スプラッシュホーリー

「ごきげんよう、リュミエール」
 あまりの事に、ぽかんと口を開け放ってしまうリュミエール。無理からぬ事だ。
「へ、陛下!何故あなたがこのようなところに……!!」
 目の前でにこにこと微笑む女王は、とても宇宙を統べる御人とは思えないようなカジュアルな格好で、両手を後ろで組んでいる。
 何かの間違いでは。
 リュミエールは、まずそう思った。そうでなければ、自分は夢を見ているのではないかと。
「聖地を抜け出してきてしまいました。許してね」
 無邪気な顔でとんでもない事を言う。
「なんて事を……!今すぐお戻り下さい、陛下!私がお送りいたしますから……」
 リュミエールが慌てふためくのに、アンジェリークは真面目な顔つきになって彼の腕を取った。
「今回だけ。もうこんな事は決してしませんから、ここにいさせて下さい。お願い」
「一体……」
 リュミエールが困惑してしまうのも、もっともな話である。聖地の外を、ふらふらとしていて良い人物ではないのだ。
「いけません、陛下。御自分が何をなさっているか、お分かりですか?……あなたおひとりの身体ではないのです」
 リュミエールの言葉に、アンジェリークは微かに顔を曇らせる。
 彼とて、そんな事は言いたくはなかった。というよりは、それは決して口にしたくはない言葉だった。
 アンジェリークがひとりの少女である前にこの宇宙の女王である事。とうに分かりきっている事ではあるが、それを改めて彼女の前で認めなければならない事実。
 しかし、それを選んだのもまた、自分自身でありアンジェリーク本人である。割り切っていなければいけないはずなのだ。
「お叱りは、私が一身に受けます。あなたにご迷惑は掛けません。ですから……」
 なおも言い募るアンジェリーク。
 リュミエールは、自分の腕を取っていた彼女の手を優しく外し、己の手でやんわりと握り返した。
「なにか、あったのですか……?」
 女性のように細く白い、しかし自分の手より遥かに大きなリュミエールの手に、アンジェリークはそれを懐かしむかのように目を細めた。
「私の中の小さなくもりを取り去りたいのです。女王として、前に進むために」
 いつかはそうしないといけなかったのだと、アンジェリークは小さな声で告げた。
 リュミエールはアンジェリークの想いを計り兼ねたが、何か、とても深いところに彼女の憂いの陰が潜んでいる事だけは、感じ取れた。
 アンジェリークは、ぱっと明るい表情に戻る。
「リュミエールの後をついてきてしまいましたから、ひとりでは帰れません。ですが、リュミエールはこのまま任務を遂行して下さい」
 なんという無茶な事を。
「陛下……」
 やはり送り返さねばと、アンジェリークを説得しようとしたリュミエールは、はっとして辺りを見回した。
「いけない……!」
 ざわざわとざわめくような気配。乾きの中に巣食っていた魔物が、その場に佇む人間の存在に気付き、動きはじめていた。もぞもぞと足許の土が動いたかと思うと、蜘蛛のような姿をした数体の魔物が間髪入れずにふたりに飛び掛かる。
「きゃあ!!」
 リュミエールはとっさにアンジェリークを抱き込むように庇い、両手に余るほどの大きさのそれを片手で払い落とす。そのまま魔者達を見据え、呟いた。
「ここにはあなたがたのいる場所はもうありません。本来在るべき深き地に、水の浄化を受けお帰りなさい」
 さらりと手を振ると、魔者達の上に水のサクリアの具象化された輝きが降りかかり、彼らは短い悲鳴と共に、その場から消失した。
 ぱらぱらと落ちる残骸に視線を向けながら、リュミエールは安堵の息をつく。
「ご無事ですか?陛下」
 腕の中のアンジェリークは、リュミエールを見上げ、小さく頷く。
「やはりここは危険です。戻られた方が……」
 なおも説得しようとするリュミエールに、アンジェリークは首を振った。そのまま彼の胸に顔を埋める。
 腕の中の優しい感触に、リュミエールは一瞬女王試験当時の事がフラッシュバックしそうになるのをなんとか思いとどまり、そっと少女の体を離した。
「聞き分けのない方ですね……少々下がっていて下さい」
 諦めたようなリュミエールの言葉に、おとなしく従うアンジェリーク。
 リュミエールはひとり数歩前に出ると、静かにその場にかがみこみ、乾いた大地へと手を添えた。
「聖なる水の恵みを」
 言葉と共にふうわりと淡く輝くリュミエールの姿に、アンジェリークは見とれた。
 かつて愛の囁きにも似た言葉を交わし合った美しい水の守護聖。
 その、何と神々しい事か。
 リュミエールは立ちあがると、アンジェリークの手を引き少し離れた小高い丘まで下がった。
 数分の間を置いた後、いきなり地表を割るようにして、透明な水がしぶきを上げながら噴き出した。それは信じられないくらいの力強さで吹き上がり、巨大な柱を形成する。
 陽の光を受けキラキラと輝くそれを見つめたアンジェリークは、感嘆の息を小さく洩らした。
「なんて、綺麗」
 吹き上がる水は、見る見るうちに乾ききった大地を潤し、大きな波紋を描きながら広がって行く。
「日が落ち、また明ける頃にはここに湖ができるでしょう。それは河となり、いずれは海へと形を変えて行きます」
 これ以上何を言っても無駄だと感じたのか、リュミエールはアンジェリークを促すと、肩を並べてその場に腰掛ける。
 そのまましばらく、ふたりは遠くに見える水の柱をただぼんやりと眺めていた。

 他愛もない話を、ふたりは夜が訪れても語り合っていた。
 女王試験の頃の話。
 今お互いが知る事のない普段の事。
 こんな時間が取れる事は、もうないと思っていた。
 同じ聖地にいながらにして、同じ人間の立場として語り合う事など、皆無に等しかった。
 一瞬話が途切れ、リュミエールとアンジェリークは静かに見つめあう。
 不意にアンジェリークは立ち上がり、遠く、月明かりで銀色に輝く水の柱を背にしてリュミエールに向き直った。細かな水のしぶきが、まるで女王の翼のように光り、上下を繰り返す。
「私、あなたのこんな姿を、ずっと見ていたかった」
 アンジェリークの言葉に、リュミエールの視線が彼女を捉える。
「今日のリュミエールは、まるでこの星の神様みたい。大地を潤すその優しい力。透明な水の導き」
「陛下……」
「この輝きは、宇宙の全ての者のためにあるもの。私のこの両手に抱きしめ、それを無くしてしまう事なんてできなかった」
 ふと目を細め、アンジェリークはくるりと背を向ける。まるでその切なさに満ちた表情を愛おしい人から隠すように。
「恋じゃなくてもいい。愛じゃなくていい。ただこうして同じ空間に立って、全ての愛すべき存在のためにその輝きを分け与える、あなたを見ていたかった」
 たとえそれがアンジェリークにとって、永久の苦しみに等しいものでも。
「だから私は、女王になりました」
 再びリュミエールの方に向き直り、はっきりと告げるアンジェリーク。
 やはり彼女は生まれながらの女王なのだと、リュミエールは悟った。
 少女が自分のためだけの、自分を愛する存在を求めるのは当然の事である。しかしアンジェリークはそれをせず、『水の守護聖』であるリュミエールを愛した。
 そして彼女を女王とし、共に歩いて行こうと決めたリュミエール自身もまた、他の何よりも『水の守護聖』なのだ。
 彼女を他の全てから奪い去り、ふたりきりで共に生きたとしたらそれはそれで幸せだったと思う。しかし、おそらくはいつまでも聖地の事が心から離れる事はなかっただろう。
 そして、それら全てを忘れさせてくれるほど、人として生きるふたりの時は長くは続かないのだ。
「私は、この水の輝く光景を心に焼き付けて、いつまでも忘れません」
 アンジェリークは、これまでにない程の美しい輝きを以ってリュミエールに微笑みかけた。
「あなたを想うこの心と共に、輝きは私の胸の中にいつも存在し続けます」
 リュミエールも立ちあがり、アンジェリークと向かい合う形で右手を差し伸べ、静かな声で告げた。
「私の胸の中にも」
 アンジェリークは、そっとその手を取った。
 
 そうしてこれからもふたりは歩み続ける。
 交わり、一本になる事はなかったけれど、離れず平行にどこまでも続く道を、想いを深い場所に留めたまま、女王と水の守護聖は永い時を前に進んで行くのだ。

 仕事を終えて聖地に帰った二人を迎えたのは、予想通り鬼のような形相を隠す様子もない補佐官ロザリアであった。
 この場合、リュミエールにはあまり非はないのだが、わがままな女王に対する押しの弱さを注意された。
 とりあえず、女王その人が補佐官とふたりきりの執務室でみっちりとお説教されたのは、言うまでもない事である。

 ひとしきり事も済んだ頃、ロザリアは女王の執務室で午後のお茶の準備を始めていた。
「本当に陛下、これっきりにして下さいましね」
 呆れた様子のロザリアに、アンジェリークは女王らしからぬ仕草で、ちょろっと可愛らしい舌を覗かせる。
「反省してます」
「本当ですか?」
 ロザリアの言葉に、まじめに頷くアンジェリーク。
「陛下に何かあったら、リュミエールもただでは済まなかったのですよ。その辺はお分かりですね?」
「ええ。もうしません。二度と」
 きっぱりと宣誓するアンジェリークの表情は、今までよりも一層軽やかで明るいものだった。
 もう二度と。
 再びあんな風に話せる事はないと。
 切ない確信があっても、アンジェリークは満ち足りていた。
 腰掛けていた椅子から身を離し、日当たりの良い窓を大きく開け広げる。それを背にして立つと、優しく吹き込む穏やかな風にアンジェリークの金の髪がやわらかに揺れた。
「ふふ。でも、凄かったのよ。女王でありながら、あんな姿は今まで目にした事がなかった」
「陛下……」
「本当に、綺麗だった……。忘れない。ずっと。私の中にたったひとつあり続ける、何よりも愛おしい……聖なる水の……輝き」
 途切れがちな言葉を紡ぐアンジェリークの頬を、今まで彼の人の前ですら、ついぞ見せた事のなかった真珠の輝きが静かに零れ落ちた。
「本当に……仕方のない人ね」
 ロザリアは、そんなアンジェリークを、そっと優しく抱きしめた。

 最後の涙を流したら。
 彼らは再び歩き出す。
 そうして聖地にある彼らによって、宇宙に浮かぶ星々は美しく、力強く姿を変え続けて行き。
 そこに築きあげられる歴史が、彼らの想いを永遠のものにするのだ。

END

☆何だかなあ……支離滅裂ですね。要するに、恋愛EDに行かなくても、結構幸せに暮らしているふたりを書きたかったんですけど。でもまあ、それなりに幸せっぽいでしょ(笑)?


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