UP20030216
帰還
プロになってからの――いや、囲碁を始めてから正真正銘はじめてのアキラとの対局を終えて、ヒカルは元気よく棋院を飛び出した。 負けちゃったけど。 検討、楽しかった。 囲碁は楽しいものなんだ。辛い事だってあるけど……でも本当は、いつだって楽しい。 打てて良かった。やめなくて良かった。そう思えるようになるまで時間かかったけど……。佐為、これで良かったんだよな。いいんだよな? 俺が、打っても。 「おい進藤」 駆け出そうとした矢先に、いきなり呼び止められた。 「え……ッ」 振り返った先、斜め後方に佇んでいるのは、思案顔の緒方だった。 「……」 一瞬、ヒカルの頭の中が真っ白になる。 ぼんやりとその顔を眺めて――思い浮かんだのは、何でこの人がここにいるんだろう、などという疑問だけだった。 「今日は、アキラ君と対局だったんだな」 「え、あ、うん……はい」 えと。えーと?? ぼんやりと間抜けな顔で、その場に立ち尽くしてしまうヒカル。 「もう打つ気がないのかとも思ったが……杞憂だったようだな」 「……っ!!」 あっ! と、思わずヒカルは口をあんぐりさせてしまう。 沢山、怒られた。さまざまな人に叱咤激励された。 自分勝手な都合で手合いを休んで、踏み台にした沢山の人間の事も忘れて、プロである自分を放棄しようとしていたヒカルの行動が、皆に心配をかけてしまっていた。 そんな自分は、この人にも懸念を抱かせてしまっていたのだろうか。それでわざわざ、ここで待っていた? ……いや、ただたまたまそこにいて、声をかけてきただけかもしれないけど。 「あの、あの……」 何か言わなければと思う。けれどただでさえ避けたいと思って実際そうしてきた相手だけに、何を言っていいやらわからない。それに、この人が何を言うために自分を呼び止めたのか、わからないし。 「どうだった」 「……は?」 緒方の一言。 あまりに意外なその言葉に、固まってしまうヒカル。 「だから、どうだったよ」 どうだったって、アキラとの対局の事を聞いているのだろうか、と思う。感想を? 「どうって、えっと」 何を言っていいのか。というか、この人は何を聞きたいのか。 でも。 「あ、た、楽しかった。負けたけど、ずっと塔矢と対局することを目標にしてきたから……打てて良かったって……」 しどろもどろなヒカルの言葉に、緒方はクク、と笑う。 「随分小さい目標だな。対局できればよかったのか?」 からかうような緒方の言葉に、ヒカルは思わずクワッと緒方を振り仰いだ。 「もちろんいずれ勝つさ!! 対局するのは、最初の目標だよ! 俺は……神の一手を」 極めるんだから。 まだまだ、道は遠いけど。アキラにだって、今はまだかなわないかもしれないけど。 そんなヒカルに、緒方はニヤニヤ笑ったまま。 あれから。 緒方が初めてヒカルの存在を知ってから、二年あまり。 やっと最初の目標にたどり着いたというわけか。長い長い――道のりだ。ヒカルはやっと、スタートラインに立ったようなもの。 「彼……何といったかな。ああ、伊角君、か。彼も心配してたみたいだぜ」 自分と同じように、棋院で進藤情報を集めていたらしい彼に、勢い込んで呼び止められたっけ。ヒカルの事以外、たいした話をしたわけではなかったが、あれはプロまで上がってくる人間の目だ。そんな気がした。 唐突に出た伊角の名に、ヒカルは一瞬目を丸くした。 「あ……うん」 それだけを言う。 緒方もなぜか、それ以上を口にしようとしない。伊角とどうしたとか、ヒカルについて何を話したとか。 「あの……」 幾分口ごもりながら、呟くヒカル。 「ああ?」 「訊かない、の? 理由……とか」 なぜ対局に出なかったのか、とか、今までどうしていたんだ、とか。皆まず最初にそれを訊いてきたし、それが当然だと思うのに。 「別に」 別に、って。興味ないという事だろうか。 「俺が知りたかったのは理由なんかじゃない。結果だけだ」 結果……。 「塔矢との対局の、結果?」 「お前が囲碁の世界に戻ってきたという結果だよ」 「え……」 ヒカルが。 囲碁の世界に戻ってきたという――結果。 それを確認するために、この人は? そしてこの人は、その結果を望んで……いたのだろうか? 思い出した。 初めてアキラと出会って、対局した頃。塔矢名人の許までヒカルを引っ張って行ったのは、この人だった。 院生試験の時。試験を受けるための手順も何もぜんぜん理解していなかったヒカルを助けてくれたのも、この人だ。 そして若獅子戦の前。そんな対局があるという事を知らせ、ヒカルがそこに出て行くように仕向けたのも……。 あらためて思う。 この人がいなかったら、自分は今、ここでこうしていただろうか……。 いずれは。今がダメでもいずれはこの世界の高みまで、と思ってはいる。しかし、こんなに早くにこの場に立つための物理的な手引きをしてくれたのは、誰でもなくこの緒方なのではないか。実に、要所要所で。 今さら思い知る。 「ごめん……なさい」 そんな言葉が、口をついて出た。 「なんで謝る」 「色々。色々な事してもらったのに俺、緒方先生にも心配かけたみたい……だから」 「フッ……」 バーカ、と呟いて、緒方はごく自然な素振りでヒカルの髪をくしゃくしゃと掻き回した。 「ちょ、緒方先生」 「だからお前は戻ってきただろうが。その事実だけでいーんだよ」 迷う事だってある。 躓いて立ち止まる事だってあるだろう。躓くのは、その人が歩き続けているからだ。ちゃんと、前に進もうとしているから躓く。前進しようとしていなければ、躓く事すらないのだから。 大切なのは、その後だ。 躓いて転んだままでいるか、再び立ち上がるか。 そこで、その人の強さが決まる。夢をかなえるための、力の強さが。 「結果オーライだ」 今ヒカルがたどり着いた『結果』は、次へのスタートラインでしかないけれど。そのスタートラインにたどり着くことができたのだから。 緒方はヒカルの髪を掻き回したその手を、するりと滑らせてその頬へと這わせた。 「戻ってきたからにはこれで、名目上は俺とお前は同じ世界の人間だ。名実共にそうなれるように、せいぜい這い上がって来いよ」 いつか、似たような事を言った。五月の囲碁ゼミナールの時だったか。公式手合いで上がって来いと。そうなる時を、緒方は存外に楽しみにしているらしい。 緩やかに吹き抜ける空気の流れのような軽さで、緒方はヒカルの頬から手を離した。 「じゃあな」 それだけ言い残して、ひらりと手を振り歩き出す。 結局ヒカルは、まともに言葉を返すこともできないままだった。 本当に、その事を確認するためだけに、あの人は。 頬に残る、掌の感触。 ヒカルは我知らず、それを追うように自分の掌で頬を押さえた。 追いかけるべき目標で。立ちはだかる大きな壁でありながら。 見守られている。 そんな感じがした。 いつもいつでも、思っていた以上の近い場所で。 追いすがろうとその芽を伸ばせば、きっと緒方はそうはさせじとその場から叩き落そうとするだろう。競い合う、同じ世界に生きる者として。きっとそれは容赦のない勢いで。それこそが、緒方と、そしてヒカルも心から望んでいる事。 そうやって同じ世界を歩いて行くようにと、ヒカルをここまで引っ張りあげたその手の強さに。 ヒカルは、戦慄を覚えた。 あの手を、握り返すことができたら――と。 これまで考えた事もないような、これは、欲求? 意地の悪そうな微笑をたたえたあの人の顔が、自分に向けられている事に微かな悦を感じる。 「変なの……」 ヒカルはブルリと首を振った。 何考えてるんだ。わからない事は、あとあと。そんな事よりも今は、アキラとの対局の事を考えなければ。復習すべき点は、沢山ある。 それにきっと、この世界にいる限り、あの人とはまたいつでも会うんだろうし――。 つい考えて、ヒカルは再び首を振る。 「バッカみてえ」 ぬくもりの残る頬。そこに触れた掌の残像を振り払うように、ヒカルはその場から駆け出した。 それでも、今度会うのはいつかなと――無意識の中で、思いを巡らせながら。 END |
★帰還……緒方の許へ帰還しそうな勢いです……(笑)。先にほかのネタもたっていたのですが、ごめんなさい、アニメでの予想外の緒方の出現が嬉しくて(苦笑)。 |