UP20020731

素直になれっ!





 ここ数日の緒方は、めまぐるしく忙しい。
 棋院での手合やら各所への出張やら、最近の予定はびっしりと埋まっていて休む暇がない。せっかく地方に出ていても、対局の事やら講義の事やらで手いっぱいで、のんびりと観光などしている余裕もなかった。
 やっとひと段落ついて東京に戻ってきたその足で、緒方は何となく名人の囲碁サロンに寄ってみた。
 そこでは珍しく、アキラが客相手に指導碁を打っていた。
「アキラ君」
「……緒方さん!」
 聞き覚えのある声に振り返ったアキラは、パッと双眸を崩した。
「こんにちは。お忙しそうですね。今日はどうしたんですか?」
「アキラ君は今日はここだったんだな。珍しいな、進藤は一緒じゃないのか?」
「……」
 緒方の言葉に、アキラは一瞬考え込むように口許に手を当てた。
「進藤プロなら、最近見ませんよ」
 客のひとりが、アキラの代わりのようにそう告げる。
「へえ」
「というか……」
 アキラは、微妙に眉間に皺を寄せる。
「2、3日前にも約束していたんですが、その時に急用が入ったとかでここには来なかったんです。そのあと携帯の方に電話を入れたら、いきなり慌てたように『ちょっと待って』と言ったきり電話を切られて……それっきり」
「ふうん?」
 きっとアキラの事だから、それきり連絡し直す事もできずにそのままになってしまっているのだろう。
 一方的に通話を切っておきながら、あらためて連絡をしないとは不届きな奴だ。それができない理由でもあったのかもしれないが、あの男の事だから、うっかり忘れてしまったという事も充分ありうる。というか、むしろそちらの方が可能性が高い。
「まあ、そのうちまた連絡を入れてみます」
 さして気にもしていないようにアキラは笑うが。
 お互いのスケジュール調整の中で、一緒に打てる時間などそうそう取れないのだろうに、と緒方は思う。それにきっと、何事かあったのでなければいいがと密かに心配もしているのだろう。
 そんなアキラの性格を良く知っている緒方は、彼を安心させるようにポンポンと肩を叩くのだった。




 囲碁サロンを出て、緒方はすぐにヒカルの携帯に電話を入れた。
『お掛けになった――……』
「……チッ」
 電源を切っている。
 よくよく考えて、今日は手合の日じゃなかったかな、と思い直した。ヒカルのスケジュールを、頭の中で反芻してみる。たしか、そうだ。場所は棋院だったはず。まだ終わっていないのだとすれば、今行けば本人に会えるのではないか。
 旅の疲れをものともせずに、緒方は一度自宅へと戻り、そのまま棋院会館まで躊躇なく出掛けていった。

 棋院の前に車を停車させたところで、ちょうど入口から出てきたヒカルの姿を見つけた。相変わらず、こういうところでピッタリと息の合う二人だ。
 車のドアを開けると、その音に気付いたヒカルがこちらに視線を向ける。
 その顔が、一瞬引きつったように見えた。
「おッ……」
「おい、進藤」
 久しぶりに見る緒方の姿に、ヒカルは何とも複雑な表情を見せながら一歩後じさる。
「おい?」
「お、緒方先生……ごめん、俺、忙しいから!」
「進藤!?」
 あろうことか、ヒカルはその姿を見るや猛ダッシュで逃げ出したのだ。
「進藤! こら!」
 緒方も走り出しかけたが、エンジンを掛けたままの車を放置していく訳にも行かない。細い路地に入られたら、車で追いかけても撒かれてしまうだろう。
「なんなんだ、あいつは!」
 なんで逃げる必要がある。
 呆然と、そこに立ち尽くす事しかできない緒方。
 何故自分がこんな仕打ちを受けなければならないのだ。会わなかった期間に、一体何があった? さっぱりわからない。頭を煮え立たせながら乱暴な仕草で車に乗り込み、ふとアキラの心配が杞憂ではないのではないかと思い付く。
 本当に、何かあったのか?
 アキラにも、緒方にも話せないような何か。
 手合には出ていたのだから、そうそうおかしな事は起こってはいないはずだが……。

 グルグルとアテもなく車を走らせながら考え込んでいた緒方だが、やはりここはハッキリとさせておいた方がいいと結論を出し、そのままヒカルの家の方向へとハンドルを切った。




 用意周到に、緒方は近所のコンビニの駐車場に車を停め、歩いてヒカルの家へと向かった。再び逃げられる事のないように、だ。自分の足でなら、ヒカルが逃げ出しても追いつく自信はある。
 ヒカルの家のすぐ傍まで来たところで、その家の前にふたつの人影を確認した。一方の後ろ姿はヒカル本人だ。こちらを向いている、もう片方の人物は知らない。
 緒方は思わず、通りの角に身を潜めてしまった。
 ――なんで俺がこんな事を……。
 頭を抱えつつ覗き見てみれば、ヒカルは心なしか俯いているようだ。
 もう一方の人物はそんなヒカルを見下ろしているが、心持ち据わった瞳でヒカルを捉え、がりがりと頭を掻いている。タンクトップの上に派手な柄のシャツを引っかけただけの男は、長めの髪を自由に遊ばせている。
 遊び人風のその男にヒカルがいじめられているような風情に見えなくもなかったが、どうもそういう事ではないらしい。何となく漂う雰囲気は、そこそこ親密そうなそれだ。
「……で、どーすんだよ」
 男の、心持ち呆れたような声音。
「だから……加賀に相談してんじゃん……」
 加賀と呼ばれたその男は、はああ、と深い溜息をついた。
「おめー、人がいいのも程々にしろよ」
「だって……」
 解決を見ずに何事かを囁き合う二人に、緒方は苛立ちを覚えた。
 なんなんだ。何事かを相談するなら、ここに適任者がいるだろうが。
 ――それをジェラシーとか呼ぶのかどうかは知らない。
 しかし緒方は、そこにひっそりと佇んだまま自分の携帯を取り出した。ヒカルのメモリを呼び出し、その場でコールする。
 ほぼ同時にヒカルのポケットで着信を合図するメロディが鳴り響き、ヒカルが仰天するさまが見て取れた。今度は電源を入れていたらしい。今会っている彼に連絡を取るのに、使ったのかもしれない。
 緒方からの着信をあらわす特有のメロディ。しかしヒカルは慌ててそれを取り出し、急いで操作をした。
 すると。
『ただいま電話に出る事が――』
 ――おい!!
 どういう事だ、そりゃあ!!
「いいのかよ」
 加賀の呟き。
「……いーんだ」
 よくねーだろ!
 まなじりを吊り上げ、まさに潰さんばかりの力強さで携帯を握り締める緒方。
 ここまでコケにされる理由が、自分にあっただろうか? 思い付かない。むしろやましい事があるとするなら、彼の方にだろう。
 隠し事をされているという、その事が気に入らない。
 ヒカルは普段から、自分の事は案外自分で解決してしまうところがある。だから緒方も、大概の事には口を出さずに放っておいているのだ。けれど今のように誰かに頼らなければならないような状況下で、自分の存在を無視するとは何事だ。

 頭に来た。

 緒方は、眉間に皺を寄せたままヒカルに向かって歩き出した。
 ズンズンと近付いてくる緒方に最初に気付いたのは、当然ながらこちらを向いている加賀だ。ヒカルに向かって「おい、後ろ」と囁く。
 クルリと振りかえったヒカルは、恐ろしい形相のその姿に飛び上がりかけた。
「――――ッッ!!!」
「おい、進藤」
「お、おがッ……」
「お前なあ! ……あぁ?」
 激しく文句を言いかけて、振り返ったヒカルの腕の中のものに、緒方の視線は釘付けになってしまった。

 間。

「……なんだ、これは」
「…………」
 口をあわあわさせる事しかできないヒカルからの答えはなかったが、答えははっきり言って、聞かなくてもわかる。
 ヒカルの腕の中には、ムクムクの子犬がいた。
「……どうしたんだ」
「……3日前に、そこの通りで……見つけた」
「飼う気なのか?」
「俺は、飼えない」
 ばつの悪そうなヒカル。
 たっぷりの間の後で、緒方はクワッとヒカルに詰め寄った。
「馬鹿か! もといた場所に戻してこい!」
 予想通りの緒方の言葉に、ヒカルは半泣きになって抵抗する。
「だって、鳴きながらついてくるんだよ! 絶対飼われてたんだよ! 放っておいたら死んじゃうよ!」
「自分じゃ飼えないんだろうが!」
「そうだけど!」
 もちろん、緒方にだって飼う事はできない。
「小学生や幼児じゃないだろうが……」
 緒方は頭を抱える。
「だって〜〜〜……」
 緒方の迫力に押されながら、しかしヒカルはその子犬を放す気はないらしい。

 はああああああ。
 本当に、このガキは。

 こいつもこいつなら、自分も自分だ――などと思いつつ。
「………………待ってろ」
 緒方はポケットから携帯を取り出した。
 が、それを目にしたヒカルは、急に顔色を変えてその手を止めた。
「緒方先生! 駄目だよ、いいよ!」
「何だよ。心当たりに当たってやるってんだよ」
「だから、いいって!」
「なんなんだよ!」
 だったら一体、どうすりゃあ気が済むってんだ!?
 これ以上ないほどに情けない顔で、しかしヒカルは首を振った。
「だ、だから緒方先生に知られたくなかったんだよ……」
「何だってェ?」
「〜〜〜〜……」
 緒方に知られたら、絶対に文句を言われる事は、ヒカルはわかっていた。
 そして、その後にはこうなる事も。
「だって緒方先生、いま忙しいじゃんかァ……」
 自分ではどうにもしてやれない。でも放ってはおけなかった。そこのところを上手く割り切れない自分が悪いのだと自覚はしていても、気持ちの上でどうにもできない。
 ヒカルのそんな状態を知って、緒方が放っておく訳がないのだ。どんなに呆れても文句を言っても、絶対に最終的には、緒方はヒカルのいいように動く。それは今までの付き合いで実証済みだ。
 だから、緒方には知られたくなかった。
 手許に野良犬がいたとして。その里親を探すというのは想像以上に手間のかかる作業だ。その間預ったり、もしそれが見つかったとしても、その後の引き渡しだってある。
 そうでなくとも今の緒方は何かと立込んでいる。ヒカルだって、手合が込んでいる時に他の事はできるだけ考えたくない。
 けれど緒方は、ヒカルのために動く。
 そんな自分の不甲斐なさが、いやだった。
「まさかお前……」
 緒方は心底呆れたように、額に掌を当てた。
「アキラ君を避けてたのも、そのせいか?」
 ヒカルは頷いた。
 もしもうっかりアキラにその事が漏れたら。彼に知られる事で、そこから緒方に情報が流れる事を怖れたのだ。
「たわけ! んな小さい手間なんかどうって事ないんだよ! コソコソ隠し事されてる方がよほど腹が立つだろうが!!」
「だって」
「だってじゃねえ。そーだよ、お前がもっとしっかりしてて俺に頼ったりしなきゃ、俺は自分からお前を助けたりなんかしねえよ。面倒くせえ。だから、お前から甘えてこなかったら、俺はいつお前を甘やかすんだよ!」
 緒方特有の、複雑な論理だ。
「そんなの……だって、俺ばっかり……」
「当たり前だ。俺がお前に甘やかされてたら気味悪いだろうが!」
 複雑を通り越して、支離滅裂である。

 甘えてばかりじゃ嫌われる。
 頼られないのは淋しい。
 どちらの立場にも、それぞれの持論があるものだ。

「……もしもーし。進藤〜?」
 彼にしては珍しく控えめな声が、やっと二人の間に割って入った。
 脱力したようなうすら笑いを浮かべる加賀の存在を、ヒカルはたった今思い出した。
「うわっ、加賀、ごめん! ……あの、緒方先生、これ、中学の先輩の加賀」
「これとは何だ、てめー」
 ゴツ、とヒカルの頭に拳を降らす加賀を相手に、緒方は少々居住いを正した。つい感情的になってヒカルと言い合いを始めてしまった事を、大人気なかったと今更ながらに後悔してしまう。
「失礼。……緒方といいます」
「存じてますよ。今一線で活躍中の緒方十段ですよね」
 目上を相手にしていながら、ある意味高圧的な加賀の物言いだが、物怖じしない彼の微笑みは、不思議とイヤミを感じさせない。もっと質の悪い人間を幾人も知っている緒方からすれば、可愛いものだ。
 お互い相対するのは初めてだが、双方の名前だけは良く知っている。ヒカルが話題に出すからだ。
「あのなァ、進藤。そいつは俺が預ってやるよ」
「えっ?」
 唐突な加賀の言葉に、ヒカルはポカンと目を見開いてしまう。
「い、いいのか?」
 正直、ヒカルの家ではそろそろ限界だった。今日にでも追い出されるのではないかと、内心ヒヤヒヤしていたところだ。
「俺んちなら、2、3日は大丈夫だぜ。なんなら筒井にも声掛けてやるよ。あいつも多分ノッてくれんだろ」
「ほ、本当に?」
 ズイ、と加賀に顔を近付けるヒカル。そんなヒカルの肩に、加賀はぐるりと腕を回した。
「メーワク、かけたくねえんだろ?」
 ヒカルにしか聞こえないような小声で、加賀は囁く。意地悪そうに唇の端をつり上げると、ヒカルは我知らず頬を朱に染めた。
「加賀ぁ……」
「素直に甘えんのも大切だぜ。それくらい受けとめるだけの器量がなきゃあ、最初からテメエになんか付き合わねえって」
 キシシシ、と笑う加賀に、ヒカルは更に紅くなる。
 ヒカルと緒方がどんな関係なのか、加賀にはわからないが。
 ヒカルは変わった。多分彼のせいもあるのだろう。
 おもしろい。
 一見親切なお兄さん的行動にも見えるが、加賀はこれをネタにしばらくヒカルで遊べるな、などと内心ほくそ笑んでいるのだ。
 ネタにされている緒方の方は、そんな内緒話の内容も知らずに、ただ立ち尽くしたまま二人の事を見守っていたのだが。




 その後この件は、実にあっさりと解決した。
 もとの飼い主が見つかったのだ。
 ヒカルに長時間抱かれながらもほとんど身動きをしなかった子犬を見て、いくらなんでも抱かれ慣れすぎているのではないかと考えた緒方がちょっと調べたら、すぐにそれは結果を見た。警察にまで捜索願いが出ていたのだ。何かの拍子に首輪が外れて、そのまま迷子になってしまったらしい。
 本当に、運が良かった。

「まったく、手間掛けさせやがって」
 すべて済んだ後で、緒方は呟いた。
「アキラ君には、ちゃんと言ったんだろうな?」
 背後にいるはずのヒカルに声を掛けると「言ったよ」と短い返事が返ってきた。アキラにも散々文句を言われたので、自分が悪いのだとわかってはいても、少々憮然としてしまうヒカルだ。
 お礼にと飼い主から渡されたショートケーキの箱を緒方が台所で開けていると、背中にコツンと何かが当たった。
 緒方の背中に額を当てたヒカルが、伏せがちな瞳をしばたかせて囁く。
「……呆れたろ」
「何だよ」
「俺……馬鹿だから」
 そんなヒカルに、緒方はケーキを無造作に置いた皿を渡すと、さっさとソファへと移動した。
「お前みたいな馬鹿は、嫌いじゃねえよ」
 緒方の言葉に、ヒカルは脹れる。
「なんでそういう言い方するかな」
「自分で言ったんじゃねーか」
「そうだけど!」
 ヒカルはケーキの皿をテーブルに置き、緒方の側方にボスンと腰掛けた。むくれているヒカルに、緒方は苦笑してしまう。
 やれやれ、と思いつつ。
「……俺は、お前からの打診がなきゃ何もしてやれない天邪鬼だからな。……もっと甘えろよ」
 そうしたら、もっと甘やかしてやれる。照れも、躊躇いもせずに。
 また『俺ばっかりずるい』とか、ヒカルは思うのかもしれないが。
「…………そうする」
 珍しく素直に呟いたヒカルは、緒方の肩にコツンと頭を預けた。身じろぎひとつしないまま、緒方は「おやおや」と思いつつ、そんなヒカルへと視線だけを向ける。
 ちょっとだけ反省、ってやつか?

「何か言えよ」
「いやだ」

 ――前言撤回。
 やはり素直じゃない。
 その点に関しては、お互い様だが。

 それもまあ、いい。
 こんな風になら、素直じゃなくても不安になんかならない。本当は素直になりたい気持ちの、裏返しのようなものだから。
 迷子の子犬を放っておけないヒカルを、緒方は放っておけない。どちらを拾ってやればいいのやら、といった風情のヒカルでも、彼がこちらに手を伸ばしさえすれば、緒方は拾ってやれるのだ。
 そんな事は、少しも苦になどならないのだと、ちゃんとわかっていて欲しい。ヒカルはもっと、緒方に関して自信を持っていていいのだ。
 本当にこの手を必要としているのか、確信がなければ躊躇ってしまうようなひねくれ者である事は、緒方自身が一番良くわかっているけれど。

 もうあんな思いはごめんだぞと呟きながら、緒方はヒカルの髪を掻き回し。
 そんな緒方の掌の感触に、くすぐったそうに瞳を細めるヒカルの顔を、彼は静かな眼差しで、見つめるのだった。




END




●あとがき●
おがちゃま、乙女〜〜。ヒカルも負けてなーい。何気に登場人物がみなイイヒトなこのお話、何だか氷村的には大嘘大爆発みたいな感じなのですが(笑)。人に甘えるという行為は、さじ加減が難しいなあ、というお話(笑)。



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