UP20021231
幸せについて
たとえば、くだらない事。 バカバカしい事。 どうでも良いような小さな事にまでこだわってしまうのはね。 そんな、ほんの些細な事が、大きな幸せにつながっちゃったりするから――なんだよ。 「緒方先生は、いつになったら俺のお嫁さんになってくれんの?」 ゴトッ。 ヒカルの何気ない一言に、今まさにテーブルの上に置こうとしていたヒカルのマグカップを、緒方は取り落とした。 良かった、高さがあまり無くて。 中身もまだ入ってなくてラッキー。 ――じゃなくて。 「……おい、進藤」 「なに?」 なに、じゃねえだろ。 恐ろしいほどに真顔のヒカル。 以前もヒカルが本気で緒方に「嫁になって」と言った事があったが、うやむやになったそれを未だに引きずっているとは、さすがの緒方も思っていなかった。 緒方はそんなヒカルの目の前にマグカップを置き直し、そこに落としたばかりのコーヒーを音をたてて注ぎ入れた。 さらに、その隣になみなみとミルクの入ったピッチャーをドン、と置く。 「お前、まだそんな事言ってやがんのか」 ヒカルは、そのピッチャーを傾けてトポトポと牛乳を注いだ。 「そんな事って何だよ」 さっさとその場を離れて背を向けた緒方に向かって、いささか脹れてみせるヒカル。 緒方はガシャガシャと手を洗うと、ヒカルがカフェオレを啜っているダイニングのテーブルまで戻り、そこに無造作に置かれている炊飯ジャーの蓋を開けた。 フワン、と真っ白な湯気がいっぱいに立ち昇る。 「そんな事だろうが。なんでそこに拘るんだよ」 「なんでって……」 理由なら、既に言った。 けれど自分でもいささか安直だったと思わなくもないから、どうしてそこに拘るのかと質されると、立場的にちょっと弱い。それに、あの時漠然とあった不安は、すでに緒方が解消してくれている。 けれど更に言うなら。 「……あこがれ?」 「――……」 頬杖をついて首を傾げたヒカルの一言に、緒方は渋い表情のままジャーの中の白飯にしゃもじを突き刺す。 憧れって何だよ。 緒方はしゃもじをぐるりとまわし、掬い取った飯を片手の上にポンと落とした。 その中に昆布の佃煮をぐいと詰め込んで、ギュイギュイと握りはじめる。 「嫁っつうのは女がなるもんだって言っただろうが」 塩をまぶして大きな海苔で包み込んだ三角のものを、緒方はヒカルの目の前にある皿の上に置いた。 緒方、何気に握り飯スキルが上がっている。 緒方が握るそばからそれをぱくつくヒカル。 「うまいよ」 「そうか」 とんだバカップルだ。 「だからね。こんな風にご飯を作ってくれる奥さんがいるのって、いいなあって」 握り飯ひとつで幸せ食卓風景の出来上がりか。 「だったらちゃんと奥さんになってくれる人間を探せよ」 「本気で言ってる?」 「さあなあ」 「……意地悪いよな」 ――いや、泳ぐメダカップルか(すくい難いの意)。 「大体だ。奥さんってのは、料理するだけじゃねえんだぞ」 次々と握り飯を完成させて行く緒方の言葉に、キョトンとした視線を向けるヒカルは、再びカフェオレを啜る。握り飯にカフェオレというのも妙な組み合わせだが、普段緒方宅には茶の類の在庫はあまり置いていない。あとはその日のヒカルの気分の問題だ。 「掃除に洗濯、その他諸々。お前には到底出来ない事かもしれないけどなあ」 「そっ、そんな事ないさ」 意地の悪い緒方の言葉に、ヒカルはムキになって反論する。 「そりゃ得意とは、言えないけどさ……。出来ない事はないんだよ? やる気になれば掃除だって洗濯だって……」 緒方はニヤリと笑った。 「そうかそうか。じゃあお前が俺の奥さんになるか?」 「えっ?」 ……あれ? 鳩が豆鉄砲を食らったように目を見開くヒカル、緒方の誘導に上手く乗っかってしまった事にまだ気付いていない。 「ち、ちがッ! 俺がじゃなくて、緒方先生が俺の奥さんになるんだよ!」 「お前がなれよ」 「緒方先生がなるんだよ!」 かなり不毛な押し問答だ。 「そもそもお前、タダでこの俺を嫁さんに出来るとでも思ってるんじゃねえだろうな?」 「え……?」 握り飯を積み上げた後、手を洗って再び引き返してくる緒方の姿を、ヒカルは見開いた目で追ってしまった。 「俺と勝負してお前が勝ったら、奥さんになってやろうか」 「ほんとッ! いいの!?」 「ああ」 いいぜ、とニヤリと笑う緒方。何を考えているのか、とても楽しそうだ。 「でも勝負って、ナニで勝負すんのさ?」 「何でもいいぜ。ただし、もしも俺が勝ったらお前が俺の奥さんになるんだぜ」 「えッ……」 話が面白い方向に転がってしまったから、緒方も乗り気になってきたらしい。ここできっちり話をつけておけば、ヒカルも妙な事は口走らなくなるだろうし。 ヒカルも、緒方の見せた緩い姿勢に、がぜん瞳を輝かせた。 「いいよ! じゃあ俺も緒方先生も一番得意なもので勝負!!」 双方が得意なもの。すなわち、囲碁。 「言うじゃねえか。俺は強いぞ」 「知ってるよ」 ヒカル、目がかなりマジだ。 たしかに、勝負をするというならこれが一番納得のできる方法だろう。緒方の強さは言わずもがなだが、肩書き上は低段にいるヒカルも、実力では高段者にも負けない。緒方だってうっかり甘い顔を見せれば返り討ちに遭いかねないし、緒方本人もそれを知っている。 双方にとって、真剣勝負だ。 「俺が勝ったら、緒方先生にフリルのエプロンプレゼントしてやるからな!!」 思わず緒方は顔をしかめた。 イヤな趣味してやがる。 しかし緒方は顔色を変えずに、足付きではなく卓上用の碁盤を取り出してリビングのテーブルの上に置いた。 「じゃあ俺が勝ったら、進藤用に乾燥機付きの全自動洗濯機でも買ってやるかな」 緒方の家にはこれまで洗濯機が無かった。 彼の衣類は殆どがクリーニング行きになっていたし、そうでない少量のものはランドリーで済ませていたからだ。無くてもあまり困らないものを家の中に置くのを厭がっている緒方だが、この機会にそれくらいは用意してもいいだろう。 「洗濯機? 俺が緒方先生の服洗濯するの?」 「俺のはいいんだよ。お前の衣類だ」 緒方家で過ごす事の多くなってきているヒカル。しかしその事だけではないかなり遠回しな含みのある緒方の言葉に、ヒカルは気付かないまま曖昧に頷いた。 「じゃあニギリの互戦。恨みっこ無しの真剣勝負だ。いいな」 「OK!」 ジャラ。 緒方は、碁盤の上に一握りの白石を置いた。 「……負けました」 相手のアゲハマを隅に打ち、これ以上に無いくらいに渋い顔で呟いたのはヒカル。 大ヨセも打って、小ヨセにまで進んだところでヒカルは投了した。本来ならば、最後まで打ち続けるような局面だ。それほどまでに、僅差。けれど、どんなに上手く打ちまわしたところで、どうしても半目から一目半足らない事をヒカルはすでに計算していた。他の人間なら可能性を信じてみてもいいが、緒方に限っては絶対にミスなどしないだろう。 「一目半だ。いい判断じゃないか」 やはり。 そこまで言い切るという事は、緒方も終局までノーミスで打てる計算があったのだ。 「チックショー! すっげえ悔しい!!」 ヒカルは、盤上の石をジャラッと掻き回した。 もちろん、楽に勝たせてもらえる相手だとは思っていなかった。けれど、何かを懸けている大切な局面で、勝てない自分が悔しい。 「いいじゃねえか。この俺に一目半だぜ?」 軽い口調で緒方は言うが。 内心蒼白だったのは彼の方だ。 初段が。九段に。一目半だぞ? 一目半だろうが十目半だろうが、勝ちは勝ちで負けは負けだ。理屈では解っているが。 これは公式の対局ではない。が、これほどまでに最初から最後まで気を張り詰め通しの対局は滅多に無い。一見危ういギリギリのところまで踏み込んでくるヒカルの打ち筋に、やられるかも、と正直何度も思った。そしてこの投了。一目半の差を判断できるほどの正確な計算を、ヒカルはきっちりと行なっていた。末恐ろしい。あやうく上手の面目が丸つぶれになるところだ。 それだけヒカルも負けないつもりだった、という事だろう。 もっとも彼の場合、懸けるものが無くたっていつだって真剣なのだろうが。 「まあいい。勝負は決まったんだ。お前が俺の奥さんな」 表面上は余裕を見せて、緒方は手許の箱から煙草を取り出し火を点けた。 「うぅ〜〜……」 自分が緒方をお嫁さんにしたかったのに。 なんで、いつの間に、自分が嫁さん? こんな筈じゃなかった。 「緒方先生の方が料理できるのに」 「料理って域じゃねえだろ」 「掃除だって、綺麗に出来んのに」 「ま、もともと俺はキレイ好きだ」 「――ッ……」 「んなしょげた顔すんなよ」 プロになってから成長期もあって、本当にヒカルは男らしくなったが、こういうところは緒方から見てまだまだ可愛い。 というか多分……緒方の前だから、可愛い。 「可愛い方が奥さんになるって、決まってんだよ」 いつの間に、誰が決めたのかは知らないが。 「何だよ、それ」 緒方は、ただ静かに笑う。 「お前な、俺の事で、本当につまらない部分拘るだろ。だから可愛いっていうんだよ」 ヒカルは何事にも執着が少ないと、緒方は昔から彼の事を評価していた。 ただひとつ執着があるとすれば、囲碁に関してだけだ。 何事にも執着しないヒカルは、他人にも執着しない。あのアキラですら、実は例外ではなかった。ヒカルがアキラに執着を見せたのは、ヒカルが本気で囲碁を始めるきっかけとなり、追いかけるべきライバルとなる人物だったからだ。実に、それ以外の何者でもない。 それでも最近は色々と変わってきている部分もあるようだが、もともとヒカルはアキラに人間性や友情を求めていた訳ではなかったし、他の人物に関してもそうだ。相手が囲碁をやっていなかったら、相手にしていたかどうか。 自分たちの始まりだって、もちろんそう。 二人の関係は囲碁無しでは語れなかったし、それはそれで、緒方だって望むところだ。 だから、囲碁以外のところでヒカルに求められている部分がある事を、失念していたというか気付いていなかったようなところがあった。 自分の中にも、それはとっくにあったのに。 だから嬉しかったし、そういう意味でヒカルが可愛い。 これを人は、何と呼ぶ? 奥さんになって欲しい、か。 表現は変かもしれないが、そんな想いがあってもいい。 「さて。洗濯機、買いに行こうぜ」 早速とばかりに緒方は立ち上がり、短くなった煙草を揉み消した。そうして脹れるヒカルの腕を掴んで引っ張り上げるのだった。 緒方の自宅まで届いた全自動洗濯機を、それでもヒカルは感嘆の眼差しで見つめた。 「カッコイー! 俺んちにあるのとは大違いだよな」 洗濯機を買う時にはヒカルも一緒に選んだのだが、結局機能だの何だの良く解らなかったから、ほとんど緒方ひとりで決めたようなものだ。けれどヒカルでも理解でき、使えるものをと選んだ。 冗談でもお遊びでもなく、本当にヒカルが使うための洗濯機だ。 洗濯機の前にしゃがみ込んでニコニコとそれを見つめるヒカルの腕を掴んで、緒方は彼を立ち上がらせた。 「さて。それはいずれ使う事にして、だ。なあ、奥さん?」 意地悪にニヤつく緒方に見下ろされて、ヒカルは萎縮したような眼差しでその顔を見上げる。 「な、何だよォ……」 そんな彼にかまわず、緒方はスタスタと歩を進めてリビングのソファにヒカルを座らせた。自分もそれに続いて腰を下ろす。 「奥さんってのは、料理したり洗濯したり、それだけじゃないんだぜ」 「……?」 「いわく、旦那は家に帰って、奥さんに甘えるモンだ」 ニヤリと笑う緒方の言葉に、ヒカルは訳がわからなそうな顔を見せる。 「逆じゃなくて?」 「ああ」 こうやってな、と、緒方はヒカルの両肩にその手を置いた。 その手を肩から胸へとサラリと滑らせ、それを追うように、服の上からヒカルの肩に、胸に口唇をあてて行く。 そしてパサリと、その片方の膝の上に仰向けに頭を落とした。 その微かな重みと乾いた感触に、ヒカルは背を這い上がる戦慄を感じた。 ……うわあ……。 「どうよ」 膝の上から今度はヒカルを見上げる形で、緒方が笑う。 ――これはかなり……気持ちいいかも……。 ヒカルも笑った。 「うん。……いいな。いいかも」 「だろ?」 奥さんってのも、いいかもしれない。 ヒカルは単純だ。 上手い事緒方に丸め込まれたのかもしれないが、それでも気分は良かった。 「へへ……」 ヒカルは満面の笑みで、緒方の髪をクシャリと掻き分けた。 いつもいつも緒方がヒカルにする事だけれど、なるほどこれも、気分がいい。 「こら。混ぜんなよ」 「奥さんになってやったんだから。少しくらい我慢しなよ」 「なーにが『なってやった』だ」 あれほど緒方を嫁さんにしようとしてたくせに。 軽口を叩き合いながら、それでも二人は笑顔だ。 ヒカルのものが、増えて行く。 ヒカルの居場所が、増えて行く。 緒方の生活の中に、ヒカルの存在が浸透して行く。 ヒカルが緒方を自分のものにしたがったように、緒方だってきっとそうだった。 だから、こんな風になった。 だったらもう何でもいいかな――なんて。 ヒカルは笑顔の中で思っていた。 それでもやっぱりヒカルは、緒方にエプロンをプレゼントする事にした。 そりゃあ成り行きで自分が奥さんにはなってしまったのだけど。緒方の方が料理もするし、掃除もするんだし。緒方は自分に洗濯機なんて高価なものを買ってくれたのだから、エプロンくらいは自分が緒方にあげたかった。 自分とおそろいで、二人分用意してもいいし。 けれど、自分も着けるからという訳でもないが、緒方がフリルのエプロンを着けている姿を想像したら、やっぱりちょっと気持ちが悪かった。だからフリルはやめて、棋院の売店で売っているロゴ入りのエプロンでいいやと、かなりお手軽な事を考えた。 何故にそこまでこだわるのかといった感じではあるが、こんなこだわりを持ち続けるのが、楽しいのだ。 緒方の事を考えるという事。 緒方との未来を考えるという事。 それは、最上の幸せについて考えるという事だから。 だから、時々羽目を外すくらいの事は許してよ。 先は――長いんだからさ。 棋院の売店をうろつきながらひとり想いを巡らせていたヒカルは、ふと思い出したようにもうひとつ、心の中で付け足した。 ずっと幸せでいようね、と。 END |
●あとがき● 大半の方の予想通り(?)、立場逆転で収まりましてございます。 結論。幸せなら何でもいいってお話。ははははは、勝手にやってて下さいvv(蹴) ところで棋院のロゴ入りエプロンって、一般用に販売はされてるんですけど、売店においてあるんでしょうかね(笑)。行った事が無いのでわからんのですが(笑)。 |