UP20020426
ALIVE 2
「お前、何泣いてる」 「……え?」 はっと焦点を合わせたヒカルの目の前で、緒方はまっすぐにこちらを見つめている。しかし少しぼんやりした視界。そして自分の頬を、冷たいものがするりと零れ落ちるのを感じた。 しまった。 「……泣いてない、よ」 「泣いてんじゃねーか」 「緒方先生酔ってるから、そう見えるんだよ」 「そんなに酔ってなんかいねえよ、バカ」 確かに、無茶苦茶な事を言っている。こんな醜態を晒して、フォローのしようがない。 ヒカルは立ち上がった。 「俺、帰る」 「進藤」 急いで歩き出したヒカルの腕を、緒方は掴んだ。 「こんな時間にガキひとり帰せるか、阿呆」 「先生、送ってってよ」 自分でもすでに、何を口走っているのかわからない。 「もう飲んじまったよ」 それもそうだ。 ――って、なんだよそれ。もともと俺を帰すつもりなんてなかったんじゃん。本当にこの人って、自分勝手だ。 「おいお前、ただ泣いてねえで理由を言えよ」 「理由なんて」 言える訳がない。佐為の事なんて。 自分にしか見えていなかった佐為。その佐為の気持ちを、心を、自分以外の誰がわかってやれたのか。 ――俺が、わかってやらなきゃいけなかった。 自分の中で、ちゃんと整理がついていた訳じゃなかった。けれど佐為が夢に出てきてくれた時に、彼は笑っていたから。あの時少しだけ、救われたような気がした。 本当はまだ、何にもわかっちゃいない。 佐為、どうして消えた? 佐為の夢は、もう叶わない。これからヒカルが叶えるかもしれない数々の夢は、それはもう佐為のものではない。佐為はそれをわかっていてなお、自分に彼の持つすべてを与え続けていたのだろうか。 「俺、今もこうしてちゃんと碁を打ってるよ。打っちゃいけないって思った。あの時、もう打たなければ……」 佐為が、戻ってきてくれると。 最初から、佐為にすべて打たせておけば良かったと。 「わかってる。本当は違うってわかってる。だけど、あの時思った。俺があいつから、囲碁を奪ったんだって」 「……?」 「夢を叶えたいと思ってたのは、本当はあいつだった。俺じゃなかった。全然囲碁になんて興味なかったくせに、俺にそんな資格なんてなかったのに、あいつの夢を俺は取り上げた。俺はあいつの気持ちなんて全然気付かないで、そんであいつは俺に夢を託して……」 そして、消えた。 神の一手を、極めないままに。 佐為が千年の時をかけて追いかけていた夢を、己の夢へとすりかえていたのは自分。 「俺はひとりきりだった。どんなに泣いても、叫んでも、あいつは迎えに来てくれないんだ。あんなに、あんなに叫んだのに! もう、二度と――」 あの資料室で、たったひとり。 どれだけ後悔しても、あの時ではもう遅かった。 「泣きゃあ何でも願いが叶う訳じゃねえだろ。玩具欲しがる子供じゃねえだろうが」 「わかってたけど……!」 緒方を見上げたヒカルの眉間に、いくつもの皺が寄せられた。細めたその瞳から、いくつもの透明な雫が流れ落ちる。 「何でそんなに、意地悪いんだよォ……ッ」 泣いたって、佐為は戻ってこない。 それは緒方の言う通りで、彼に当たったってどうにもなりはしない。はた迷惑なだけの八つ当たりだ。 けれど緒方は、ヒカルの言葉を黙って受けとめていた。 「違う。欲しかったんじゃない。俺なんか……何にも欲しがる権利なんてなかった。あの時それに気付いても、遅すぎた。俺なんかが、俺……ッ」 思い出したようにヒカルを襲った慟哭も、無理からぬ事だった。 佐為はヒカルに何も告げずに去った。告げる暇もなかった。だからヒカルは未だ、佐為が消えた事の理由も何もかも、キレイに納得した訳ではない。 けれど佐為の言葉を阻んでいたのは誰でもない――ヒカル自身だったから。 ヒカルが囲碁を続ける事に悩んでいた事、そしておそらくはとても大切な誰かを失った事を、緒方は今ここで初めて知った。その誰かが、ヒカルをこの道へと導いたのだろうという事も。 「おい進藤。夢は消えた訳じゃねえんだよ」 「えっ……?」 不意の緒方の言葉に、ヒカルは濡れた瞳を彼へと向ける。 「消えたんじゃない。託されたんだろうが。お前にそれだけの器があって、そいつはお前に夢を託した。ならそいつの夢は、そこで潰えた訳じゃない」 「先生……」 「続いてんだよ。人が一生かけても叶わない願いは、次の世代へ繋ぐ事でずっと続いて行く」 ヒカルが佐為に託された夢も。 そして緒方がその手でもぎ取ったタイトルも、本質は同じ事。 「そうやって受け継がれてきたから、囲碁の世界だって存在し続けてんだ。千年、二千年と永い時をな」 千年が、二千年に。 積み重なり、悠久の時を――。 ねえ――ヒカル? ――佐為。 「……変なの。あいつが言った訳じゃないのに、あいつに言われたような気が……する」 ヒカルの震える声に、緒方はほんの少し眉をつり上げた。 「当たり前だ。たとえそうとは意識していなくたって、本当は誰でも、心の底ではそれを知ってんだから」 そうか。 そうなのかな。 いや、ヒカルだって、本当はもう知っていた。ただ、誰かに「そうだ」と言って欲しかっただけなのだ。佐為に関しては、本当に誰にも存在を明かす事も、彼に関する悩みだって打ち明けられなかったから。 そう。わかっていた。 消え行く己の願いを、そのすべてを佐為がヒカルに託したのなら。 佐為。俺はずっと、囲碁を続けてもいいんだよな? 佐為。なあ、佐為。 俺といて――楽しかった? 「お前だって、わかってんだろうが。だから囲碁を続けてるんだろ」 「……うん」 「だったら迷ってる場合じゃねえぞ。とっととあがってこい」 「……うん」 ヒカルが頷くのを受けて、緒方はその身体をいとも簡単に、ヒョイと持ち上げた。勢いでヒカルの両膝に腕を回し、そのまま抱き上げる。 「緒方先生!?」 「もう寝ちまいな。色んな事を考えすぎた時は、寝るに限る」 有無を言わさぬ力で、緒方は抱き上げた身体を自分のベッドの上に放り投げた。突然の事にキョトンとするヒカルにはお構いも無しに、上掛けをバサリとかけてしまう。 「おっと、寝る前に電話番号を言っとけよ」 ヒカルは、ふと瞳を細めた。思い出したように、その身に眠気が訪れる。 泣くという行為は、思ったよりも体力を使うものだ。 いつも、緒方はヒカルの一歩先へと回り込む。本当に、いつも。これが大人、という事なのかはわからないが、緒方のこういうところに、ヒカルは何度も助けられてきた。ヒカルがそれを自覚する事は、あまりなかったけれど。 「――夜分に恐れ入ります。私、日本棋院の……」 緒方の声が聞こえる。ヒカルの自宅に連絡を入れてくれているのだろう。 「進藤」 「……なに?」 戻ってきた緒方に見下ろされて、ヒカルは顔を上げた。 「悩む事も迷う事だって、誰でもいくらでもあるもんだ。だがもしそんなしけた面をアキラ君や他の連中に見せたくねえなら、俺のとこに来な。その横っ面思いっきり張って、少しはマシな顔にしてやるよ」 「そんなの……ヤダよ」 少し笑うように、ヒカルは瞳を細めた。そこに残っていた涙が、するりと流れ落ちる。 けれどもう、新しい涙はない。 「オヤスミナサイ」 ヒカルは目を閉じる。 なんかこの人って、やっぱり凄いや。 緒方相手では何となく気恥ずかしいものもあって、ちゃんとしたお礼の言葉も言えなかったけれど。なけなしの感謝の気持ちは、今後の態度で示せばいい。 そんな風に、思った。 「おい進藤。今日の予定を言え」 昼前に蹴り起こされて、聞いた緒方の第一声はそれだった。 「あ、と、午後から棋院……」 「じゃあ飯食ったら送ってやるから顔洗ってきな。お前、凄い面になってるぜ」 何が何やらわからないままに、指し示された洗面台へと向かうヒカル。 「うわ――――ッ!!」 そこで鏡を見たのであろうヒカルの叫びを聞いて、緒方は冷蔵庫をあさりながらクックッと笑い声をたてた。 本当に面白い。 何故自分が執拗に彼にかまうのか、それは良くわからない。確かに彼の潜在的な棋力には度々驚かされるが、それとは別にある、妙な魅力。 多分アキラも行洋達も、ヒカルのそんな部分を感じ取っていたのだろう。 皆が、ヒカルの周りにいる。 遥か下方にいた人間を引っ張り上げ、その内面にある脅威を感じながらも、誰もが彼を前へと押し出す。 ならばヒカル本人は、そこに指し示される道を、真っ直ぐに進めばいい。 それが、お前とお前の周りにいる人間の、答えなんだよ。 緒方は、心の中だけで呟いた。 ヒカルが緒方の前に現れたのは、実にその翌々日。棋院会館の入口である。 「……」 「……」 「何だお前は。舌の根も乾かないうちに、何の用だ?」 「あの……」 ヒカルを睨み付ける緒方を、こちらもしかめっ面で見上げるヒカルに、たまたま傍にいた和谷が、事情もわからず蒼白になる。 「おいおい、進藤……」 「緒方先生、これ……」 ヒカルが差し出したのは、数枚の紙の板。 先日緒方からの連絡を受けて、今更のようにヒカルのいるプロの世界が現実味を帯びてしまった母から勢い込んで渡された、大判の色紙である。 「母達に、サインをクダサイ……」 俯きながら、吐き出すようにその言葉を絞り出す。 緒方は珍しく目を見開き。 和谷は大爆笑。 「そうかそうか。偉大な緒方先生のサインをな。おい進藤。礼ははずむんだろうな?」 皮肉たっぷりの微笑みで緒方にぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられ、ヒカルはただ真っ赤になって、悔しそうな眼差しを彼に向けるのだった。 |
●あとがき● なし崩しに、ヒカ碁第一弾です(苦)。愛しの岸本が原作から姿を消した時に、氷村の世界は緒方中心にまわりはじめました(笑)。いや、きっしー、今でも好きですけどね。てか、ヒカルに付きまとう緒方さんがあんまり可愛かったんで。本物のストーカーに近いアキラは、私にとってはカップリングというよりは、ヒカルのライバルとして不可侵の場所にいるので、これは他の誰にも譲れません。だから、この手のお話は他の人で(笑)。 なんかこのお話の二人、全然終わってませんね(苦笑)。というより、始まってもいないというか。今後のお話もあるにはあるのですが、さてさて(笑)。 |