UP20030319
緒方家騒動記 ― 2: 夢の継承
パチン。 石を打つ音が、静かにその場の空気を揺らす。引き戸を開け放った和室に吹き込む風は穏やかで、あたたかい。 一手目、黒の石を置いた岸本の表情を伺うように、ヒカルはその顔を上目遣いに見つめた。 「ホントに、定先でよかったの? ニギリの方が……」 互戦を勧めようとするヒカルを、岸本は独特の静かな視線で制した。 「定先でも足りないくらいだよ。今のキミ相手にはね」 互戦であれば、後から打つ白番に不利がないように、コミが5目半から6目半設定されるのが普通だが、定先で打つ場合、白を持つヒカルにコミは与えられない。つまり、黒を持ち有利である岸本に、さらに余裕が与えられるのだ。 初めて岸本と打った時の感覚が未だに残っているヒカルは、ついつい互戦で打とうとしてしまうのだが、岸本にしてみれば、すでに二人の実力の差は目に見えて明らかだ。 「……」 それ以上は何も言わずに、二手目の白石を打つヒカル。 岸本と初めて打った時のヒカルは、彼の足許に及ぶかどうかといったところだった。それが今やプロの棋士だ。 けれど、今の岸本だって、あの時の彼よりも数段上達している。あの頃院生の一組に上がるのだってやっとだったと言っていた彼だったが、今ならどうだか。院生のトップクラスなら、プロを負かす人間だっているのだ。 パチン、パチンと、しばらく無言のままに石を打つ音だけが小さく響く。碁を打つ者にとっては、心地よい沈黙の空間だ。 さすがに、弱くはない。 ヒカルはそんな風に思う。 アマの碁にありがちな隙や唐突な悪手が、岸本にはない。舌を巻くほどの厳しさはないが、なかなか上手くは打ちまわせてもらえない。 ただやはり――盤上に視線を落とすヒカルの胸中は、他のプロとの対局にはない、とてもリラックスしたものだったけれど。まだまだ、ヒカルには余裕があった。 「岸本さんってさ……」 ふいに名を呟かれて、石を持った岸本の手が碁笥に被ったまま止まった。 「プロになるつもりは、もうないの?」 一瞬驚いたように見開かれた岸本の瞳を、ヒカルはまっすぐに見つめた。 まだ遅くはないんじゃないかと、思ったのだ。 いまさら院生には戻れない。岸本は以前に院生であったのをやめているし、もともと十八歳までしか院生ではいられないが、院生試験自体は、受けられるのは十四歳までだ。 けれど、外来という道だって残されているのだ。プロ試験は三十歳まで受けられる。院生一組までいける実力を持っていた岸本なら、可能性がないわけではないと――ヒカルは思うのだけれど。 「キミは……僕が院生だった事を知ってるんだったね」 カシャン、と、岸本は碁笥の中に持っていた石を戻した。 伏せ目がちになった岸本の髪を、柔らかな風が撫でて揺らす。 「確かに僕が院生を辞めたのは、実力の限界を感じた、という事もあるけれど、それだけではないんだよ」 一瞬眼を伏せた岸本に、ヒカルはもしかして良くない事を訊いたのかもしれないと考えた。が、しかし岸本は微かに笑みを浮かべていて、その表情はやわらかい。 「囲碁の高みを目指すのなら、プロの世界は最適だろうね。互いにしのぎを削り合い、伸ばしあえる理想の環境だ」 けれど。 岸本は言う。 プロになるという事は、囲碁の高みを目指すという事だけにとどまらない。ただ対局をしていれば良いという訳ではなく、多種多様な仕事がついて回る。囲碁の普及に努め、各界を練り歩き。時に不本意な一局を打つ時だってあるだろう。所詮、棋士もサービス業だったりする。 プロであるという事は、囲碁でお金をもらうという事なのだ。 そうでありながら、数ある対局を勝ち上がっていかなければならない。タイトルを取るという夢を皆が抱いてはいるが、タイトルホルダーになれるのはプロ棋士の中のホンの一部である。 生き残りを懸けた、決死の戦いを繰り返し。 苦悶。挫折。絶望する時もあるだろう。 その厳しさは、想像を絶するものだ。 「そういう世界にはね。自分は向かないと思ったんだよ」 プロになれるものならと。誰もが一度は夢見るのかもしれない。 伸びない実力に夢を断たれる者も多いだろうが、道半ばにして進路を変える者もいる。岸本は、それに近い。彼はギリギリまで踏ん張って、最後まで夢に食いついていたわけではない。それが良しとされるものであるかどうかはともかくとして。 岸本は、再び手にした黒石を、静かに盤上に打った。 「キミは頑張っているようだね」 急に自分の方に話を振られて、ヒカルはついつい居住まいを正してしまう。 「順調に、白星を勝ち取っている。――以前、しばらく休場していた時には、僕も少々心配したがね」 「え……」 その言葉に、ヒカルは驚きの表情を隠せない。 まさか。岸本にまで。 「理由は、訊く気はないよ。その時期があって、その上で今のキミがあるのだと思うし。それよりも、今を闊歩するキミの実績の方が大事だ」 姿勢を正し、静かに紡がれる岸本の言葉には、表現し難い重みがある。 「キミが、僕の夢を受け継いでくれた」 「――!」 「僕は諦めてしまったけれど、キミの事を後押しできた事を、そしてそのキミが今こうして碁の道を進んでいる事を、己の誇りとしているよ」 「岸本さん……」 辛い事もあっただろう。 アキラとの対局、そして敗北。そんな経験を経てなお、彼を追い続けるヒカルの姿。そんなヒカルを、半ば強引なやり方で、岸本はより深い囲碁の世界へと放り込んだ。自らの言葉を踏み台として。 しかし、その道は容易なものではない。その事を、岸本は身をもって知っている。 失うものも多かったろう。自ら捨てなければならないものも、数多くあったはずだ。そうまでしてなお、プロの世界にすら手の届かない者が多く存在する。その中のひとりであった岸本は、ヒカルをその手で送り出す事で、己の夢を託したようなものなのだ。 そうやってその世界を走り出したヒカルが一度足を止めたのには、何か理由があるのだろう、と思う。そこまでかっちりと未来を見据えた瞳が伏せられるとするなら、そこには計り知れない何かが存在したはずだ。多分、言葉にするのは難しいだろう。 だから岸本は、ヒカルに何も訊こうとはしない。 「僕や、キミが乗り越えてきたすべての人間の夢を、キミは継承しているんだよ」 夢が潰えた事よりも、その夢を受け継いで歩くヒカルの姿を見ている事に、岸本は喜びを感じている。 「だから、僕はこれでいいんだ」 ヒカルの背を、押し出した人。 そして、ヒカルが自らその手を振り払ってしまった人たち。 そしてこの岸本と同じように、この身に夢を託した、かの人の魂――。 そんな人たちの想いを、ヒカルはその背に負っている。そしてこれからもずっと、それを背負って歩くのだ。 ヒカルは、スッと息を吸い込んで、そして静かに吐いた。 パチン、と石を置く。 「岸本さん……オレは、この道をずっと行くよ」 だけど、と付け足した。 「ずっとひとりで歩かなきゃならない道だ。けど本当は、ひとりだけじゃ本当に前に進む事なんて出来ない」 自分を支えるさまざまな人間の手を取り、また放して、ヒカルはここまで来た。ひとりであったなら、ここまで歩いてくる事は出来なかった。 「時々、振り返る事があるかもしれないけど……許してよね」 軽い口調ではあるが、真摯な表情のヒカルの言葉に、岸本は口元を緩めた。 「振り返ることは、構わないんじゃないかな。後戻りさえしなければね」 後戻りしようとしたところで、戻れるものではないけれど。そうやってもがく人間も、また多い。 「少し楽にしたい時には、僕が相手になってあげるよ。今のようにね」 その言葉と共にパチ、と打たれた石に、ヒカルはほんの少し片眼を細めて肩をすくめた。 「岸本さんじゃ、あまり楽はさせてくれなさそうだけどね」 苦笑しつつ、そんな事を言ってみる。 「光栄だね」 ふうわりとやわらかく解かれるその口許と目許は、普段の岸本にはあまり見られないものだ。そんな表情を時々目の当たりにするヒカルは、その度にほんの少し瞳を細めてしまう。まるで、眩しいものにそうするように。 自分に厳しく、他人にも厳しく。そして密やかな優しさをその胸に持つ人。 その静かな存在に触れて、穏やかな波の到来に心地よく身を任せながら。 ヒカルは小さく「ありがとう」と呟いた。 END |
★氷村はもともとキシヒカでもあったのですが、なぜ彼らの話があまり書けないのかというと、静かすぎてネタが出てこないんですよね……(苦笑)。 |