UP20020426
ALIVE 1
――いけね、こんな時間だ。 ヒカルはヒョイと、腕の時計を見る。 久しぶりに碁会所でアキラと打っていたら、ずいぶん遅い時間になってしまった。時々はこうして碁を打つ時間を設けよう、と約束はしたものの、なかなか思う通りには行かないものだ。 ――森下先生にバレてもまずいしな。 お互いにプロ棋士である以上、二人で顔を合わせるための時間を割くのは少々難しい。しかし方法ならいくらでもある。お互いがお互いの終生のライバルだと意識しているからこそ、ちゃんとこうした時間も取れるというものだ。 とっぷりと日が暮れた街の中を帰路につくヒカルの側方を、真っ赤な車が走りぬけた後で、止まった。見た事のある車のドアが開いて、見た事のある人物が姿を現す。 「緒方先生……?」 そこに立つのは、天下のタイトルホルダーである緒方精次その人である。 ヒカルにとっては、あまり歓迎したくない人物でもある。人となりがどうとかいう問題でもなく、純粋に苦手なのだ。 saiと打たせろ――などと言い出しさえしなければ、そんなに嫌な相手という訳でもないというか、むしろ相当に世話になっている人物なのだが。 「奇遇だな。こんな時間まで遊んでいたのか?」 そんなんじゃない、と言いたかったが、では何をやっていたんだ、などと聞かれたら、アキラと碁を打っていたとは……何となく言いにくい。碁と無縁の人間から見れば遊んでいたのと変わりはないのかもしれないが、緒方相手ではそうはいかない。緒方に知られて困るというか心配なのは、彼から他の人間に広まって、森下にまで話が及ばないとも限らない事だ。しのぎを削り合う好敵手なのだから、別段二人だけで碁を打っていたっていいような気もするが。 そういうのも、プロであるという事のような気もするし。 「緒方先生こそ……」 詮索されるのを避けるように、緒方の方に話を振ってみる。 「俺が何をやっていたかなんて、お前にはどうだって良い事さ。大人の事情ってヤツだ」 フフン、と、人の悪そうな笑みを浮かべる緒方。 ――またすぐ人を子供扱いして。 実際子供なのだから仕方のない事だが、ヒカルは彼のこういうところが、ちょっとだけカンに障る。 「まあいい。どうせ遊んでいたのなら、ちょっとつきあえよ」 「ええ!? これから?」 「どうせ明日は学校は休みなんだろ? 家にはこれから連絡でも入れておけば良いだろう」 たしかに明日は日曜日で学校は休み、午前中は何の予定も入ってはいないが……だからってどうして自分が緒方に付き合わなければならないのだろうか。 「いいじゃないか。ちょっと聞きたい事もあるしな」 「聞きたい事……?」 「まあ乗れよ」 本当にいつも、この人はそうと決めたら強引だ。この押しの強さには、自分はいつまで経っても勝てないんじゃないかとヒカルは思う。 ――結構この人って、子供みたいなとこあるよな。 仕方なく、ヒカルは緒方の車の助手席に乗り込んだ。 「……?」 ほのかに、香りが残っている。香水だ。おそらくは女物の。 「あれ」 自分の乗り込んだ足許に、何かが転がっている。 ――口紅。 「緒方先生、これ」 「ああ? ああ、それはもういらん。何なら持って帰ってもいいぞ」 車を発進させながらそれを横目で睨んだ緒方だったが、すぐに興味なさそうに瞳を逸らす。 けれどこの香り、口紅。ついさっきまでヒカルが座るこの場所に、誰か女の人が座っていたような気配がするのに。 「緒方先生、もしかして、フラれたの?」 「テメエ……」 どうやら図星だ。 半ば当てずっぽうで言ってみただけだったのだが。しかし、深い事を考えないヒカルの悪い癖で、うっかり思い付いた事をそのまま口にしてしまった。「フラれたんじゃなくてフッたんだ」などと言い訳をしないあたりは、緒方が大人だからか、それともコドモだからか、それはわからないけれど。 「ゴメンナサイ」 大して悪いと思っている訳でもないのだが、ここは謝るところだろうな、という思いから、とりあえず謝罪を口にするヒカル。 「別にいい。……囲碁に興味ないのは結構だが、囲碁と自分を比べてやいやいと煩く文句を言われるのは御免被りたいところだな」 おそらくは女性経験豊富であろう緒方の事。こんな状況も日常茶飯事なのかもしれない。 残念ながら、囲碁を差し置いてまで女性に本気になれるほど、緒方は暇ではない。その辺を最後まで理解してくれる女性の存在など、そうそうアテにはできない。若い緒方には希少価値といえるだろう。 やれやれ、とヒカルは思う。 女性との修羅場の事なんて中学生のヒカルには今いちピンとこないが、ヒカルを強引に誘い出したのも、この辺の事情が絡んでいそうで何か嫌だ。愚痴でも聞かされたらどうしよう、などと考えてしまう。 「変な顔をするな。愚痴を聞かせたい訳じゃない」 思っていた事を、そのまま返されてしまった。表情まで読まれている。 もっとも自分の痴情の話題など、中学生のヒカル相手に緒方が切り出すはずもないし、また愚痴が出るほど女性に重きを置いている訳でもない。 「お前は妙に身構えているようだが、これも言っておく。もうsaiと打たせろ――なんて事も言わないから安心しろ」 ギクリと、ヒカルは緒方を見た。 強さへの欲求。 その情熱が強い者なら、誰だってsaiと打ちたいと思うだろう。緒方もそのひとりだ。けれど佐為が実体を持たず、その媒体の役目をヒカルが果たしていた以上、危険な橋は渡れなかった。塔矢行洋との対局だって、相当な危険と背中合わせだったのだ。 けれど、そのsaiともう打ちたいと言わないとは――どういう事だろう。 「意外そうな顔だな。別にsaiへの情熱がなくなった訳じゃないんだぜ。……さてと、着いたぞ」 「……着いたって……ここどこ?」 「俺ン家だ」 静かな動作で車を停止させる緒方。停車で感じる反動はほとんどない。 緒方先生の、家〜〜!? こんなところまで連れてきて、一体俺をどうしようってんだ!? ヒカルは半ばパニックに陥りかけるが、いくら悪役顔とはいえ、なにも緒方だってどこぞの漫画に出てくるような本物の悪人ではないのだから、そこまで考えるのはある意味失礼というものだろう。 ガチャリと、玄関の扉を開いて緒方はヒカルを招き入れる。 「その辺に座れよ」 緒方の言葉に、所在なげにその場に佇んでいたヒカルは、とりあえずソファに腰を下ろした。インテリアには凝っているのに一切散らかっていないこんな部屋は、何気にヒカルを緊張させてしまう。 「まあ今日のところは対局は遠慮させて頂くが、何なら詰碁の問題でも作ってやるぜ」 「えー? いいよ……そんなの」 何だか、もの凄く意地悪な問題を出されそうだ。 「さっきの話だが、saiはもういい」 「そうなの?」 どうして――と聞いてみたい衝動に駆られるヒカルだが、ここでそれを口にしてしまっても、あまりうまくないような気がする。自分と佐為の関係について暴露するきっかけが、いつ出来てしまうかわかったものではない。 「随分こだわってたみたいなのにね」 遠回しに、そんな事を言ってみる。 「今だってこだわってるぜ。だがまあ、もういいんだ」 緒方は、以前の囲碁ゼミナールでのヒカルとの対局を思い出していた。 自分は酔っていたとは言え、まるで熟練の者と見まごうような打ち筋で負かされたあの時。結局は自分のミスが呼んだ負け試合だったが、あの対局は、まるで。 まるで、saiと打っているような――。 緒方はもちろん知らないが、あの時彼と対局していたのは、実際には佐為その人だった。だが、緒方はその後のヒカルのいくつかの対局結果にも目を通している。 佐為とダブるその打ち筋。そして、それをも超えるかと思えるような、奇妙な才能を覗かせる彼の成長。その成長の傍には、塔矢アキラという脅威も存在している。 だから、saiでなくてもいいと思ったのだ。 うかうかしている場合ではない。 待ち望んでいた才能が、もうすぐ後ろまで迫ってきている。彼らを待つ時間も、そう長いものではないだろう。いずれはアキラが、そしてヒカルが緒方の目の前に現れる。彼という壁を乗り越えるために。 「お前で我慢してやるよ」 あの時と同じ言葉を、緒方はヒカルへと放った。 カチン、と、無造作に碁盤の上に石を並べながら、緒方はヒカルに「冷蔵庫の中から適当に飲み物でも取ってこい」と命じる口調で言う。 「俺にはビールな」 「緒方先生、お酒好きなの?」 仕方なく立ち上がりながら、ヒカルは呆れたように緒方を見る。ゼミで対局した時も、彼は泥酔に近かった。だから佐為にもあっさりと負けてしまったのではないか。 「別に。普通だ」 そうかなァ、と思いながら、それでもヒカルが炭酸飲料とビールを持って戻ると、盤の上には一通りの石が並べられていた。 「詰碁が嫌なら、どうせだから検討でもしようぜ。一番最近の俺の対局の81手までだ。俺が黒番。お前なら、どう出る?」 いきなりそんな事を言われても。 「え、え……俺なら、こう?」 「ふーん。前回の白と同じだな。で、俺はこうだ」 その対局で白が打った場所に同じく白石を置いたヒカルに対し、緒方はその時の自分の石をまた置いた。 パチン、と音をたてて、ヒカルが次の石を置く。 「へえ。そこに来たか。前の白は、ここだった」 「へー……あ、あ、そうか。この場合だと、きっと次の黒がここで、ここと連絡が……」 「そうだな。さっきのお前のやり方だと、俺は次の次あたりで、ここの白を殺すぞ」 「そっか……見落としやすいなあ」 嫌がりつつもついつい夢中になってしまってから、ヒカルはついと傍に置かれたビール缶に視線を向ける。 おさえた照明の中で並べられた碁石。 置かれたビール。 ――あの時と、一緒だ。 佐為と緒方が打った、あの時と。 ねえ緒方先生。先生がsaiのことはもういいって言ってくれて、俺……少し安心してるよ。 ヒカルは思う。 佐為の事がバレずに済むから。それだけではない。 佐為は、もういないから。 どんなに緒方が望んでいたとしても、もう佐為とは永遠に――打てないから。 「ねえ……聞きたい事って何?」 盤上を見つめたまま、ヒカルは呟く。 「……ああ……その事か」 まるですっかり忘れていたとでも言うように、緒方はふと顔を上げた。 「お前、プロになってからすぐ、いくつか対局をサボってただろう。何故かな、と思っただけだ」 「あ……」 沢山の人間に心配をかけてしまったあの時。しかし緒方にまで気にされていたなんて知らなかった。 しかし、緒方がヒカルを気にかけるのも当然の事と言えるだろう。彼だってヒカルをここまで後押しした人間のひとりなのだ。彼の力添えがなければ、ヒカルはそもそも今ここにこうしてはいなかった。あの時たまたま彼が通りかからなければ、ヒカルは院生試験を受ける事すらできなかったのだ。 あの時が駄目でもいずれ院生にはなれたかもしれないが、アキラとの差は開くだけ開き、佐為の努力も空しく、ヒカルの才能の開花には間に合わなかったかもしれない。 「俺との対局のすぐ後だったしな。それで少し、気になった。まさか、あれが原因だとか言わないだろうな?」 「えっ……」 それは、今言われるまでヒカル自身気付かなかった。そういえば、緒方と対局した次の日、佐為は消えたのだった。 「それは……違うよ。緒方先生の事は、関係ない……」 佐為が消えて、その後ヒカルは碁を打たなくなった。それと緒方との事は、直接は関係ない。 けれど――。 思えば、佐為にはあの時からこうなる事がわかっていたのかもしれない。 あの時佐為は、もう緒方とちゃんと打てる機会もないだろうから、打とうと言った。その時佐為には見えていたのだろうか。この未来が。 そうか。 緒方先生。あなたが佐為と終局まで打った、最後の人なんだよね……。 わからなかった。見えていなかった。佐為の心が。 どんな思いで、あの時緒方と打とうとヒカルに告げたのか。 緒方の望みに応えるため。けれど、きっとそれだけではない。緒方ほどの実力の持ち主なら、佐為本人だって彼と対局してみたかっただろう。消滅までに、たった一度でも。 それが、棋士というもの。 ひとりで石を置く事も出来ない自分自身を、どれだけもどかしく思っていただろうか。そして、そんな佐為を差し置いてどんどん前へと向かっていたヒカルの事を。 そんな後悔に押しつぶされて碁を打たなくなったヒカルに、けれど佐為は自分自身のすべてを遺していた。その心、その棋力となって――。 なあ、佐為。 どこかから、見えてる? 俺は今、ここでこうして、碁を打ってるよ――。 |