UP20021126

花菖蒲





 白く吐き出される微かな吐息は、ほわり、と産まれ出てすぐに、儚く広がって消える。

 陽の光を遮るものもなく、晴れ渡った空の下、それでも凍てつくような冬の空気の中で、光はぶるりとひと震えして手を擦りあわせた。ついと上方に視線を向けてみれば、良く手入れされた梅の木には固い蕾がつきはじめている。
 花をつけたらさぞ見事だろうな、と光は考えた。
「近衛」
 低く落ち着いた声に振り返ると、そこにはこの梅の木の持ち主の姿があった。つまり、今光が招かれ佇んでいる、広大な屋敷の主である。
 ――正確には、招かれているのは光ではなく佐為の方なのだが。
 たまにはゆっくりと外野に邪魔されずに対局できるようにと、緒方が個人的に佐為と行洋を屋敷へと招いたのだ。光はその佐為の護衛としてついて来ている。
「……緒方さん」
「こんな庭の外れで何をやっている。佐為殿が、お前の姿が見えないと心配していた」
「あ……もう打ち終わったんだ……ですか」
 微妙に慣れない言葉使いに舌を噛みそうになりながら、光は緒方の方へと向き直る。
 そんな光の様子に、緒方は微かに口許を笑みの形に変えた。
「すでに打ち終えて、行洋様と歓談されているよ」
「そっか……」
 緒方はついと視線を上に向けた。先程まで光が見つめていた先を見つめる。
「こんな何もないところで、何を見ていたんだ」
 緒方の言葉に、光はあからさまに口をへの字に曲げる。
「何にもなくないじゃないか。ほら、梅の木が蕾をつけてる」
「まだ花は咲かないぞ」
「花はまだだけど! 花だけじゃないだろ? 枝振りも見事だし、寒さの中でじっと佇んでる姿だって強さと風情がある」
 光の発した『風情』という言葉に、緒方は本気で吹き出した。
「な、なんだよ」
「風情って顔か? どこで入れ知恵されたんだ?」
「……ッ」
 実は佐為の請売りだ。
 光自身、花木を愛でるような繊細な神経はほとんど持ちあわせていない事を、しっかりと緒方に見抜かれている。だが、昔佐為が言った事をふと思い出して、ちょっとだけ緒方の言葉がカンに障ってしまっただけなのだ。
 思い出したのは、春に緒方の屋敷で行われた花見の宴。
 あの時佐為は、随分と哀しそうな顔をしていたっけ。
「花だけじゃないよ。花の咲いていない木なんて……道具にならないものなんて緒方さんは気にも留めないのかもしれないけど」
 ただ美しいと感じられる儚き花でさえ、貴族の権力誇示や政治のための道具にされていると、あの時の佐為は淋しそうに笑った。
 貴族である行洋や緒方と、貴族という立場から身を翻した佐為。決して解り合えない事はないが、その感覚にはやはり何らかの隔たりがあるのは否めない。
 光が何を言わんとしているのかを汲み取って、緒方はニヤリと笑った。
「花が美しい事は、俺だって知っているぞ。だが花は美しいだけじゃなく、役にも立つ。それを利用させてもらっているだけの事さ」
「……」
「元気だけが取り柄のお猿だと思っていたが、随分と情緒のわかる男になったじゃないか。そんなに花が好きなら、また見に来るといい。ただし、梅も桃もまだ先だがな」
 確かに花は綺麗だと思うが、別に光はさほど花が好きという訳ではない。むしろ花見といえば花より団子という方が良く似合っている。
 ――そうか、緒方さんの花見の料理は凄いんだっけ。
 うっかりそんな事を考えてから、ブルブルと首を振る光。
「な、なんだよ、俺を懐柔して佐為を行洋様の一派に取り込もうってつもりなら、そんな策には引っかからないからな!」
 すでに言葉使いも素のままに、あまりに無礼な光の物言いにも、緒方はまるで気にする様子はないが。
 藤原行洋の片腕として宮中でもその名を馳せる上流貴族である緒方に対して、たかだか検非違使である光ごときが取って良い態度ではない。しかし、光自身がその事に気付いていないのだからおめでたい。光に気付かせないような、そんな態度で接している緒方のせいもあるかもしれないが。
「たしかに佐為殿の存在は未だ諦められるものではないがな。安心しろ。佐為殿の気を引くために、お前なんか利用しようは思わない」
「お前なんかってなんだよ……」
 光は口を尖らせるが。緒方はただ笑う。
 確かに、緒方は佐為や伊角などを懐にとり込もうとするような動きを時折見せたりはするが、まわりの人間から懐柔するというような回りくどい手は使わない。これで案外直球勝負な男だ。
 光が言うように、花や娯楽は利用するだけするかもしれないが。
「お前も佐為殿も、貴族の中で暮らすのであれば、もう少し器用になった方が良いな」
「別に……」
 好きで貴族と関わっている訳ではない。
 佐為だって、今でこそ行洋や他の貴族と楽しく碁を打っているようだが、本当は碁会所を訪れる町人と、慎ましやかに碁を打つのを望みとしていた。貴族の生活を嫌う佐為が、それでも貴族の人間と笑い合っているのは、多くの貴族がそうするように、貴族とそうでない者を差別するような人間ではないからだ。
 貴族であるというだけで嫌うのでは、多くの民にそうする嫌な貴族と大差なくなってしまう。
「緒方さんは、知ってるんだろ? 佐為がどうして、貴族を嫌ってたのか」
「知っている」
「それでもまだ、佐為を行洋様の方に引き寄せようとするのか?」
「機会があればな」
 光の問いに対し、あまりに簡潔な緒方の言葉。
「別段、今は無理に佐為殿を引き入れようとは思わんよ。行洋様のお立場に何事かの危機的な事態が訪れるような時には、おそらく佐為殿は誰よりも真っ先に動こうとするだろう? それはつまり、佐為殿は今の佐為殿のままで行洋様のお力になるという事だ。それで良いんじゃないかと、俺は思うよ。馬鹿馬鹿しい無理強いはせん」
 確かに、そこのところは緒方の言う通りかもしれない。
 御所に足を踏み入れる事すら嫌がっていた佐為だが、今は楽しそうだ。心無い貴族達の思惑はどうであれ、佐為を慕ってくれる宮中の人々や帝、そして行洋に何かあった時には、佐為は迷わずその手を差し出すだろう。
「碁を愛する者同士で盤を囲み、慈しみ合う者同士で手を差し伸べ合う。それで万事都合良く事を運べているのだから、それ以上の理想はないだろう」
 たしかに、それで佐為にも行洋にも、ひいてはその周囲にいる者たちの間でも丸く収まるのだから、今の状態はある意味理想的なのかもしれないが。
「それはそうかも、しれないけどさ……」
 なんだか、釈然としない部分もある。
「じゃあなんで、俺を誘うんだ?」
 唇を尖らせた光に上目遣いに見上げられ、思い出したように先程の話題をひっくり返されて、緒方は少々面食らう。面白い話の運びをする人間だ。変な事で感心してしまう。
「別に深い意味はないさ」
 そう言ってひらりと片手を振ってみせるが、まるで納得していないというように、光は眉間に皺を刻む。いちいち警戒心の強い男だ。もっとも、それくらいでなければ検非違使の職務など務まらないかもしれないが。
「まあ、興味本位だな」
 冗談のように濁してみるが。
 本当の意味で、緒方は光に深い興味を抱いていた。
 いつもと変わらない日常の中で、いつもと変わらず緒方の周りにいた人間。彼らと共に過ごす、ひどく当たり前の毎日。公務に追われ、策略と偽りの間をすり抜け、かいくぐって己の地位を築き上げる日々。
 そんな中に、光は佐為と共に突然に現れた。
 内裏に出仕する佐為の護衛役を勤めるこの少年と接触して、にわかに周囲に変化が生じた。
 明も。伊角も。倉田や行洋に至るまで。
 佐為ももちろんだが、何よりもこの光に会って、皆が変わった。
 自分の利益になるもの以外にはあまり興味を示さなかった緒方自身ですら、その心境に微妙な変化が訪れていた。
 いつも明るくてうるさくて、しかしそれが鬱陶しくない不思議な人間。
 未だ歳若いこの少年の、凛と立つその姿に。
 自分は、興味を覚えているのだと思う。

「――やはり、少し違うかな」
 にわかに呟いた緒方の言葉に、光はいぶかしげな視線を送る。
「違うって、何が?」
「いや」
 緒方は、先程見ていた梅の蕾に再び視線を注いだ。
「梅も桃も良いが、それよりもお前には菖蒲の方が似合う」
 色気も何もない穂も、まっすぐに上に向かう感じがとても印象に合うが、色濃い花の美しい花菖蒲も良い。その花の色合いも、屹立するすべらかな茎や葉も、他のどんな花よりも光に似合うような気がした。
 邪気を払うと言われているそれは、妖に対し剣を振るう光の姿にも似ている。
「見るなら、花菖蒲の方が良いな。どうせなら初夏の菖蒲園の方にしよう」
「は、ァ……?」
 なんだか、知らぬうちに着々と計画が練られている。
「貴族さんが、そんな所をふらふらしてて良いのか?」
「たまには御忍びも良いさ。護衛もいる事だしな」
 それはもしかして、自分の事か。

「光〜?」
 遠くから、佐為の呼ぶ声が聞こえた。
「佐為? ここだ、ここ」
 その声に振り返って声をたてると、佐為が小走りで近付いてきた。その後方に、行洋の姿も見える。
「光、こんな所にいたのですか? 探しましたよ。まったくあなたは、御屋敷の敷地内を勝手にうろうろするなんて」
 ハアハアと息の上がる佐為。彼はあまり体力に恵まれていない。
「ああ、緒方殿が先に探して下さったのですか? 本当に、申し訳ありません」
「いや、庭をうろつくのは別段構わんが。護衛の意味は、まるで無いな」
 確かに光は、佐為の護衛として緒方の屋敷に来ていたはずだが、佐為の傍を離れているのではあまり意味が無い。
 悪かったな、とむくれる光に、佐為はクスクスと笑った。
「何かお話をされていたのですか?」
 佐為の言葉に、緒方がああ、と相槌を打つ。
「季節になったら菖蒲園に行こうという話をしていたんだ」
「菖蒲園?」
 キョトンと瞳を見開く佐為の後方で、行洋がゆっくりとした動作で頷いた。
「菖蒲か。花菖蒲を傍で愛でながら野点を催し、そこで碁を打つというのも一興かも知れぬな」
 物静かな行洋の言葉に、佐為はひときわ大きく瞳を開いた。
「碁!?」
「左様」
 緒方が頷くのを見て、佐為はガバリと光の背中に抱き付いた。
「光、光! 私も行きたい! 花菖蒲の中で、碁を打てるんですよ!」
 ぶいぶいと左右に身体を振られて、光はぐえ、と顔を歪める。これ、と制止しようとする行洋の手も、佐為はまるで気にもしていないようだ。
 相変わらず碁の事になると目の色を変える佐為の姿に、一同苦笑を禁じ得ない。
「だああッ! もう、佐為!」
 緒方と光の間では碁の話など出てはいなかったが、こういう展開になるのは目に見えていたというか、緒方もわかっていて話を振ったのであろう。
「わかったから、放せって、佐為!」
 仕方なく叫ぶ光。
 何にせよ、佐為が行くと言うところには光もついて行く事になっているのだ。光は佐為の護衛役なのだから。
「光ぅ〜〜っ!!」
 全身からハートマークを飛ばす勢いで光を抱きしめる佐為。
 日常から佐為を守るために寄り添う光に、彼は絶対の信頼を置いている。だから時に、他の誰にも見せないようなこんな甘えの一面を覗かせたりもするのだ。
 そんな佐為の姿を、彼にほのかな想いを寄せる女房達などは微妙に複雑な面持ちで見守っていたりもするのだが、当の本人達はまるで気付いてもいない。

 そしてそんな佐為の姿を知っているからこそ、緒方は佐為をこんな風に変化させた光に興味を抱いたのかもしれない。そう、佐為や光に会って周りの人間は変わったが、誰よりも、光に出会った佐為が一番変わった。内裏に出仕しはじめた頃の佐為は、いつもどこか苦しそうな顔をした、物静かな人間であったのに。
 そんな風に人を変えて行く光の姿に、何を見出そうというのか?
 その輝きの源を見極めたいのだろうか。
 だとしたら、見極めたその後には、どうするつもりなのか。

 わからない――けれど。

 ともあれ、どうも自分はこの少年達の中に深入りしようとしているらしいという事を、緒方は静かに自覚した。
 どうしてとか、何を求めているのか、とか。
 細かいところは自分でもわからないけれど。
 退屈な日常より、ずっと良い。

 ひとかたまりに揉みくちゃになっている光と佐為を眺めながら、緒方は半年も先の野点の計画を思い描いて、ひとり静かに微笑むのだった。




END




●あとがき●
はい、お初の幻想異聞録ネタでございました。一応オガヒカ風味になっているんですが、またまた微妙ですね〜〜。何せ、平安の貴族というのが微妙ですからね〜(笑)。ですが異聞録自体、普通の平安京ではないので(笑)別に何をやっても構わないんですけどね。倉田なんてサインとかしてるし(爆笑)。



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