UP20020707

ウソもホントも





 近付いてきた緒方の顔を、ヒカルはただ凝視していた。

 視界いっぱいに広がった緒方の顔を見開いたままの目で見つめていながら、己の唇に触れてきたものが何であるのか、確認するまでにはかなりの時間を要した。
「――……」
「……目くらい閉じろよ。色気も何もあったモンじゃないな」
 唇を離した緒方の、第一声。
「――ッッ!!!」
 ズザザザザザッ、と、腰を下ろしていたソファの上を器用に尻で滑って後退するヒカル。
「なななな、何すんだよッ!?」
 手で唇を押さえて抗議するヒカルの顔は、ゆでダコさながらに真っ赤である。
「何って、見た通りの事だろうがよ。何だよ、文句でもあるのか?」
 そんな事はありえない、とでも言うように自信満々な緒方。ヒカルの初めて(笑)を奪ったという自覚はあるのだろうか。

 こんな風にじゃれ合うような間柄になってから、ほんの少しの時が過ぎた。
 相変わらず歳相応に子供っぽいヒカルは、やはり相変わらず意地の悪い緒方に苛められる日々を送っている。
 もっとも、お互いプロであるが故に、そうそう二人でいる時間を取れる訳でもないのだが。そうでなくともヒカルは、最初の不戦敗を取り戻すのに必死だったりする。昇段するためには、一戦でも多く勝たなければならないのだ。
 それでもやはり。
 偶然ではなく、意識してふたりで会う事から始めて。
 何となく照れくさかったそんな空間にも、最近ようやく慣れてきた。

「も、文句って、こういうのは一言断ってからじゃなきゃ、」
 心の準備が……などと口走るヒカルは、すでに自分が何を言っているのかわからない。
「なんだよ、断りゃいいのか? んじゃ今からするぞ」
「え!? ちょ、ちょと緒方せ……」
「だまれ」
 グイとヒカルを引き寄せた緒方の顔が、また近付いた。
「――……ッ」
 そんな緒方の強引さに、ヒカルは何も言えないまま瞼を堅く閉じてしまう。
 再び重なった唇は、想像していたよりも全然柔らかかった。
 先刻はそんな事を、感じる余裕もなかったのだ。
 暖かなそれに翻弄されて、ヒカルは息を呑んだまま、呼吸をする事も忘れてしまう。
「お前、真っ赤だぜ。こういうのは初めてか?」
 ヒカルの肩を抱いたまま至近距離で呟かれて、ヒカルは眉間に皺を寄せる。からかうような口調がカンに障った。
「こ、このくらいどうってことないよッ!」
 強がるようにそんな事を言ってしまっても、緒方の意地の悪そうな微笑は崩れない。そんな態度がムカつくんだとヒカルが口に出す間もなく、緒方はヒカルの胸に手を当てた。
「ふーん。ここ、バクバクいってるぜ」
「そッ……そんな事」
 ない、と言いたいところだが。
 跳ねまくっている動悸は、隠しようもない。
 緒方はクク、と忍び笑いをもらして、ポンポンとその胸を叩いた。
「お前、可愛いよ」
 緒方のトドメの言葉に、ヒカルは逆上した。
「お、緒方先生!!!」
 ハハハハハ、と、その身を離して笑い転げてしまう緒方。わなわなと身を震わせてしまうヒカルをよそに、緒方は腹を抱えて笑い続けていた。
 本当に、意地が悪い。
「なんなんだよ、もうッ……」
 面白くてたまらないと言わんばかりの緒方の反応に、ヒカルはどこに怒りをぶつけていいやらわからない。が、握りこぶしを作るヒカルの頭に大きな掌を乗せた緒方の表情は、とてもやわらかなそれに変わっていた。
 くしゃりと、その髪を掻き回す。
「そう怒るなよ」
「そんな事言って……ッ」
 再び抱き寄せられたヒカルは、真っ赤な顔でただ俯いた。伏せ目がちになったまま、言葉を失ってしまう。本気で嫌がってはいない証だ。
 時折見せるこんな顔も、緒方は気に入っていた。
 クシャクシャと髪を掻き回していた手を、そのままの流れでヒカルのこめかみへと移し、その頬をさらりと撫でる。
「お前だって悪いぜ。そんな風に――年中ホイホイとお手軽に、人を誘うみたいな顔しやがって」
「誘うって何だよ……」
 ヒカルは悪態を吐きながらも、戸惑うように揺れる眼差しを緒方に向ける。
 そういう顔が、だよ……と緒方は思うのだが、ヒカルにそんな自覚はないらしい。
「実際お前、変わったよ」
 そんな風にちょっとの事で戸惑うような顔をするのは、いわゆる歳相応、と言えるのかもしれないが、仕草そのものは、色事を知る大人のそれだ。本人に自覚がないのが、なお質が悪いと言えなくもないのだが。というか、わかっていてそんな顔を見せているのだとしたらそれはそれで末恐ろしい。
 そんなヒカルに密かに翻弄されている緒方は、これで案外重症なんだな、という事を、最近になって自覚した。
「変わったって?」
「さあな」
 例えば色っぽくなった、などと口にしたら、今度こそ殴り飛ばされそうだから、緒方はただニヤリと笑う。
 現実問題、ヒカルくらいの年齢というのは本当に微妙だ。緒方のような大人には絶対に追いつけない部分を持つ子供でありながら、妙に子供という領域から逸脱してしまっている部分もある。今日子供だった者が明日突然大人になる訳ではないのだから当然かもしれないが、つまりがヒカルは丁度、大人になりかけている子供、といったところなのだろう。
 緒方とヒカルの間にある差といえば、自分を取り巻く情報や環境の処理能力の有無、くらいのものなのかもしれない。
 ――少々難しい。
 けれどその辺が未熟なままでありながら、最近のヒカルは緒方の想像を遥かに凌駕するような一面を、突然見せる。そこが緒方にとっては質の悪い事態であるとともに、面白いとも思ってしまうところなのだが。
 顔を合わせるたびに生まれる驚き。

 緒方は肩を抱いていた腕に力を込めて、そのままヒカルの身体をソファの上に倒してその身体の上に圧し掛かった。グシャグシャとからかうようにその髪を掻き回すと、ヒカルは苦しそうに身をよじる。何となく、飼い猫とその飼い主のじゃれ合いのような風情だ。
「緒方先生……ッ、重たいよ」
 ヒカルの抗議を受けて、その髪を撫でていた手を離して、緒方はヒカルの身体を自分の下から引きずり出し、ゴロリと反転させる。
 今度はヒカルが、緒方の上に乗る形になった。思わずといった体でハフ、と息をついてしまってから、ヒカルは負けじと口を開いた。
「緒方先生だって、変わったじゃん……」
「どこが」
「どこがって……イロイロだよ……」
 それにしてもこの二人、よくもこう狭いソファの上でべったりと引っ付いたまま会話できるものだ。
「俺はさあ、緒方先生がこんな風に人で遊びまくる人だったなんて知らなかったよ」
「ご挨拶だな」
 本当に、緒方がこんな人間だとは、全く思っていなかった。
 もともとヒカルに対して遠慮のない態度ではあったが、こんな風にじゃれあっているという事実が、ヒカルにとってはとても不思議な現象だ。出会ってからこうなるまでに三年近くの時間を要したのだから、人が変化するのも当たり前の事なのかもしれないが、少し前までは、想像だにできなかった。
「変わった、ねえ?」
 ソファの上で自分の腕を枕にしたまま、緒方は視線をさまよわせる。
 もちろん、緒方にだって自覚がない訳ではない。
「緒方先生って、本当はこういう人だったのかって思ったよ」
「……」
 本当はこういう人だったのか、と言われると、正直その点に関しては、緒方は悩む。
 本当、とは何だろう。
 今の自分のヒカルに対する付き合い方が本当の自分なのか、ときかれたら……それはどうだろう。自分は、こんな人間だっただろうか。
 何時も颯爽としていて、居住いも正しく。理性的でいて、時折押さえ難いほどの情熱をちらつかせる。
 こうなる前にヒカルが見ていたそんな緒方の姿は、別に外界に対して取り繕った仮面ではない。誰かと対面している時とひとりでいる時の態度に、まったく差などなかった。
 しかし今、ヒカルと共にいる時に、そんな姿勢が崩れているのは事実だ。
 けれど、それは。
「今の俺は、本当の俺じゃないかもしれないぜ」
「……?」
 緒方の言葉に、ヒカルはいぶかしむような顔を見せる。
「いつまでもお子ちゃまなお前に合わせてるだけ、とかな」
 もしも今の自分が正直な自分じゃないとしたら。これこそが本当の部分を押し隠したウソの姿なのだとしたら、それを知ったらヒカルはどうするのだろうと、緒方は思う。
 ヒカルと会っている時にこそ、仮面をつけているのだと知ったら?
 大抵の場合は、人は寄り添うべき相手の前で力を抜き、本当の姿を見せるものなのだろう。また、相手にもそれを求めたりするものなのではないか。
 私の前では本音を見せて、なんて。安っぽい恋愛ドラマでヒロインが言いそうな台詞だ。

「もし……もしそうなら」
 ヒカルは自分が圧し掛かったままの緒方の胸の辺りに視線を這わせた。
「俺は嬉しいけど」
「は?」
 意外なヒカルの一言に、思わず目を丸くする緒方。
「だって、合わせてるって事は、その人の事すごく意識してるって事じゃん」
 合わせようとしているという事は、誰かが隣にいるという事を、認識しているから。そういう事なんじゃないかと、ヒカルはたどたどしいながらも考えを巡らせた。どうでもいい人間相手なら、わざわざ合わせる必要なんてないはずだし。
 他の誰かならともかく、この緒方が、だ。

 そんなヒカルの見解に、緒方は考える。
 ――物は考えようという事か。
 それでは。
 恋人と会う時にらしくもなく一生懸命着飾る女と、自分は大差ないという事か。
 確かに、大なり小なり好みの差こそあれ、自分のために可愛くなろうとする女は、その賢明さに好感が持てるものだろう。恋人のために虚勢を張り、知ったかぶったり強いフリをする男も同じだ。

 なんなんだかなあ。
 俺は、恋する乙女か?

「だから、緒方先生がそういうのだったら、俺は嬉しい。かな。俺はそういうの、苦手だからできねーけど」
 あはは、と照れ隠しのように笑うヒカル。
 それがウソでも本当でも、それが自分のためであるなら。

 えらく自信たっぷりの考え方のようにも感じるが、ヒカルのその考えは、きっと正しい。多分緒方は、相手がヒカルだから、こんな風にぐずぐずと崩れているのだ。それが本当かウソかなどという事は、ヒカルにとってはどうでも良い事なのだろう。
 まったく、この男は時々変なところで鋭い。
 緒方自身が気付いていないところまで、そうやって見透かしてしまうのだから。
「お前のレベルに合わせてやってんだ。感謝しろよ」
 相変わらず嫌がらせのような緒方の言葉に、ヒカルは途端にプッとふくれる。そんな顔のままガバッと起き上がって、緒方の身体の上から離れて床に直に腰掛けた。せっかく人が素直に想いを口にすれば、これだ。本当に意地が悪い。
 そうしてからチラリと緒方の方を盗み見ても、緒方はただニヤニヤと笑っているだけだから、なお腹が立つ。けれど緒方がこういう性格だという事も、ヒカルはいやという程知っている。
 諦めたように、ヒカルは床に座り込んだままの身体を反転させて、ソファの方に向き直った。そのままコトン、と柔らかな布の上に頭を預ける。
 確かに緒方から見て、自分はレベルが低いのかもしれないケド。
「だって、だってさ。俺まだ不思議なんだよ。緒方先生と、こんな風に近くにいるのって」
「嫌なのかよ」
「違うってばッ」
 カッとキバを剥くヒカルの頭を、緒方はぽんぽんと叩いてなだめる。「冗談だろうが」と呟くと、ヒカルはまたシュンと大人しくなった。
 嫌なんじゃない。
 そうではないけれど。

 緒方とヒカルの今のこんな関係は、自然の成り行きに任せていれば、絶対に生まれるはずのなかったものだ。わざわざそうと意識して互いの傍らへと歩み寄ったから実現した、特別な関係。
 そんな風に、特別だから。
 不思議だとしか、言いようがないのだ。
 楽しい。面白い。時々不愉快で、時々嬉しい。――好き?
 色々な言葉が脳裏を過ぎるけど。
 何だか不思議。それ以外に言葉が見つからない。

「不思議……なんだよ」
「わかってる」
 ヒカルがそんな風に、頭の上に疑問符をいっぱい浮かべながら自分のあり方を模索しているのがわかるから、だから緒方もヒカルに対して大人げないスキンシップを計っているのだ。ヒカルが不安を抱いて、暗中模索にはまり込まないように。
 それがもしもウソの姿だと評されるなら。
 それはとても、優しい嘘だ。
 そしてそんな嘘は、多分近い将来に、本物になる。
「変わろうが変わらなかろうが、嘘でも本当でもなんでも良いさ。前にも言ったろ? 楽しきゃいーんだよ」
 あまりにもらしいというか、少々乱暴な意見のような気もするが、緒方がそんな風に断言する辺り、今みたいにヒカルの髪をグシャグシャに掻き回したりするのは、緒方にとっても楽しい事なのかもしれない。
 変な人。でも悔しいけど、今はそれが、居心地良い。
 ヒカルは再びソファの上に乗りあがり、緒方の上に上半身を倒した。
 そんなヒカルの微かな重さを受けて、緒方は寝そべったまま瞼を閉じる。
「……俺は少し寝るぞ。最近睡眠不足できつい」
「俺も……」
 ヒカルにしても、今のようにスキンシップ過剰なのは、普段ひとりきりで難しい事を考えながら時を過ごしているせいなのかもしれない。
 こんな風に静かな闇の中へ、二人で行くのもいいだろう。


 まどろみの中で、緒方はその胸にヒカルの吐息の温かさを感じる。
 この温かさと、その身体を抱くこの腕が、今の己の本物なのだ――と。
 心の中だけで呟いた緒方は、静かな波の中へと、その意識を沈めていった。




END




●あとがき●
何とこの二人、お話の最初から最後まで1メートルたりとも離れておりません。おっそろしいバカップルですね〜〜。脱帽します。自分で書いといてナンですが、どうしようもありませんね、この人達は(笑)。
あなたなら、ウソとホント、どちらがお好みですか(笑)?



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