒカルは、そんな緒方を見つめた。 「あん?」 視線に気付いて手を止めた緒方に、ヒカルは笑いかける。 「緒方先生って、なんかすごいよな〜」 スーツの上着を椅子にかけた緒方は、無遠慮な振る舞いでラーメンを胃にかき込んでいる。そんな姿が、なぜか異様に様になっているのだ。 必要以上に上品ではなく、また粗野でもなく。 目の前に鎮座しているのはラーメンなのに、それを食していてなお、彼はインテリっぽい。その事についての賛否はともかく。 「何がすごいって?」 「ラーメン食べてるのに、なんか」 カッコイイ、と、ボソリと呟く。 『ヒカルみたいに、あちこちに汁飛ばしたりもしませんもんね〜』 (わァるかったな) 緒方に苦手意識のあるヒカルと違って、佐為はおおむね緒方には好意的だ。というか緒方や塔矢親子のような真性の碁打ちには、大抵好意的なのかもしれないが。 しかしだからと言って、ラーメンの食べ方を緒方と比べられても困る。 ヒカルの言葉に、緒方はいつものように瞳を眇めた。 「当たり前だろ。俺を誰だと思ってんだ」 そんな事で威張らなくてもいいと思うけど。 「んで?」 緒方はチラリとヒカルに視線を向ける。 「んで……って?」 それに対し、キョトンとするヒカル。 「お前、本当に隠し事が下手なんだよ。今度は何を抱えてやがる」 「――……」 ヒカルは、緒方の物言いに言葉をなくした。 ――この人って、なんで。 緒方もヒカルの空腹という目くらましに一瞬引っかかりかけたが、そもそもヒカルがあんな道端でぼんやりしている、というところがすでに変なのだ。意味のない行動を取る時には、大抵は何がしかの理由があるものだ。 大体今日のヒカルは、緒方の言葉に対する反応も極めて鈍い。いつもなら食って掛かりそうな場面でも、ばつが悪そうに顔を逸らすばかりだ。 佐為も驚いて、緒方の方を見つめていた。 ――この者は。 囲碁の世界の若手トップであるという事実は伊達ではないという事か。 状況判断。観察眼。対局で実力を発揮するために必要なそれらは、碁の世界では『大局観』などと呼ばれていたりもするが、そんな隙のない彼の瞳は、まわりの人間の微妙な変化も見逃さない。それにしてもあんな一瞬で、ヒカルの様子の変化を見て取ってしまうとは。 ヒカルに元気がない事は、無論佐為も気付いていた。何しろ一番近くにいるのだ。そしてその原因が何であるのかも、大まかなところは予想がついていたのだけれど。その事をヒカルに告げて、彼の無用の動揺を引き出す結果になる事を怖れた。 佐為にとって何がすごいのかといえば、佐為が気付いていながらも何となく口に出すのを躊躇してしまっていた事を、ズバリあけすけに指摘してしまうそんな緒方の性格だ。 「お前のしけた面はわかりやすいんだよ」 そんな風に言う緒方に、ヒカルは返す言葉がない。若獅子戦直前の頃しかり、きっちりと前例があるからだ。 半ば成り行きとはいえ、本当に緒方は世話焼きかもしれない。 面倒であれば黙っていればいいのだが、彼がそれをしないのは、何か深い事を考えている訳ではなく、おそらくそういう性質なのだろう。彼の方からアプローチをかける事はきわめて少ないが、相手がほんの少しでも何かの兆候を見せた場合に、緒方は絶対にそれを見逃さないし、またきちんと受けとめる。遠慮がなさそうに見えるのは、いつでも向き合う相手を自分と対等に置いているからだろう。 いつも冗談まがいに子供扱いするヒカルに対してでさえ、例外ではない。 まいったなあ、とヒカルは思う。 たまたまだったのか、それとも何かの要因がそうさせたのか。それはわからないけれど。 普段苦手としているこの人物を、たしかにヒカルは一瞬頼りにしたのだ。 あの時、偶然通りかかった緒方に対して、ヒカルはごく自然な仕草で己の心の緩みを吐露した。緒方が、それを敏感に感じ取る人間である事を知っていたからだ。 この場合、単にあの時通りかかったのが緒方だったからで、それがもし他の誰でも構わなかったのかもしれない。もっとも、アキラや和谷、伊角あたりでは駄目だったかもしれないが。悩みが悩みだけに。 「あ、あのさあ」 ヒカルは俯いたまま、それを切り出した。 経験上、緒方がごまかしのきかない相手である事は知っているし、こういう場面で逃がしてくれるような人間でない事もわかっている。だから、自分を奮い立たせるようにその顔を上げた。 「これ、最初に見つけたのは和谷なんだ」 ヒカルは、先程のシャボン玉を取り出した。 「伊角さんもさ、自分ではやらないけど、俺達が遊んでるのを見てるのは楽しいみたいで、すごく乗り気だったんだぜ。あいつら、人が失敗するの見て大笑いしてるんだ。いやになっちゃうよな。それで」 意味のなさそうな事を、一気にまくしたてるヒカル。 伊角や和谷といった人物が誰なのか、緒方にとってはあまりピンと来なかったが、院生の仲間であろうという事だけはわかる。 「それで……だから」 それで。 だから。 「どうして……このままじゃ、だめなのかな」 ヒカルは再び俯いた。 プロ試験が始まる。 ヒカルはつい最近まで、その事を少しも意識していなかった。 思えば院生試験の時もそうで、ヒカルはその時も、ただ走り出す事しかできなかった。引きとめる手も、罵倒の声もすべて振りきって。そうしなければ、アキラに近付くための一歩を踏み出せなかったのだ。 そうして今度はプロ試験で、ともに学び高め合ってきた仲間達と凌ぎを削り合いながら勝ち上がっていかなければならない。次のステップへと踏み出そうとする時、どうしても、ヒカルはひとりになってしまう。大切な局面では、いつもいつも。 「お前――」 緒方はテーブルの上に肘をつき、手の甲に細い顎を乗せた。 「お友達とお手々繋いで仲良くプロになれるとでも思ってんのか?」 「そんなんじゃないよ!」 わかっている。 今までだって、そうやって来た。 ――わかっている。 立ち止まる者を置いて。先を行く者を追いかけながら。そういう世界である事は無論承知しているし、その事に疑問を感じている訳でも、嫌がっている訳でもない。そうしながら時には誰かと励まし合ったりもして、前へ前へと進んで行く。 だから、少しだけ。 「ちょっとだけ、懐かしくなっただけじゃん……」 中学校の部活動や囲碁大会のような。あんな和気あいあいとした空間を、ほんの少し思い出してしまっただけだ。 ――ヒカル。 佐為は、ヒカルには気付かれないように、そっと背後からヒカルの髪を撫でた。 ヒカルだって、いつも立ち止まっている訳ではない。むしろ、大抵においてはしっかりと前を見据えて、ちゃんと上へと向かって突き進んでいる。いつだって、高みへの希望をその内に抱きながら。 ほんの一瞬立ち止まったのを、緒方が見逃さなかっただけだ。 緒方にしたって、ヒカルの気持ちがまったくわからない訳ではない。たとえプロを目指していても、子供は子供。大人ですら躊躇するこの厳しい世界で、常時平穏でいろという方が難しい。けれど緒方がヒカルに、そんな甘えを許してやる訳にはいかないのだ。背中を押す事こそすれ、自分の立つ場所を怖れる人間の頭をよしよしと撫でてやったのでは、何の解決にもならない。ヒカルもその辺の事はわかっているだろう。 ただ、吐き出す事で安定を図るのを、手伝ってやれればと。 そう、ただ聞いてやる事だけでも。 今ヒカルが緒方に望んでいるのも、つまりはそういう事だ。慰めて欲しい訳じゃない。ただ、ちょっとだけ吐き出す場所が欲しかった。 無意識の内に、緒方を適任者として選んだのだろうという事を、ヒカルの背後にいる佐為は密かに感じ取っていた。緒方なら、他人事としてある程度突き放して接する事で、ヒカルの今の行動を『相談』ではなく『つぶやき』にしてくれる。己には難しい技だ。 「プロはいいぜ」 「は?」 緒方の言葉に、ヒカルはパッチリと目を見開いた。 「とっととプロになって、さっさと最強になっちまえば、あとは楽なもんさ。後から来る人間の手を、余裕でちょこっと引いてやればいいんだ。そうすりゃ周りは感謝感激だぜ? 殺伐とした殺し合いも必要ないしな」 「……」 真実は、そんなに甘いものではないだろう。最強などという言葉も、そうなった後だって。 だが緒方は、こともなげにそんな事を言う。 「意味もなく止まってるくらいなら一歩でも進んだ方が得だぜ。この世界は迷路じゃない。間違ってもぶつかっても、その時は方向転換すればいいだけで、後戻りなんか必要ないんだからな」 存外に難しい事を、緒方はお気軽に言い放つ。こういうところが彼の強さにつながっているのかもしれない。本当は歯を食いしばり這いつくばりながらここまで来たであろう彼だから、そんな言葉にも説得力があるのだろう。 「……俺だって、やってやるさ!」 半ばムキになったように言い放つヒカル。 本当は。 本当は緒方の言葉に少し持ち上げられた事は、目の前の本人には秘密だ。 「俺だって今度のプロ試験通って、すぐに塔矢に追いついて、さっさと追い越してやるんだから。あんたにだって……!」 半ば浮きあがりかけた腰を、ヒカルは慌てて落ち着けた。 コホンと、咳払いをする。 「……すぐ、だからな!」 ビシ、と効果音をたてそうな勢いで、緒方を睨み付けるヒカル。そんなヒカルを、緒方の方は楽しそうに眺めている。 「せいぜい期待させていただくよ」 唇の端を吊り上げる緒方に、ヒカルはベーッ、と舌を出す。 勢いに任せて、テーブルの端に置かれたコショウの容器を握った。パカンとふたを開けて、食べかけのラーメンにバサバサと振り入れる。 「と、あ……アッグション!!!」 「……!!」 思い切り、顔をしかめる緒方。 「……ックション! あ〜……」 「……」 どこかで見たような光景に、緒方は眉間を押さえる。 「お前なあ」 思わず懐からハンカチを出しかけて、やめた。 ラーメン屋らしく各テーブルに常備されている箱ティッシュから数枚引き抜き、それをグシャリとヒカルの顔に押し付ける。 「……ごめ」 「てめえ、プロになる前に少し大人しくなれよ」 意地悪そうな苦笑を浮かべる緒方に、今度はヒカルの眉間にシワが寄る。 「どーせ」 照れ隠しのように悪態を吐くヒカルを眺めながら、それでも普段通りに戻っている彼を眺めて、緒方は密かに息をついたのだった。 らしくない。 今の自分を、緒方はそんな風に評価する。 放っておけばいいものをと、自嘲気味に考える。知らないうちに自分の生活の中にヒカルの存在を取り込んでいるそんな事実に、自分自身でも驚いているのだ。 先刻ハンカチを出さなかったのは、いつかのように再び鼻水で汚されるのを懸念したからではない。持っていたのが、以前ヒカルからもらったハンカチだったからだ。なんだかんだといって結局は使用しているのだと知られるのは、ちょっとばつが悪かった。 あまつさえ、それを懐から取り出すたびに、ヒカルの顔を思い出しているなどと。 もらい物を使用する人間の、哀しい性かもしれないが。 「どうかしてるぜ」 ご丁寧にヒカルを駅まで送り届けた後で、緒方は煙草をくわえ、それに火をつけた。 人一倍警戒心が強いくせに、隙を見せるのが上手い。ほんのささいなきっかけから、他人をズルズルとその懐に引き入れる。 あれは、天然で人を惹きつける術に長けている類の人間だ。 そうやって、自分も? そうして質の悪い事に、自分はこういう今の状況を、決して悪くはないように思っているらしい。無用に敏感な自分が、ヒカルの心の動きも感じ取ってしまっているから尚更。 戸惑うヒカルが、己に向ける眼差しを。 やれやれ。 胸の内に渦巻く様々な事をそんな一言で無理矢理まとめあげ、緒方は夕闇の中、愛車に乗り込み帰路につくのだった。 END |
●あとがき● ハンカチは伏線なのでしたー。いや、そんな事はどうでもいくて。なんて微妙な話なんだ。消化不良でやられそうです。やれやれなんて、氷村が言いたいですよ。まあ今回は、タイトルの通り予感て感じで。次回補完できるでしょうか。ところで食べられるシャボン玉ですが、これちゃんと食べられる人っているんでしょうか。はい、氷村は試して玉砕しました(爆笑)。 |