UP20020919

あなたがいるということ





 帰宅した途端にに鳴り響いた電話のけたたましい音に、緒方は幾分か慌てて革の靴を脱いだ。早足で電話へと歩み寄り、受話器を取る。

 そこから聞こえてきた声に、彼は心底仰天してしまった。

『お世話になっております……。あの、進藤ヒカルの、母ですが』

 進藤ヒカルの、母ですが。

 緒方の思考回路が、一瞬止まった。
 進藤ヒカルの、母ですが?
 携帯、自宅の電話を問わずに、ヒカル本人からの電話を受けた事は何度もあるが、その母親からの電話は初めてだ。一体何故、何の用で。自分は何かをしでかしただろうか。そんな馬鹿な。というか、そんな事まで考えなければならないほど、自分の素行はおかしくはなかったはずだ。多分。
『あ、あの……』
「あ、あ。失礼しました」
 一瞬の間を置いてしまってから、慌てて受話器を取り直す。緒方には珍しい現象だ。
 ひとしきり挨拶の言葉を交わした後で、電話の向こうの彼女は小さな声で本題を切り出した。
『その、私は止めたんですが、ヒカルがどうしてもと言うので……』
 申し訳なさそうに話を続けるヒカルの母親の言葉はたどたどしい。

「は、風邪……?」
 ヒカルの母親の話に、緒方は微かに目を見開いてしまう。
 聞けば、何やらヒカルは今日、かなり体調を崩しているらしかった。しかしヒカルの両親はどうしても抜けられない用事のために明日、明後日と家を空けてしまうのだと言う。
『ですから幼なじみのあかりちゃんの家か、おじいちゃんの家に行ってお世話になりなさいと言ったんですけど、ヒカルがどうしても緒方さんの処へと言ってきかなくて……』
 母にとってはおかしな話なのだろう。身内に誰もいない訳ではないのに、棋院で世話になっている、早い話が他人のもとへ行きたいだなどと。こういう場面で、棋院の先輩に面倒をかける行為を提案するヒカルの考えに、彼女の理解は及ばない。
『その、ヒカルが、緒方さんに言えばわかると……』
 言いよどんでしまう母。無理もない。
 後ろから「お母さん!」とヒカルの声が聞こえる。
「ああ、いや、はい。ヒカル君の言うとおりです。その、仕事の事で話をする予定もありましたから。何かと融通の利かない世界でもありますので。はい。その方がかえって都合がいいかと」
 緒方は、適当にフォローを入れておく事にした。
 仕事の打ち合わせなどしようはずもなかったが、ヒカルの母親は碁界の事を良く知らないとも聞いているし、この程度は方便だろう。
 受話器が受け渡されるのが、気配でわかった。
『ごめん、緒方先生。うちのかあちゃんがベラベラと』
「それはいいが……」
 体調が悪いというヒカルの声音は、そこそこ普通に聞こえなくもない。が、電話口では良くわからない。
『……迎えに、来てくれる?』
「今からでいいのか?」
 うん、と嬉しそうに言うその声は、それでも消え入りそうに小さい。
 すぐに行く、とだけ伝えて緒方は受話器を置き、入ってきたばかりの玄関を、また飛び出して行ったのだった。




「ひとりで大丈夫だって言ったのにさ。うちの親うるさくって。どうしても誰かの傍にいろって言うなら緒方先生の方がいいと思って」
 取り急ぎパジャマのまま車に乗せたヒカルの顔色は、確かに良いとは言い難い。
「一昨日も昨日も、雨降ってたじゃん。一昨日は傘忘れて濡れて家に帰って、昨日は家出る時には大丈夫だと思ったのに、急に大降りになったせいでやっぱり濡れちゃってさ。そのまま放っておいたら、それが良くなかったみたいだ」
 明らかに体調が良くない事を傍からも見て取れるというのに、ヒカルの話す声は明るい。
 いいから少し黙っていろと緒方は言おうかとも思ったが、一度でも緊張の糸を緩めたら後はぐずぐずに崩れてくる一方だという事を、ヒカル本人もわかっているのだろう。それをよしとしないヒカルの強情さは、緒方も良く知っている。
「二日も続けて雨に降られるバカがいるか」
 ヒカルの話に付き合うように緒方が言うと、ヒカルは肩をすくめて「どーせバカだよ」と返す。
 ただでさえ厳しい世界に生きるプロ棋士の義務として、日頃の体調管理云々と説教したい気持ちにも駆られたが、いまここでそんな事をするのも可哀相だろう。多分、それは本人が一番良くわかっている。
「あと少しだけ、我慢してろ」
 緒方の家までは、もうすぐ。緒方の言葉に安心したように頷くヒカルは、やはりかなり消耗しているようだった。




 家に着いた早々に緒方はヒカルをソファに座るように促し、そのまま普段本格的に使う事の少ないキッチンへと向かった。
「薬は飲んだのか?」
「まだ」
 ヒカルの返答にそうだろうな、などと思いつつ、緒方はグラスにミネラルウォーターを注ぐ。医者にも診せていないらしいが、家庭用内服薬で大丈夫なものだろうか。しかしそれしかないのだから仕方がない。おそらくはヒカル自身が病院に行くのを嫌がったのだろうが、こういう事に頓着しない息子を持った親も大変だ。
 グラスを持ってソファに向かい、ヒカルの隣に腰掛ける。きしむソファに身を任せたまま、ヒカルは手足を動かそうともしない。
「口開けろ」
 カプセル薬をヒカルの口に放り込み、その手にグラスを持たせたが、ヒカルはぼんやりとそのグラスを見つめる。いつそれを取り落としてもおかしくない雰囲気だ。
「ほら。飲むんだよ」
 そこに手を添えて口許まで傾けてやって、ようやくヒカルがコクコクと水を飲みはじめた。
 もしかして、結構重症なんじゃないか。
 緒方がそう考えたところで、ヒカルはとうとう緒方にしなだれかかった。自分に触れたヒカルの身体の熱さに、内心ドキリとする。
「おい、進藤?」
 ヒカルの額に手を当てる。当たり前だが、熱い。
「緒方先生の手、冷たいよ。気持ちいい」
 呟いたヒカルは、すでにかたく瞼を閉じている。ここへ来て、糸が切れたのだろう。
「お前、もう寝た方がいいな」
 緒方は、ヒカルの背中と膝裏に手を添えてその身体を抱き上げた。
「ひとりで歩けるよ……」
「嘘つけ」
 ヒカルの小さな抗議にも、耳を貸さない。
 それでも微かに身をよじるヒカル。本当に強情だ。
「だって、恥ずかしいじゃんか」
「うるさい。俺とお前しかいないのに、恥ずかしいも何もないだろ」
「でも……」
 それでもまだ何事かを言おうとするヒカルに、緒方は微かに息をついた。
「好きにさせろよ。……でかくなりやがって、こんな風にしてやれるのも、あと少しの間だけなんだからな」
 ちょっと前までは本当に小さかったヒカルも、成長期の真っ只中でずいぶん身長が伸びた。未だに細っこい腕などは多少心配なところだが、程々に筋肉もついた男の子らしい体つきだ。近いうちに、こんな風に抱き上げる事も叶わなくなるだろう。
 そんな緒方の言葉に、ヒカルはクスクスと笑った。
「変なの……」
 ヒカルも一応男であるから、こんな風に抱き上げられる事が嬉しい訳ではない。けれど、相手が緒方であるというその事実だけで、こういう行為が心地の良いものに変わる。
 この人に限り、嬉しい事がある。
 ひとりでいられない時に、そばにいて欲しいと言える人がいる。
 それが嬉しい。

 嬉しいけど、ね……?

 緒方はヒカルの身体を、静かにベッドの上へと降ろした。
「お前、大丈夫か? 俺は明日出かけなくちゃならないんだぜ」
「知ってる」
 緒方は明日、棋院での対局の予定がある。タイトルリーグの二戦目で、落とす訳にはいかない。
 タイトル戦でなくとも、プロ棋士は余程の事がなければ対局を休んで不戦敗を迎えるような真似はしない。以前ヒカルがずっと対局をサボって黒星をつけ続けた事があったが、それは例外中の例外だ。普通、そんな事はあってはならない事だ。這ってでも対局に向かうのが、プロの棋士なのだ。
「俺は大丈夫だよ。ひとりで平気。同じひとりでも、緒方先生の家だから」
 いつの間にか、ここはヒカルにとってとても安心できる場所になっていた。一番近しい、他人の家。過ごす毎に見慣れる風景。
 ひとりだけど、ひとりじゃないから大丈夫。
 ヒカルは静かに、目を閉じた。
 そうして暗闇を迎えても、ここは緒方の気配でいっぱいだ――。




 緒方は、ソファに凭せ掛けていた身体をふと起こした。
 時計に一瞥をくれるが、夜明けまでにはまだ早い。浅い眠りの後の妙な覚醒感に首を振る。上手く眠れない。
 ヒカルの事が心配で、という理由もあるかもしれないが、たとえその事が無くても、対局前の緒方の眠りは浅い事が多い。繰り返し繰り返しシミュレーションを重ね、何度も盤上を想像する。実際はそうは思う通りにならないのだとわかっていても、勝負の前の哀しい習慣だ。
「……」
 緒方は立ち上がり、ヒカルの眠っている寝室を静かに覗き込んだ。
 ヒカルが微かに身じろいでいるのがわかる。
「……進藤?」
 ヒカルは、荒い息を殺している。
「なんでもない……」
「なんでもなくねーだろ」
 自分の身体を抱きしめるように丸くなっているヒカルの肩に、緒方は手を掛けた。途端、ヒカルの眉間に深い皺が刻まれる。
「……っ!」
「どこか痛むのか」
「平気だから」
 気にせず寝ていてくれ、とヒカルは呟く。
「バカ言うな。何で呼ばないんだよ」
 できる訳がない、と呟くヒカル。この男の性格を考えれば当然か、と思いながら、緒方はベッドの上に腰をおろした。ヒカルの上半身を引きずり起こして、その両脇に腕をまわす。
「俺の肩に手ェまわせ。……そうだ。どこが痛い」
「背中……あと胸の下とか……」
 緒方に抱き付くような体勢のまま、ヒカルは消え入りそうな声で囁く。緒方の掌が、ゆっくりとその背を撫でた。
 ヒカルの熱い息が、緒方の肩にかかる。
 普段健康優良児なだけに、こういう事に慣れていないのだろう。熱のせいで軋む身体は、多分疲れが溜まっているせいもあるのだ。我慢しなきゃと思う気持ちと裏腹に、そばにいる人に助けを求めてしまう。それ程に、辛い。
「どうだ?」
「……」
 ヒカルは、ハア、と微かな息をつく。
「……頭に来る……」
「なに?」
「こんなつもりじゃないのに。ただちょっと傍にいてくれれば良かったのに、いればいるで、絶対に頼っちゃうんだよ……」
 それが、頭に来る。
「ひとりで大丈夫だったんだ。大抵の事は。俺はこんなに弱くなかった。なのに、緒方先生がいると、ひとりじゃないんだ。ひとりじゃないから、かけなくてもいいはずの面倒までかけるんだよ」
 甘えていいと、いつか緒方はヒカルに言った。
 そんな言葉にヒカルは戸惑いを覚えて、でもそれを嬉しいと感じている自分に気付いた。甘えていいんだと思いはじめたら、そんな思いがズルズルと根を張り出す。甘やかしたらつけあがる、その典型だと思う。思うけど、止められない。
 緒方がいると、自分は弱くなる。
 この人の傍で、自分も強くありたいと願うのに。
 この人の強さに反比例して、どんどん弱くなっていると感じる自分自身が腹立たしい。
 泣きたいほど――悔しい。
「いつか絶対……愛想尽かすよ」
 ヒカルの身体に這わせる手を止めないままに、緒方は顔をしかめた。
 病気の時は気が弱くなるというが――。
「バカ言ってんじゃねーよ」
 緒方はヒカルの背に手をまわしたまま、その肩口に細い顎を乗せる。
「ひとりじゃない時に、ひとりになる必要ないだろうが。誰かに頼って何が悪い」
 大雑把に振舞っているように見えて、これでヒカルは対人関係に関して繊細に過ぎるところがある。周りに人間は沢山いるが、ヒカルが本当に心を許す人間は存外に少ない。だから、心を許される事にも慣れていない。
「ひとりで出来ない事なんざ、山のようにあるんだよ。それを知るのは、弱くなる事と同義じゃない。ひとりで何でも出来ると思い込んでる奴は、ひとりでも出来る事にしか手を出してないだけだ」
 お前は、弱くなんかない。
 何を言っても、今の彼には納得してもらえないのかもしれないが――。
「進藤、ちょっと身体外せ」
 緒方は一度立ち上がり、クロゼットをあさり出した。そこから綿パンとシャツをつかみ出し、ハンドタオルを持って再びベッドへと戻る。
「着替えな。お前、汗だくだ」
 緒方の寝間着もあるにはあるが、それではサイズが大きすぎる。普段着なら、窮屈な事も緩すぎる事もないだろう。綿で出来た衣類は、汗も良く吸い取る。
 ボタンをすべて外したパジャマをヒカルの肩から落とし、緒方はその身体にやわらかなタオルを当てた。熱を持った身体は、しっとりと湿っている。
「こんな状態のお前を放っておくような男に、俺を仕立て上げるなよ。愛想を尽かすとかの前に、俺はそんな事を望んじゃいないぜ」
 迷惑なんて、かければいい。
 それによって緒方自身のアイデンティティーが確立されているという事を、いつになったら理解してくれるのか。
 対局前に昂ぶっている気持ちが、知らぬうちに静まっているような、彼がそんな存在であるのだという事を。
 タオルで汗を吸い取ったヒカルの首筋に、緒方は軽く口唇をあてた。それから、細い肩に。乾いたシャツの袖にヒカルの腕をくぐらせた後で、その手首にもそっと口接けた。
 シャツのボタンを、ひとつひとつ掛けて行く。
「肩に手かけな。少し膝上げて。そら、できた」
 仕上げに綿パンのジッパーを上げ、ボタンまで掛けて、緒方はヒカルの腰をポンと叩いた。ウエストは緩いが、寝ている分にはいいだろう。
 ヒカルの前髪をザラリと掻きあげ、最後にそのこめかみにも口唇を押し当てた。
「こういう事を全部俺にさせろと、俺は最初にそう言ったんだぜ」
 緒方の言葉に、ヒカルは唇を噛んだ。
 スウッとその手を差し伸べ、緒方の胸元へと倒れ込み、両腕をその肩にまわした。

「……好きだ」

「……は?」
 ヒカルの一言に、緒方は抱き付かれたまま、一瞬目を見開いた。
「好きだよ。好きなんだ。もう……どうしていいかわかんねーよ……」
 ギュウ、と緒方の肩に絡める腕に力を入れる。相変わらず熱い身体の熱が、緒方に伝わってきた。そんな熱さを受け止めながら、緒方はほんの少しの間、ぼんやりと我を忘れた。
 好きだと言われたのは、これが初めてだったのだ。

 何だか――わかった気がする。
 きっと、ヒカルがこの言葉で自分の気持ちを理解したのは、つい最近の事なのだろう。だから戸惑って、どういう風に受け止めていいのかわからなくなってしまったのだ。そんな時に体調不良で弱気が出て、頭の中が飽和状態になってしまった。つまりはそういう事だ。
 とっくに、わかっているものだと思っていた。
 いや、本当はわかっていたのだろうけど――。
「どうにもしなくていい。今のまんまでいいんだよ」
「今の、まんま?」
「そうだ」
 本当にバカな奴だと思う。
 こんな事で戸惑って悩んで、頭の中滅茶苦茶にして。

 だから可愛いっていうんだよ。

「お前が今しなくちゃならないのは、とっとと身体を治す事だ。何にも考えずに、さっさと元気になれ。お前は強いんだろ」
 緒方はそっと、ヒカルの身体をベッドの上へと倒す。
「ここにいるよ。『いてやる』んじゃねぇぞ。俺が好きでいるんだから、もう何も考えずにさっさと寝ろ」
「――……」
 それ以外の事は、全部後でいい。
 繰り返し己の肩や腕を撫でさする緒方の手の感触に、ヒカルは心地良さそうに瞳を閉じた。
「俺さ、俺――」
「いいから」
 緒方は、これ以上ヒカルに何も言わせなかった。
 身体中から吹き出す熱を掬い取るような緒方の手を感じて、ヒカルの意識は徐々に闇へと沈み込んで行く。

 俺さ、ひとりじゃないってこと。
 緒方先生が、こんなに近くにいるって事。
 それがどれだけ嬉しい事か。どんなに大事な事だったか。
 今はじめてわかったような気がするよ――。




 ヒカルが目覚めた時に、緒方の姿は既に家の中になかった。
 薬とグラスと水差しだけが、枕元に無造作に置かれている。きっとキッチンに行けば、何か腹に入れるものも用意してあるのだろう。
 ゴロリと寝返りを打って、随分熱が引いている事を自覚した。
 寂しいな――。
 ヒカルは思う。
 誰もいないこの空間がとても寂しいと、ヒカルはぼんやりとした頭で考えた。
「早く帰ってくればいいな……」
 ひとりごちてみて、ヒカルはクスリと笑った。

 うん、早く帰ってくればいいな。緒方先生が帰ってきたら、おかえりって言おう。
 はは、変なの。俺の家じゃないのに、おかえりだってさ。

 自分の考えに微笑みの形に瞳を細めたヒカルは、再び静かに瞼を閉じた。


 その日の緒方が驚異的な速さで相手を中押しに追い込み、比類無き全速力で家まで帰り着いたという事実があったりなかったりだが。
 その話は――また別の機会に。




END




●あとがき●
あんな事やそんな事や、あまつさえそぉ〜んな事まで……。緒方さん、色々やってますね。どうしましょう。
今回のヒカルは、まるっきり氷村です。馬鹿なのは私です。二回も雨に打たれて風邪引いて、全身の痛みに苦しんでのた打ち回りましたとも。ていうか継続中。ごめんなさい、ホントに馬鹿ですね……。
ところで緒方さん、綿パンや綿シャツなんて持ってるんでしょうか。今回のお話の最大の謎ですね(笑)。



            BACK