UP20021008

proof of love 1





 久しぶりの森下研究会で顔を合わせたヒカルと和谷は、解散の後ファーストフードでマグネット碁を並べていた。
 先程までの検討碁を、更に二人で並べ替えていたのだ。
 今日一日で充分やいやいと言い合ったはずなのだが、本当にプロ棋士というのは、この道においての知識欲、執着に底が見えない。
「学ぶべきモノは多いんだけどさ、多分この局面、実際にこうなったら、俺やっぱりこっちに打っちまうような気がするんだよな」
 ぼやきながら、和谷がパチンとマグネットを盤上に貼り付ける。
「はは、わかるけど」
 検討と実戦とでは、頭の働きは大きく異なる。個人差もある。傍で見ている人間と実際に打っている人間とでは、思うところがまったく違うのだ。問題は、己の手の後相手がどう打ち、それにどう返すかの算段ができるか否か、である。
 まったく奥が深いよな、と呟きながら、和谷は大きく背を反らした。

「……あれ。あそこにいるの、緒方先生じゃん」
 外の通りに目を向けた和谷の言葉につられて、ヒカルもその視線を追ってウインドウの外を見る。
「ああ、ホントだ」
 確か今日は、棋院で対局があると言っていた。その後にみんなで食事にでも行こうという話が持ちあがっているから、せっかくお互いに棋院での用事があるがスケジュールが合わないな、などと話していたのだ。
 今、対局が終わったのだろうか。
 4、5人で何事かを話しながら歩くその姿を、ヒカルはぼんやりと眺める。もちろん通りにいる彼が、そんなヒカルに気付くはずはない。
 ふと、緒方が隣に立つ女流棋士の背に手を添えた。そしてついと自分の方に引き寄せると、そのすぐ後ろを自転車が一台通りすぎる。
 それを見ていた和谷の目が、呆れたように据わった。
「……いちいちやる事がスマートだよな、緒方先生って……」
「そだな」
 ヒカルの前では一見大味に見える緒方は、これで案外他人に対して繊細なところがある。彼の場合は、特に女性に対して持ち前の細かさを発揮するらしい。確かに野郎に対してそんな心遣いを見せてもつまらないだけかもしれないが。もっとも彼のそんな気使いは、さほど親しくない人物に対して、がほとんどではある。
 緒方のこういう面は、同性から見ればウザく、異性から見れば好感触に受け取られがちなものだろう。
 ヒカルは思わず微笑んでしまった。
「そういえばさあ」
 和谷は突然、ヒカルの方へと視線を向けた。頬杖をついた格好で、ポテトを口に放り込む。
「あんだよ」
 ハンバーガーにかじりついた拍子に和谷に話を振られ、ヒカルはそのままの状態で彼を見つめ返した。
「お前と緒方先生って、デキてんの?」
「……」
 ヒカルは、噛み付いたバーガーをガブリと噛み切ると、無言のままムグムグと噛みしめる。それをゴクンと嚥下したあとで、口を開いた。
「良くわかったじゃん」
 ヒカルの言葉に、和谷はやれやれと肩をすくめる。
「わからいでか。お前ら何回人の目の前でやいやい騒いだと思ってんだよ」
 緒方が特にヒカルに目を掛けている事は、和谷は以前から独占情報的に知っていた。その緒方とヒカルが、最近やけに一緒にいるのを見掛ける事、そして、さっきみたいなヒカルの眼差し。あれは、注意して見れば、ただの知り合いを見る視線ではない。カンの良い者なら自分でなくとも気付くと思う。
「それもそっか」
 こともなげな、ヒカルの呟き。
「……でな。緒方先生とデキてるヒカル君としては、あの人のああいう処見て、何とも思わないわけ?」
「……ああいう処って?」
 ヒカルは、和谷の言わんとしているところが良くわからない。
「だから。ああやって女の人と至近距離で並んでたり」
 和谷の言葉に、ヒカルは「はあ?」というような形で口を開けたまま、一瞬絶句してしまった。
 何を言っているのだ、この男は。
「あのなあ! 誰かと肩並べてたりとか? んな事でいちいち妬いてられっかよ!」
 碁打ちに、どれだけの付き合いがあると思っているのだ。それを差し引いてもだ。一生誰とも接触を持たずに二人だけで暮らせとでもいうのだろうか。
 いや、和谷もそのくらいの事はわかっているのだが。
「若さがねぇよなあ」
「何だよ!」
「進藤おまえ、自分をいくつだと思ってんだよ。理屈じゃわかっててもこう、やきもきしちまうってのがどうにもならない恋心ってモンだろ〜?」
 恋心。
 和谷、かなり夢見がちだ。
「自分だけのあの人でいて欲しい〜、なんて思わねえ?」
「ばっかばかしい」
 一言言い捨ててガフガフとバーガーに食らいつくヒカルに、胸の前で手を組みあわせて乙女ポーズを取っていた和谷は、なんだつまんねえ、と肩をすくめる。
 単に、好奇心丸出しというか面白がっているだけの和谷だった。




 理屈でわかっててもやきもきする?
 どうにもならない恋心?

 和谷あたりには知られているかもしれないな、とは思っていたが、人の知らないところで妄想たくましく、何を想像していたのだ、奴は。
 ヒカルは呆れた。
 一生誰にも寄り付かずにいられるわけないだろ。自分だって、緒方だって。
 たかだか誰かと肩を並べてたからって、誰かの背を抱いたからって。
 そんな日常茶飯事の事を、毎度気にしてられるかよ!
 大体そんな事、あの人の目の前で口にしただけで張り飛ばされるぞ、多分。

 フラッシュバック。
 楽しそうに何事かを話す女流棋士と、それに微笑みを返す緒方。
 イライラ。
 ――て、なにイラついてんだ。
「チッ……和谷が変な事言うからだぞ」
 訳のわからない苛立ちを、とりあえず和谷のせいにしておく。
 そうだよ。ああいう女性が相手なら、そりゃ傍から見てお似合いだよな。少なくとも、中高生のガキよりは。
 だけど、これは緒方と自分の問題で、二人の間ではちゃんと、お互いの真実の想いを理解しあっている。そう思う。
 じゃあなんで、こんなにイラつくんだ。
 今まで一度も、こんな思いにとらわれたりなんてしなかった。緒方が冗談でアキラにキスしようとした時、あの時は事情を知らなかったから、ちょっと妬いたりはしたが、それだけだ。こんな風に苛立ったりはしなかった。
「和谷のせいだ、和谷の!」
 ひとり駆け込んだ自室で、ヒカルはベッドの上の枕を乱暴に投げつける。それはボスンと壁に当たって、ズルズルと下降した。

 こんな苛立ちは、どうやって解消すれば良いのか。

 確かに自分たちの間には、確たる形の保証はない。
 結婚できるわけでもなければ、子供を持てるわけでもない。
「おいおいおい……」
 そんな自分自身の思考回路に呆れ果て、ベッドに突っ伏してしまうヒカル。
 不安?
 まさか、そんな。
 形が欲しいのか?
 あの人が自分だけのものであるという、そんな証が。
 だけどもし自分たちが男女の間柄だったとして、結婚だって紙切れ一枚の問題ではないか。そんな風に誓いを立てた二人だって、別れる時は別れる。
 じゃあどうしろっていうんだ。
 というか、自分は一体、何を望んでいるんだ?

 こんな風に、考えた事なんて無かった。
 考えた事が無かったから、お互いの気持ちを確かめ合うような行動など、今まで取った事も無かった。
 今だって、彼を疑う気持ちは微塵も無い。形が無かろうがなんだろうが、自分の知らない場面での緒方を、そして自分の目の前にいる緒方の気持ちを、疑う事なんてありえない。
 そういう気持ちではない。けれど。
 不安なのか。気持ちというものは、こんなにも。
 あの人が誰かの傍にいるという、ただそれだけの事が。
 そんなのは、はた迷惑な独占欲ではないか。誰の近くにも寄るなと言われたって、相手は困るだけだ。多分、それが自分でも困るだろう。

 欲しいものが――ある。
 誰の近くにも寄らないで欲しいというのではなくて、誰とどれだけ近くにいても、平気でいられるだけの自信。それを強固にしてくれる、確かな何か。
 和谷に言われなくとも、いつかはこんな気持ちに行き着いたのかもしれない。
 この気持ちが、成長するにつれ。

 だけど、どうすればいい?
 わからない。
 ヒカルはベッドにただ突っ伏して、深く深く溜息をついた。




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