UP20030114

痛み





 パチ。
 ――パチン。

 盤上に石を打つ音が、静寂の中に響き渡る。
 多くの人間がそこに居ながら、そこにあるべきざわめきが存在しない空間。
 対局中の広間は、いつもそうだ。あるのは石の音と、時々発せられる咳払いや呟きなどの、微かな物音だけ。
 ヒカルは、瞬きもせずに盤上を見つめていた。
 ――カン!
 鋭い視線もそのままに、ヒカルは一点に力強く石を打った。
 カシャンと対局時計を押す間に、相手の微かな舌打ちを感じる。石を掴みつつも逡巡する対局者の手に視線をうつした。
 (ムダだぜ。その大石は総潰れだ)
 着実に地を増やして行くヒカルの石を荒らす事に気を取られた対局者は、一番重要な弱点に一手後れを取った。ここをどう取り戻そうとしても、盤上の石は傷だらけだ。五分に見えていた形勢だったが、この一瞬ですでに大差。ヒカルに誘い出されていた事に、気付いたのかどうかは知らないが。
「……ありません」
 結局、対局者は投了した。
 誰が見てもわかる地合の差である場合、投げてしまった方が潔い。
「ありがとうございました」
 ヒカルは立ち上がった。




 帰り道をのんびりと歩きながら、ヒカルは微かな息をついた。
 ヒドイ碁を打った。
 高段者が相手なら、勿論あんな碁にはならない。今日の相手はそんなに苦戦する事も無いであろうと思えるレベルだった。その相手が幾度もヒカルの石を苛めるような打ち方をしてきたから、程々に相手をしながら大きなミスを誘うように打ち込んでいった。幾分無茶な打ち方をする相手だとは思ったが、もう少しキレイな手筋で勝てるはずだった。
 どうも、若干気分がささくれているようだ。
 何となく不本意なものを感じながら、ヒカルは歩く。
 不意に、ポケットに入れた携帯が特有のメロディで着信を知らせた。
「……っと」
 緒方からのコールだ。
 立ち止まったヒカルは、急いで携帯を取り出す。
「もしもし……緒方先生?」
『……どうした?』
「えっ……」
 挨拶の言葉も無しの突然の緒方の言葉に、ヒカルは一瞬面食らう。いきなりどうしたと言われても。あれ、自分は今日緒方に連絡を入れたっけ、と思う。いや、それはない。
「緒方先生? なんだって?」
『お前、機嫌悪そうな声してる』
「……」
 カンが良い。
 というか、電話からの声だけでそんな事まで解ってしまうのだろうか。それとも、自分が特別解りやすい? ヒカルは舌を巻いた。
「……よくわかったね。……ごめん。最近勉強会でも調子が良くなくて、ちょっと苛ついてた。今日もケンカみたいな碁打っちゃったし」
 フウ。電話の向こうで息をついたのが気配でわかる。
『そんな日もあるだろう。同じくらいの段位の奴にケンカ碁が打てるならイイだろ』
 必要の無い石取り合戦をしたり、そこまでしなくても良いという程に相手を手ひどく痛めつけたりする碁の打ち方は、マナーとして良しとされていない。それがプロであるなら尚更だ。
 けれど緒方は、その事について何も言わない。
 もともと緒方はヒカルの師匠という訳ではないし、ヒカルの手筋はそれとして、冷静に傍から見ていれば良いだけだ。同じプロである以上、良い碁を打とうが悪い碁になろうが、ヒカル個人の対局に口など出そう筈も無い。それが検討の場であったり、ヒカル本人が意見を求めているのというのなら、話はまったく別だが。
 それに、今回は確かにもっと良い勝ち方は出来たかもしれないが、ヒカルが自分で思うほどに悪い碁という訳ではなかった。ずるがしこく相手を誘導しようが、カス石で騙そうが、それだって対局の上での策の内だ。ただヒカル自身が、勝つためというよりは相手を陥れるために打ちまわしたような今回の対局に納得できなかったのだ。自分の心の余裕の無さが、今日の対局をヒカルの目に必要以上に悪く映し出してしまったのだろう。
 緒方は、目の前にいない相手でありながら、その辺の事は考慮に入れていた。
『勝ったんだろ。素直にそれを喜んでおけよ』
 勝つ事こそが、重要なのだ。ルール違反さえなければ、その手段は問わない。
 そんな緒方の一歩はなれた位置からの意見に、ヒカルはフウ、と息をついた。
 その表情は、微かな笑みに変わる。安心したのだ。
「そうする。いつまでもクサッてたって仕方ないもんな」
『そうだ』
「最近、なかなか会えなかったしさ」
 気を取り直して、ヒカルは緒方に矛先を向けた。
 きっと緒方は、顔をしかめているだろう。
『仕方ないだろ。お互い様だ』
 最近はすれ違いのスケジュールが続いて、二人はなかなか共通の時間を作れずにいた。
 緒方相手につい口に出してみたヒカルだが、それが仕方ない事だと理解してはいる。
 お互い、同じものに情熱を傾けているのだ。
 今からそんな事を言っていたら、どうしようもない事もわかっている。
 今だからまだ時間は取れるが、ヒカルがこのままの勢いでレベルを上げていったとしたら、これまで以上にお互いの時間はなくなるのだ。各種棋戦、タイトルリーグ。忙しく走り回っている現在の緒方と同じように、ヒカルも囲碁に時間を取られる事になる。
 そんな事はもとより承知。
 わかっていて、二人は一緒にいるのだ。そして、むしろ自分たちはそれを望んでいるのだから。
『お前、そんなで大丈夫なのか? 知ってると思うが、俺は明日、明後日と出張なんだぜ』
 一応家にいないからと、緒方は確認のために電話を入れてきたのだ。
「知ってるよ。大丈夫だって」
 ほんの冗談じゃん、とヒカルは笑ってみせる。
 ちょっと会えなかった時間が、一日や二日増えたって同じ事だ。
「そうだ」
 ヒカルはふと思い出したように、耳に当てた携帯を持ち直した。
「明後日会えないから、今言っとくよ。……誕生日、おめでと」
『……ああ』
 緒方も、今思い出したように言葉を返す。もうすぐ、緒方の誕生日がやってくるのだ。
『良く憶えてたじゃないか』
 緒方の言葉にヒカルは、フ、と笑った。
「バカにするなよ。……今年はお祝いできないけどね」
『別にかまわん』
 誕生日の祝いにこだわる歳でもない、と緒方は言う。
 祝えたところで、何か気の利いたプレゼントが出来るわけでもないし、とヒカルも思う。そりゃあ会うくらいの事はしたかった気もするのだが、それも仕方が無い。こういう事は、これからだってあるはずだし。
 ヒカルも、あまりこういう事にこだわる性格ではない。

 気を付けて行ってきて、と言い置いて、ヒカルは電話を切った。




 パチン。
 ヒカルは自室でひとり、盤上に石を並べていた。
 若手プロが、自作の詰碁をネットで周りに配っていたのを、和谷がプリントアウトしてきたものだ。詰碁作りの天才と言われるその人の問題は、九段の先生方でも難解なものがあり、なかなかに人気だ。
「わっかんねえ……」
 ジャラ。
 何度も石を置き直して解答を出す事に専念していたヒカルだが、どうしても解らなくて白黒の石をかき混ぜた。
 集中出来ない。
「はあ……」
 本当に、ここ最近のヒカルはパッとしない気分が続いている。今日にはもう緒方が帰ってくるはずだが、こんな顔のヒカルを見たら、どう思うだろう。
 理由もわからずイライラする。
 ひとりでいると、少しずつ頭の中に真綿が敷き詰められていくようで、何を考えていても、思考はその綿に染み込んでいくように混濁してしまう。
 こういう時は、ひとりでいたくない。けれど、誰とも会いたくない。
 今日の夜には緒方が帰ってくるだろう。けれど、明日はまた和谷達との勉強会。
 今度会えるのは、いつだ?

 ヒカルは、ゴロリとベッドの上に横になった。枕ごと頭を抱える。
 今日は緒方の誕生日。けれど、ヒカルはそういう事にこだわってはいなかった。否、こだわっていないつもりだった。今でもそのつもりだと思うけれど。
 今日この日に、誰とも会いたくないと思っていた。
 正確には、緒方以外の人間に会いたくなかったのだ。
 なんだ。なんだよ。

 ――結局、会いたかったんじゃん。

 なんだよ。馬鹿みてぇ。
 今日が彼の誕生日でも、そうでなくても別に良い。何日も会えない日が続いている、その事がヒカルの気持ちをイラつかせていた。結局ここ最近の心の曇天の原因は、緒方だったのだ。
 もっと、平気でいられると思っていた。
 もしも、この先一年間会えないけれど大丈夫か、と問われれば、ヒカルは大丈夫だと答えるだろう。それは、会えないからといって相手の気持ちに不安を抱いたり、自分が淋しさ故に他に走ったりはしないという意味で、大丈夫なのだ。
 会いたい時は、やはり会いたい。
 ちょっと会えなかった時間が? 一日や二日増えたって同じ事?
 そんな訳ない。一時だって早く、会いたい時だってあるのだ。
「しっかりしろよ……」
 ヒカルは突っ伏したまま呟く。
 何度も己に言い聞かせてきたように、自分が囲碁の世界で上に行こうとすれば、必ず今よりも不自由な時間は増えるのだ。
 年頃だから。子供だから。そんな言葉で自分を甘やかすつもりはさらさら無い。

 もしも。
 もう少し大人になって、もしも一緒に暮らす事が出来たら、こんな事も無くなるのかな。
 ヒカルが時々緒方の家で夜を過ごすようになってから、何度も目にした対局場以外での彼の姿。朝の顔。
 ふたりが、同じ場所に帰るようになれば。

 フラッシュバック。
 ――旦那は、家に帰って奥さんに甘えるモンだ。
 緒方の言葉。ヒカルが使うようにと購入した洗濯機。

 あれはつまり、こういう事?
 今更のように、それに気付いたヒカル。
 何を言っている。それ以外に、何があるというのだ。
 緒方がヒカルのために用意した、ヒカルの場所。ヒカルがいつでもそこに行けるように、緒方はとっくにそこを空けておいたのだ。
「緒方先生……」
 会いたい。――会いたいよ。
 ヒカルは、抱えた枕をただ強く抱きしめた。




 突然に鳴り響いた携帯の着信音に、ヒカルは心底仰天した。
 相手は、緒方。
「……もしもし?」
 取り出した携帯に向かって囁くヒカルの口許からは、白い息が漏れる。
『よう。元気だったか』
「何だよそれ。……今帰ってきたの?」
『ああ、ちょっと前にな』
 今日聴く事はないと思っていた緒方の声に、ヒカルは胸の中がフワリとあたたかくなるのを感じた。ジンと、それは四肢にまで浸透して行く。
「どうしたの?」
 ほんの少し、ヒカルの声が明るく浮かんだ。
『進藤、今から出てこられるか?』
「えっ?」
 いきなりの緒方の言葉。
 辺りの空気は、既に闇。もうとても早い時間とは言い難い。それでも普段であるなら会うのには支障はないはずだが、緒方はたった今出張から帰ってきたばかりだ。
「緒方先生、疲れてるんじゃないの?」
『ああ、疲労困ぱいだぜ。この一週間で公式手合を含めて四日間、対局し通しだ』
 殺人的スケジュールである。
 高段者、しかもタイトルホルダーともなると、時々週に4回も5回も対局する事があるが、そうなった時の棋士は心底ヘトヘトだ。それほどに、プロの棋士は一局に集中、全力投球するものだ。それに常に、各種リーグ戦の細かい勝敗の計算だって付きまとう。今すぐにでも寝に入りたいだろうにと、ヒカルは思う。
『まあ、俺がいいって言ってんだからいいじゃねえか。暇なら来いよ。迎えに行ってやるから』
 緒方の言葉に、ヒカルはうろたえた。なんと言えばいいだろうと思うが、しかし正直に言うしかない。
「あ、あの、迎えは……いらない」
『何?』
 ハア、と、ヒカルは白い息を吐く。
「今……もう緒方先生の家の近くにいるんだ」
『はあ?』
 今すぐ会いたいと、思っていた。声を聴きたかった。
 けれど、緒方が疲れているだろうという事を考えたら、電話をする事も躊躇われた。だからせめて、緒方のいる家を眺めるくらいなら、と、ヒカルは家を出てきていたのだ。マンションの外から眺めるだけならいいだろう、と。
 我ながら女々しいと思わなくもなかったが。
「もうすぐ、緒方先生の家が見えるとこ」
『バカ。塾帰りの受験生じゃあるまいし、ガキがこんな時間に外ウロウロしてんじゃねえよ』
「バカじゃないよ……ああ、今見えた」
 道を歩くヒカルの視界に、緒方の住むマンションの外観が姿を現した。
『すぐ行くから、待ってろ』
 唐突に緒方は、電話を切った。
 たしかにここまで近所にいる以上、電話で話すのは無意味だ。
 ヒカルがゆっくりと歩いてその建物の前に辿り着いた頃、緒方が入口から姿を現した。
 緒方もゆっくりと、こちらに歩み寄ってくる。
 目の前まで来て立ち止まった緒方の顔を、ヒカルは見上げた。久しぶりに目にする、緒方の姿だ。
「何やってんだよ、お前は」
 呆れたように呟く緒方。
「緒方先生こそどうしたのさ。こんな時に呼び出すなんてさ」
 ヒカルは、ほんの少し俯き加減になる。
 疲労困ぱいであるこんな時にヒカルを呼び出すなんて、また自分が緒方にいらぬ気を遣わせてしまったのではないかと思った。
 あの時自分が、なかなか会えなかった、なんて言ったから。
 緒方はカンが良いのだ。
 実際に、久しぶりに緒方の顔を見たヒカルの気持ちは、こんなにあたたかくて満たされている。胸がつまって、痛いくらいだ。
 そんなヒカルの気持ちを、緒方はいつでも一番に感じて拾い上げるような人だから。
「別にいいじゃねえか。どうせ暇だったくせに」
「そうだけど」
 自分の都合が悪いからそんな問いかけをしているわけではない。
「別に深い意味なんざねえよ。ただお前の顔を見たくなっただけだ」
 ヒカルは、ヒョコンと目を見開いた。
 緒方の言葉が、ヒカルの胸を打つ。
 ――お前の顔を、見たくなっただけだ。

 疲れているのにね。

 疲れているのに。
 疲れているから、顔を見たくなった? そう思っていていい?
「……ありがと」
「何がだ」
 ヒカルは、ゆるゆると首を振った。

 この人の傍にいて、良かった。
 初めてこの人と出会って。名前を覚えるまでに、随分時間がかかった。それから何度も顔を合わせるようになって、いつの間にか自分の中に生まれていた想い。不安。
 そんな不安が大きすぎて。
 失うかもしれない恐れに、それ以上進めなかった、あの時の自分。
 そんな自分の事を、それでも望んでくれたのが緒方だ。あの時緒方がこの手を引き寄せなかったら、今のヒカルはいなかった。
 あの時の自分は、大切なものを失った事で、とてもとても臆病になっていて。
 また失うのが怖かった。
 だから、大切なものがこの心に生まれてしまわないようにと。
 だけど、良かった。この人の傍にいて良かった。
 あのまま失う事を怖れて、この人と共にいる事を拒んだとしたら。心を通わせる事も無いまま、ずっと。
 そうしたら、会えない苦しみは、これまでもこれからもずっと、続いていたのだ。

 こんなに好きな人と離れていて、平気でいられるはずが無い。

 緒方への想いで迷うヒカルを、緒方は受け容れたわけではなかった。緒方もヒカルを望んでいたから、その身体を、自分のもとへと引き寄せたのだ。
 自分が望むのと同じように、この人も自分を望んでくれたから、今自分はここにいる。
 そして、自分が会いたくて仕方が無い時に、『会ってくれる』のではなくて『会いたい』と言ってくれる。

「ありがとう。俺、俺の事……好きでいてくれて」
「何だよお前は……いきなり」
 緒方の言葉にも答えられず、ヒカルはただ俯いて、かたく瞼を閉じた。右手で、その表情を隠すように顔を覆う。そうしなければ、泣き出してしまいそうだった。
 顔を覆う右手が震えているのに気付いて、ヒカルは慌ててその右手を左手で押さえた。けれど、左手も同じように震えている。
「……進藤」
「ごめ……、参った。はは、自分で思ってたよりずっと、へこんでたみたいだ」
 顔を覆ったままガタガタと震えが止まらないヒカルの手を、緒方はそっと外した。その代わりのように、その頭を引き寄せて肩口に抱く。
「馬鹿」
「馬鹿って言うなよ……」
 止まらなかった手の震えは、それを緒方の手で包み込まれてようやっと収まった。まるで、サァッと潮が引くように。
 ヒカルは、息をつく。
「ちょっとの間だけでいいからさ……このままでいてよ」
 肩口に顔を埋めるヒカルの囁きに、緒方は言葉を返さなかった。けれど、そのまま微動だにしない身体が、その答えだ。
「会いたかったんだ。ずっと。俺、それに気付いてなかった。けど緒方先生が、俺の顔見たかったって言ってくれて、嬉しかった」
 この人と一緒にいる事で、自分が弱くなっていると感じた。緒方はそれを違うと言ってくれたけれど、この人に会いたいと渇望する自分は、やはり強くはないと思う。強くなりたいと思っていても、自分はあの時から少しも変わっていない。
 緒方は、そんな自分を、必要としてくれる。
 自分の弱さに打ちひしがれるヒカルに、お前が必要だとはっきり言ってくれる。隠さずに――伝えてくれる。
 だからヒカルは思うのだ。
 ありがとう、と。

 自分は弱いのかもしれない。
 けれど、想いは強くなった。

「誕生日おめでとう」
 ヒカルは、今日言えないはずだった言葉を唇に乗せた。
「ああ」
 緒方はただ頷く。
「プレゼント、欲しいだろ」
「何だそりゃあ」
 プレゼントあるよ、と。
 ヒカルは緒方の肩に頬を当てたまま、笑った。
「緒方先生がいないと駄目なヒカル君」
 ヒカルの言葉に、緒方の肩が揺れた。彼も笑ったのだ。
「今更何言ってやがる。そんなの前からだろ。プレゼントにならねえぞ」
「意地悪いな」
 クク、と笑いをかみ殺しながら、緒方はヒカルの髪を掻き混ぜた。
「――ありがたく、頂戴しておこうか」
 会えない事に苛ついていたのは、お互い様だ。
 緒方がヒカルに会いたいと思ったのも、本当。
 そんなヒカルは、声を掛ける頃にはすでに緒方の家へと向かっていて、顔を合わせるなり泣きそうになった。そんな彼に、胸の中の焦燥が広がって。
 抱き寄せたら、すぐに笑った。

 ――愛おしい。
 痛感する。
 愛おしいと思う事がどういう事なのか、人を愛さなければわからない。
 わかってもそれは、言葉ではなく、心の中で。
 言葉にならないから、痛感するのだ。

 ちょっとの間だけ、という言葉の通り、緒方はそっと、ヒカルの身体を離した。
 ヒーターを入れたままの部屋が、二人を待っているからだ。
「疲れてる緒方先生を、労ってくれよ。暖かい部屋でな」
「肩たたいてあげようか」
 からかいまじりのような緒方の言葉に、ヒカルも笑顔で返す。
「アホウ」
 軽口を叩き合いながら、二人は歩き出した。
 疲れた身体を休める方法はいくらでもあるが。まずは、会えなかった時間を埋め尽くすまで、愛おしいその人と抱きしめ合って夜を過ごすとしようか。
 そんな風に思いながら、緒方は共に歩くその身体を、腕の中へと引き寄せた。




END




●あとがき●
まあ……緒方の誕生日云々よりは、単にヒカルの対局中の姿を書いてみたかっただけなんですー。最初の数行で目標達成(バカタレ)。震えが止まらないほどに人を愛せるなら、幸せですわよvv 一歩間違えるとマゾですが(笑)。まあともかく、今夜もヒカル君は家に帰らないでしょう(笑)。
ともあれ、早い話がタイトルの『痛み』は、痛みは痛みでも甘い痛み……だったようです。



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