UP20020412
蒼天恋歌 第七話 水のアリア
星の成長の軌道を正常に戻す。 それが今、守護聖として成すべき事。 立ち上がったリュミエールの胸元で、蒼い光が輝きを増した。 その輝きはまるで彼の水のサクリアのように、透明な美しいオーラとなってリュミエールの身体全体を包みこむ。 リュミエールがついと上を向くと同時に、彼の身体がふわりと浮かび上がり、ゆっくりと上昇を始めた。 リュミエールの身体の上昇にともなって、厚く空を覆う雲が、その輝きを避けるかのように四方に向かい晴れて行く。 そして、雲に隠れた岩山の頂が露になった。 それでも更に上空は、未だ厚い雲に覆われたままだったが、頂に立つ人影が、はっきりとリュミエールの視界に飛び込んでくる。 「オスカー……」 頂にはオスカーが、ひとり佇んでいた。 ただ立ち尽くし、下界を見下ろしている。 「オスカー、無事ですか」 オスカーと同じ視線の高さまで上昇したリュミエールの声に、オスカーは初めてリュミエールの方へとその瞳を向けた。 「お前のその石のおかげで、やっと身体の自由が利くようになったぜ。……俺のサクリアがこの星のすべてを焼き尽くす前に、決着を付けなきゃならない。わかるな……リュミエール」 オスカーの言葉に、リュミエールは一瞬言葉を詰まらせた。しかし、紅に染まるオスカーの表情も、これまでに見た事もない位に切なさに歪んでいる。 辛いのは、リュミエールだけではなかった。 「俺の炎のサクリアを、すべて俺自身の内に戻す」 リュミエールは、驚愕の表情でオスカーを見た。 一度ふるわれた炎のサクリアは、大地の生命エネルギーを焼きながら大きく膨れ上がっている。これをすべてその身体に戻すのは、自殺行為以外の何者でもない。 だからこそ、守護聖は普段から自己の全責任において、そのサクリアを行使するのだ。 「オスカー……! そのような事をしたら、あなたの方がただでは済まなくなります……!」 「だから、お前の力が必要なんだ。『蒼天恋歌』……その歌とお前の水のサクリアで、この暴走した炎を鎮めるんだ」 「そんな……」 戸惑うリュミエールに、オスカーは意地悪く微笑んでみせた。 「いいな。お前がしくじれば、俺もオダブツなんだぜ」 「オスカー!」 リュミエールの目の前で、頂に立つオスカーはその両手をゆっくりと広げた。 見た事がある。 リュミエールは、この光景を、どこかで見た事があった。 頂に立ち、手を広げ、朱に染まる世界を見下ろすその眼差しは、慈しみに満ちて――。 そう。聖地にいた頃に、夢で見た光景そのままだった。 あの時、リュミエールはまるで空気の一部になったかのように何もできなかった。しかし、これは夢ではない。あの時に感じた悪い予感を打破できるかどうかは、リュミエールにかかっているのだ。 オスカーは、その命をリュミエールに懸けている。 今度こそ、手を差し伸べなければ――! オスカーの身体が紅蓮に輝き、地上の炎を吸い上げるかのような空気の流れを生み出した。 今、やらなければ。 一瞬の内に、氷の星が、蒼白き聖獣が、小さな村が、そして栗色の髪の少女が、リュミエールの脳裏を駆け巡った。 きつく閉じた瞳を瞬かせ、リュミエールは真っ直ぐにオスカーを見詰め、ゆっくりと口を開いた。 御身 大いなる煌きの生命よ その光輝けしまなこで我の姿を捕らえ給え 蒼天の高みに力強き手を伸ばす 炎のごとき御身に 静かなる 大地の潤いを与えん リュミエールの口から紡ぎ出される旋律を受け、地上から上昇する空気は次々と蒼に染まり、緩和されてオスカーの内へと吸収されて行く。 リュミエールのこめかみを、透明な汗が一筋伝い落ちた。その行為は、相当のサクリアとそれを制御するだけの集中力を必要とするものだった。 オスカーの手が、リュミエールの身体を招くかのように、一瞬ついと動かされる。その動きに合わせるかのように、リュミエールの身体がゆっくりと頂に近付き、オスカーの目の前まで来たところで、トンとその地に足をついた。 途端に、リュミエールの身体はがくんと崩れ落ち、頂に膝をつく。 その身体をオスカーが支え、ゆっくりと振り向かせた。炎は未だに地上を覆い、その揺らめきは次々と頂の二人の許へと流れ続けている。 「もう少しだ」 リュミエールの身体を後ろから支えるオスカーが、小さな声で囁いた。 「我は……御身の炎に恋いうる――……」 つかえながら紡ぎ出したリュミエールの歌の後を、オスカーが続けた。 汝 麗しき安らぎの灯火よ 慈愛に満ちたるそのかいなに この魂を抱きせしめよ 慈しみ育む 大地と海の恵みよ 静かなる安息の地に我が命 心の安らぎの一角を 優しき光を我に与えよ 一息に、地上の炎が上空へと翔け昇った。それは二人の守護聖へと向かい、うねりとなって大きな流れを創り出す。オスカーとリュミエール、二人の声が重なった。 「遥かなる蒼天に 我らの育みたる生命の軌跡を――!」 生命を育む大地と、その上を駆け抜けて行く雄々しき命。それが愛しあい結びあう事で、また新しい命が誕生し、その命の環がこの星の安定となる。 蒼天恋歌――それは、大地と、そこに宿る生命が互いを求め高めあう、愛の歌だった。 星の鎮めの歌は、二人の重なった歌声で、その福音を完成させた。 炎が浄化され、それは中和されたサクリアとなって炎の守護聖へと還る。 全てを収めたオスカーと、浄化を施したリュミエールの身体が白く輝き、その光は遥か上空の厚い雲を貫いた。 「よくやった」 上空から降ってきた静かな声は、クラヴィスのものだった。 「負の波動の浄化は、完全に終えた。あとは、星の生命達が再び同じ過去を繰り返さぬよう、聖なる祈りを捧げるのみ……」 オスカーとリュミエールは、その言葉とともに、クラヴィスの闇のサクリアを感じた。 「鎮めの歌による炎の強さと水の優しさに加え、いかなる時にも心の平穏を保つよう、静かな安らぎを――」 地上でエオナを支えていたゼフェルが、空を見上げて不敵に笑った。 「……やるじゃねーか。なら俺からは、この地上での冬の時代に打ち勝てるだけの、鋼の器用さを贈るぜ!」 言葉とともにゼフェルの身体が輝き、鋼のサクリアが細かな輝きの粒子となり、地上に広がる。 聖地では、守護聖全員がそれぞれの配置についていた。 「惑星エアローデに生を受けた運命、その心に光り輝く誇りを」 「氷の地に、いつか力強く命が芽吹き、実るように、緑の豊かさを贈るよ!」 「逆境を逆手に取り、プラスへと変換して行くための知識と知恵を授けましょう」 「私からは、極寒の地で未来を信じられる、美しい夢をあげるよ」 聖地から、次々と光り輝くサクリアがエアローデへと送り込まれ、地上に降り注いだ。 ランディが、サクリアで形どられた弓を天へと向け、構えた。 「そして、運命を受け容れ、なお希望への道を歩んで行ける勇気を――!」 そうして放たれた光の矢は、空間を翔け抜け、エアローデの空を真一文字に切り裂いた。 それは、力強い黄金の輝き。 全ての守護聖のサクリアを受け、エアローデを覆っていた厚い雲は、ランディの矢の軌跡を境に、サァッと音をたてるかのように一瞬にしてその全てがなぎ払われた。 「あ……あ」 空を見上げていたエオナの瞳から、涙がポロポロと零れ落ちた。 その瞳にしみるほどの、眩しい陽の光。 「青……い……」 生まれて初めて見た雲のない空は、遥かな宇宙をその背に携えた、深い深い青色だった。 「あ……あ……ああァ―――!!」 空を見上げたまま両膝をつき、エオナは泣き叫んだ。空の青さ、陽の光に、ただ声をあげて泣く事しかできなかった。 少し離れたエオナの村でも、長をはじめとした民達が空を見上げ、あるいは顔を覆い、その光に泣いた。 それだけではない。星全体が、今は昼も夜も関係なく眩しい光に包まれ、そこに在る生命すべてが涙を流していた。 『感謝する』 頂で膝をつくオスカーとリュミエールの前に、蒼の聖獣が現われた。 二人の身体がふわりと浮かび、ゆっくりと頂から離れる。と、代わりにそこに聖獣が立った。 リュミエールの許から蒼の石がゆるゆると離れ、パシンと音をたてて砕け散った。それは一瞬の内に四散し、細かな輝きを放ったまま地上へと降っていった。 『我が伴侶の蒼き核は、この星の生命の種子となる。そして、我自身の核もまたしかり――』 聖獣は下を向いた。それを合図にするかのように、オスカーとリュミエールの身体はゆるゆると下降をはじめ、やがて静かに地上へと降り立った。 「聖獣……この地の、神よ――」 そっとリュミエールが呟き、二人は、その場で完全に意識を手放した。 夜が来て、次の一日が始まる頃には、青い空は姿を隠し、再び白い雲がその全体を覆い尽くしていた。 「守護聖様だったんだね」 これまでと同じように凍てついた湖のほとりに立ち、エオナは隣のオスカーを見た。 「リュミエールに聞いたのか」 「うん、ゆうべ」 昨晩の、一度目を覚ましたリュミエールとの会話を、エオナは思い出す。 『これからも、あなた方は心を強く持ち続けていて下さいね』 微笑むリュミエールに、エオナは「大丈夫」と胸を張ってみせた。 『心配はしていませんけれどね。エオナ、あなたはきっと素敵な女性になる事でしょう。そして、勇敢な男性と、素晴らしい恋をして下さい。例えばそう――オスカーのような』 「お嬢ちゃん」 ポンとオスカーに肩を叩かれ、エオナは我に返った。 「この星の軌道は正常に戻した。あとはここで命を繋いで行くのが、お嬢ちゃん達の役目だぜ。だが……どうせ恋をして家庭を持つなら、この俺みたいな色男にしておけよ」 気障な笑みを見せるオスカーに、エオナは赤くなりつつも首を傾げた。 「もう……ッ。昨日、リュミエールにも同じような事を言われたわ。どうしてかな」 エオナの言葉に、オスカーはさも愉快そうにハハハ、と笑ってみせた。 「つまりは、お嬢ちゃんと俺がお似合いだって事さ」 別れ際、エオナはそっとリュミエールの手を取った。 「守護聖様だなんて、少しもわからなかった。この星を救うために来てくれたんだね……。星の暴走を止めてくれて、ありがとう」 エオナの笑顔に、リュミエールはどこか切なそうに彼女を見返した。 「頑張って下さいね」 それでも、何事もないかのような笑顔で、それだけを口にする。 「さよならするのは寂しいけど、わがままは言えないよね。でもきっとまた、会いに来てくれるでしょう?」 「ええ……必ず」 そう言ったリュミエールの笑顔は、最大限の優しい嘘だった。 リュミエール達は確かに星そのものの危機を救ったけれど、エオナ達人類にとっては、何の救いにもなっていない。 正しい成長の道程を辿りはじめたこの星の寒冷化はこれからも進み、いずれはこの星全体が氷に沈む事になるだろう。エオナが生きている内にそこまで進行するかどうかはわからない。しかし、そこまで到達した時点で、人類は一度この惑星から姿を消す事になるはずだ。 しかし、今それを口にするのは許されない事と、リュミエールは悟っていた。 星の正しい歩みのためにも、たとえそれが儚いものであれ、エオナ達人類がやっと持つ事のできた希望のためにも、余計な真実は、決して伝えてはならないのだと。 そして、エオナが生きている内にリュミエールがこの星に訪れる事は、おそらく二度とない。これが今生の別れになるのだと、しかし、知っているのは守護聖達だけで良いのだ。 「元気で」 「うん。リュミエールも」 エオナの瞳に、透明な涙がいっぱいに溜まった。 「どうか忘れないで、そして、命の続く限り伝えていって下さい。あの素晴らしい愛の歌を。そして、あなたの故郷であるこの星の空が、どれほどに深い青色であるかという事を……」 エオナは、何度も何度も頷いた。 忘れない。 あの雲の向こうにある太陽の光と空の青さ。 そして、それ以上に澄んだ、深い湖のような瞳を持つ、優しい人の事も――。 聖地に帰って暫く経った頃、オスカーはルヴァの執務室を訪れていた。 「まだ腑に落ちない事もあるんですよ」 オスカーの呟きに、ルヴァは細い目を更に細めた。 「え〜、何でしょう?」 「本来俺が受けるべき負の波動を、どうしてリュミエールが受けてしまったかという点ですよ」 ルヴァは「ああやはり」というような顔を見せた。 「結論としては『強さを求める弱き人々の心』を、リュミエールの優しさを司る力が感じ取ってしまった、という事でまとめられてしまいましたが……本当にそうなんでしょうか?」 オスカーの疑問にどう答えるべきか、ルヴァは一瞬迷った。 「あー、つまりですねえ。オスカー、あなたの強さが、本物だという事ですねぇ」 「……はぁ?」 いつもにも増して、わからない事を言う。 「えー、本当に強い人というのは、当然防御力の方も兼ね備えているものなんですよ」 それはオスカーも心得ている。攻撃一点張りの人間は、決して強いとは言えない。そんなのはただの喧嘩バカだ。 「オスカーの場合〜、その防御の力が、負の波動に対して、無意識にフルに使われていたようなんですよー。ですから、オスカー自身は何も感じなかったという訳ですねえ」 「それがどうしてリュミエールに?」 当然の疑問だ。しかし、ルヴァは何故か困ったように、その眉根を寄せる。 「えーと……怒らないで、聞いて下さいねー? えー、負の波動を防御し続けるオスカーの心が、リュミエールの優しさを癒しの力として求めていたから、という事らしいんですよー」 「はぁ!?」 「波動を反射し続けるオスカーのベクトルがリュミエールの方に向かっていたので〜、反射された波動はそれに合わせて全てリュミエールへと向かい、彼がそれを受け止めていた、という事になりますねえ」 「な……な……」 リュミエールの体調を崩し、エアローデに引きずっていった負の波動は、オスカー経由の物だったという事だ。 「そんな……ばかな」 「あ〜、仕方のない事ですよ〜。防御し続けるというのも、ストレスの溜まるものですからねえ」 オスカーの鉄壁の防御は、波動をオスカーに微塵も感じさせる事なく弾き飛ばし、それは全てリュミエールに向かっていた。それもオスカー本人のせいで。 「無意識に水のサクリアに頼っていたなんて……」 「いーえー、水のサクリアではなく、リュミエール本人の優しさに、ですよ〜」 ――なお悪い! 知らない内に波動を受け、それを弾き、ずっとリュミエールに肩代わりさせていたなんて。そして、リュミエールの優しさに安息を求めていたというこの事実。 聖地を出る前、どうしてリュミエールの具合の事を報告する気になれなかったのか、やっとわかった。オスカーの無意識の部分がこの事を察し、しかしそれを認めたくなかったからだ。 己のあまりの不甲斐なさに、オスカーは目眩を覚えずにはいられなかった。 「あ、あのルヴァ様。リュミエールは、この事を……」 「あー、どうでしょうねー。何も言ってはいないようですが、彼も守護聖ですからねえ……気付いていたかもしれませんねえ」 ――『大丈夫です。私が……おりますから』 突然よみがえる記憶。 聖獣の背に乗った時。 あの時聞こえなかった言葉が、今オスカーの耳に届いた。 「……最悪だ……」 リュミエールは、とうにその事に気付いていたのだ。おそらくは『あの星はオスカーには危険』だと言い募っていた頃から。 なんてこったと頭を抱えるオスカー。リュミエールにあわせる顔がないではないか。 礼を言うべきか、それとも謝罪か。 何故こんなみっともない恥ずかしい事態になってしまったのかと後悔してみても、すでに時は遅すぎた――。 そして心から会いたくない時に限って、会いたくない人物に会ってしまうものである。 オスカーのいつもの散歩コースに、またもやリュミエールが佇んでいた。今回は以前の森の中ではなく、美しい湖が見渡せる木のたもとであったから、仕方ないといえば仕方がない。 「オスカー」 珍しくリュミエールの方から声を掛けてきたので、オスカーは仕方なく立ち止まった。何気ない表情を作ってみせるものの、内心は何か言われるのではないかと思い切り動揺していた。最初から知っていて今まで何も言わなかったのだから、そんな心配は無用なのだと、オスカーは気付いていない。 「身体は大丈夫そうだな」 それだけ言うと、リュミエールは「ご迷惑をお掛けしました」と、申し訳なさそうに微笑んだ。 ――迷惑を掛けたのはこちらの方だと、気付いているのだろうに。 「あれから、色々と考えてしまうのです。鎮めの歌の存在を知っていながら、最後までそれを私たちに伝えようとしなかった聖獣の事とか――」 リュミエールは、切なそうに目を細める。 「きっとあの歌は『暴走を始めた』ものにしか効き目のないものだったんでしょうね……。だからあの聖獣は、星があそこまで追いつめられるまで、手を出す事ができなかったのでしょう……」 なるほどそうか、とオスカーは思う。『予防』ができるのだとしたら、とっくにあの歌で民の心を食い止めていたはずだ。 「ただ待つ事を選んだのは、あの聖獣の強さ……。私は、今でも時々夢を見ます。寒冷化に打ちひしがれ、悲鳴をあげる人々の夢……」 リュミエールは俯き、瞳を閉じた。 「一番弱いのは私です。あの惑星よりも、誰よりも……あなたの『強さ』を必要としているのは、私かもしれません」 救う事のできなかった人々。 それでも「大丈夫」と嘘をついた自分。 長い冬が訪れ絶望した時に、真実に気付いた民は、リュミエールをどう思うのだろうか。 「憎まれても、いくら罵倒されても私はかまいません。ですが、エオナ達の未来を想うたびに、胸がつぶれそうになるのです……」 守護聖としての職務は、誰かに感謝されるために行なっている訳ではない。 だから、どんな風に思われるのも平気であるはずだった。 しかし『ありがとう』というエオナの言葉が、何度も繰り返し思い出される。 感謝などされるくらいなら、いっそ憎まれた方がいくらかマシだった。けれど、あの時の自分に、憎まれるための真実は許されなかった。 「大丈夫だ」 オスカーの言葉に、リュミエールは今にも泣き出しそうな顔を上げた。 「確かに一度、人類は消滅するかもしれない……だが、必ずあの地にまた生命は生まれ、今度こそ楽園を築きあげるだろう。永い永い時をかけてな。そしてお前の歌った星の鎮めの歌も、遥か未来まで語り継がれて行くはずだ」 「そうでしょうか……」 リュミエールは、あの歌の譜面など残しては来なかった。語り継ぐべき生命が途切れたあとで、あの旋律が受け継がれたりするだろうか。 そもそも、あの星に生命が誕生し、社会を営んで行くという未来は存在するのだろうか。 「可能性はゼロじゃない。ゼロだったものを、お前が変えたんだ。あの時、すでに聖獣によって命の種子は蒔かれた。生命は、またそこから芽を出し育まれるはずだ。鎮めの歌もあの星の記憶の中に存在し続け、当然の遺伝子として継がれていくだろうさ。それが、今回お前のやった仕事だ」 その事に胸を張っていい、とオスカーは言う。 「ありがとうございます……」 切なさと後悔はすぐには拭い去れるものではないけれど。自信に満ちたオスカーの言葉に、リュミエールは小さな声で礼を言った。 まだ守護聖達には知らされていないが、彼らがサクリアを送り込んだ後、女王はそれらを中和し、安定させるための力を振るった。その時に、エアローデの大地の深いところに息づく小さな生命の欠片の存在を確認している。 未来へと繋がる、あえかな輝き。 それは近いうちに、リュミエールにも伝えられる事となる――。 同じ頃、守護聖首座であるジュリアスがリュミエールの執務室を訪れていた。 もちろん、本人は不在である。 リュミエールの提出したエアローデの報告書を承認した事を告げに来たのだが、と嘆息する。 ふと、机の上に小さな木箱が置いてある事に気付いた。それが何であるか察したジュリアスは、その蓋をそっと開く。 そこから小さく流れてきたのは、あの優しいメロディ、『蒼天恋歌』だった。 「……ゼフェルか」 彼がそっと置いていったのであろうそれに微かな笑みを浮かべ、ジュリアスはふと窓の外に広がる青い空を見上げた。 聖地とエアローデの時の流れは大きく違う。今、あの星はどれだけの時を経て、どのように変化しているのだろう。 穏やかな風の吹く聖地で、この時守護聖全員が、示し合わせずして高い空を見つめ、その遥か彼方の惑星を想った。 リュミエールもオスカーとともに、湖と対になるような美しい空を見上げる。 今もあの地に凍てつく風は吹いているだろうか。 聖なる獣は蒼の命を燃やし続けているか? 少女は今も 幸せに微笑んでいるのだろうか。 そして今も 高き蒼天をのぞむ恋歌は唄い継がれているだろうか―― |
●あとがき● 氷村のゲームサイトの方の代表作、でしょうか(苦笑)。守護聖という存在とその役割の、お役所的な部分の切なさを表現してみたかったんですよね。 |