UP20020507
輝きながら 2
「どーして勝てないんだよーッ!!」 対戦成績を睨み付けながら、ヒカルは力いっぱい吠える。 『紙に向かって叫んでも仕方ないでしょうに』 「うるさいよ!」 呆れ顔の佐為の言葉にも、まったく耳を貸さない。 リキんでいるのか何なのか、ヒカル自身にはまったく原因が分らないままに、ヒカルは対局に黒星を刻み続けている。 『こういう時だってありますよ』 「今これじゃ駄目なんだよ!」 早く一組にあがらなければならないこんな時に、思う通りの碁が打てない。そうでなくとも負けが込んでいる時には誰だってへこむものなのだ。何もこんな時に。わかっていてもイライラは募る。 「勝たなきゃいけないんだ。勝たなきゃ――」 力いっぱい握った手の力、その勢いのままに開いたエレベーターの扉に滑り込もうとして、中から出てきた誰かとぶつかりそうになる。 『ヒカル、前――!』 「うわッ」 「おっと」 よろめきかけて何とか体勢を取り直し、ヒカルはその人物を見上げる。 緒方だった。 「あ……ごめんなさ――」 ちょっと予想していなかったその人に、ヒカルはうっかりどもってしまう。 「なんて顔をしてるんだ」 「え?」 頭ふたつ分上方にある彼の顔を見上げるヒカルの眉間に、緒方は右手の甲をコツコツと当てた。 「ココにシワ」 「あ」 パカンと目を見開いて、思わず両手で額を隠すヒカル。 クルクル良く変わる表情だ、と緒方は思った。 「調子が良くないようだな」 ヒカルが何事かを言う前に、ズバリ指摘されてしまう。見ていた訳でもないのに、どうしてそういうことがわかるのかヒカルには謎だ。 「そ、そんなんじゃないよッ!」 「へえ。そうなのか?」 「う……」 調子は悪い。きわめて悪い。 勢い込んで若獅子戦に出る事を宣言してしまった手前、この人にそれを悟られるのは避けたいところだった。きっと彼は、ヒカルが若獅子戦に出て来るとアキラに言ってしまったのだろうし。 しかしもう、手遅れという気がしないでもないが。 「まあ、そんな時もあるだろう」 どこか面白がるような、含みを持たせた表情で佐為と同じような事を言う緒方。 結構この人って、意地が悪いんじゃないだろうか。 「そんなんじゃないってば……ッ」 「そうか。そうだろうな。アキラ君と対局するのに、今から調子悪いなんて言ってられないものな。悪かった悪かった」 ――こ、こ、コイツ……! 『ひ、ヒカル、落ち着いて〜〜〜』 「そうだよ! 俺は塔矢と戦うんだから! こんなの、すぐに挽回するんだからな!」 今のヒカルは、アキラと戦うためにここにいるようなものだ。囲碁をはじめて院生にまでなって、囲碁の楽しさや奥の深さを実感し、他の目標ももちろん生まれつつあるが、やはりきっかけはアキラにあるのだから。 ムキになるヒカルに、緒方はやれやれと肩をすくめた。 単純なお子様は扱いやすい。少々やかましいのが難点だが。 「わかったから、もう少しスマートにコトは運びな。余裕かましたいなら、メソメソ泣いてるんじゃない」 「メソメソなんかしてねーッ!!」 ここが棋院会館内である事も忘れて、ヒカルはがなり立てた。 ただでさえ不安になっている時に好き勝手な事を言われて、本当に涙が滲んでくる。でもこれは連敗のせいじゃない。緒方のせいだ。ヒカルは心の中で自分を納得させる。 「まるで俺が泣かせたみたいじゃないか。みっともないから拭けよ」 緒方はそう言うと、キレイに折りたたまれたハンカチを取り出して広げ、ヒカルの顔面に押し付けた。 みたいじゃなくて、あんたのせいなんだよ! そう言いたかったが。泣きが入っているのは事実なので、これ以上何をしても何を言っても、自分を追いつめるだけのような気がする。 「そん……え、え……え……っくしゅんッ」 ――あ。 「――……」 涙が出れば、鼻水も出る。 思わず顔をしかめた緒方は、さりげに素早くハンカチから手を引いた。 「おっ、おがッ……」 「それはくれてやる」 ――これだから、子供ってヤツは。 「あ、洗って返すよッ!」 「鼻水のついたハンカチなんかいらん」 緒方はそのまま、くるりと体の方向を変えて歩き出した。 「ま、待ってよ!」 「せいぜい頑張りな。キミの本来の武器は、邪魔な石ころを飛び越えた先にあるんだぜ」 後ろ姿でヒラヒラと手を振る緒方は、もうヒカルをかえりみない。 「な、何なんだよ、あの人……」 くしゃくしゃになったハンカチを握り締めて、ただ立ち尽くすヒカル。 『ハンカチくれるなんて、良い人ですねえ』 「そうじゃねーだろぉ……」 お気楽そうな佐為の言葉に、ヒカルは盛大に溜息をついてしまう。 「なんか……ムカつく。何だよあれ。もう、ゼッタイ一組にあがって若獅子戦に出てやるんだからなーッ!」 佐為は、クスリと笑った。 ――いいえ、ヒカル。 やはり、彼はちゃんと心得ているようですよ。どういう風にしたら、ヒカルを奮い立たせる事が出来るのかをね。 しかし余計な事は黙して語らず――ですか。 ならば――と、佐為は思う。 私は私で、ヒカルにしてやれる事をしなければと。 多くの者がそうであるように、ほんの小さな石ころで躓いたまま、そこから動けなくなってしまうような事がないように。 この世の中にひしめく人間の一体何割が、そんな風に挫折してきた事か。 ヒカルの輝きは、こんなところで終わらせる訳にはいかない。 アキラしかり、緒方しかり、その他多くの人間が、そして佐為が。 ヒカルを引き上げる力が、彼の周りにはちゃんと存在しているのだから、と。 そうしてヒカルは、若獅子戦への参加権をその手にした。 結果はプロ相手に一回戦敗退というありきたりなものだったが、それでもそんな経験のひとつひとつが、ヒカルの中の何かを育てる。 「プロ試験があるんだよな。俺必死だったから、そんな事全然忘れてたよ〜」 忘れてたといおうか、知らなかったといった方が近いか。 『まあまあ』 プロ試験の事をいつ知ったところで、学校の勉強のように一夜づけが通用する世界でもない。幸いまだ時間はあるのだし、焦らずに自分の力を積み重ねていけば良い。 「あ! えー、と……緒方、先生!」 棋院会館の入口にその姿を認めて、ヒカルは長身の男に駆け寄った。未だに彼の名を思い出すのに若干の時間を要するらしい。 「よう」 いつも目の前に突然現れる緒方へと向かって、ヒカルが自分から駆け寄って行くという珍しい光景を目の当たりにして、佐為は『おやおや』と呟いた。 『ああ、そうか、あの事ですね』 クス、と笑う佐為を尻目に、ヒカルはブンブンと腕を振りながら緒方に近付く。 それにしても彼とは良く会うような気がする、と佐為は思ったが、まあ、偶然が重なっているのだろうと安直に考える。 「あのさあ、これ」 ヒカルは、緒方の目の前にズイ、と小さな紙の袋を差し出した。 「あん? なんだ」 「新しいハンカチ。会えたら渡そうと思って、ずっと持ってたんだよ」 緒方は、微かに片方の眉をつりあげる。 「そんな物はいらん」 「えぇ〜!? そんな事言わないでよ。俺この間、母ちゃんにすっげー怒られちゃったんだから。あのハンカチ、ブランドだか何だかで高かったんでしょ?」 それを汚して持って帰ってくるなんて、と、母には盛大に叱られた。これが子供同士の事であればまだしも、相手が大人であるというあたりで、当事者の母親という立場的には複雑なものがあるのだ。 「だが俺は一言も買って返せとは言ってないぞ」 「そうだけど! 受け取ってもらえなきゃ、俺また母ちゃんに怒られる! いいじゃん、ハンカチなんていくつ持ってたって邪魔にはなんないだろぉ!?」 それはそうかもしれないが。 キャンキャンと小犬の如くに吠えまくるヒカルに辟易しながら、結局緒方は折れた。 「わかった。わかったからそう騒ぐな」 「あ、そう? よかった〜」 緒方の言葉に、すぐさまヒカルは笑顔になって紙袋を押し付ける。 やれやれ。 別に比べたい訳ではないが、ついつい緒方はそんなヒカルにアキラの姿をダブらせてしまう。これがアキラであれば、どうしても受け取って欲しいものであれば「いらなければ、後で捨てて下さっても結構ですから」などと言ってくるのだろうが。 同じ子供でも、こうも違うものか。まあ、あちらが少し特殊なのかもしれないが。 「ところで若獅子戦、見学させてもらったぜ」 「え。ウソ!」 「本当に気付いてなかったんだな。大した集中力だ」 だって緒方は、ヒカルとアキラが対局するなら見に来る、と言っていたのに。 「アキラ君との対決を見に行ったんだがなあ」 ヒカルの思考そのままの事を言われてしまった。 「う……」 相変わらずの意地悪な表情で、緒方はニヤリと笑う。 「まあ頑張った方じゃないか。君にそんなに多くは期待してないさ」 本当に、いやな奴だ。 しかし、実力的に否定できないだけに、ヒカルには返す言葉が無い。 「これからだよ! これからッ!!」 「ははははは」 これだ。 この、めげてもすぐに立ち直って前に向かおうとするタフさと情熱。これが彼の武器だと、緒方は思う。超えられれば伸びる。しかしそれが、案外に難しい。 絶対にヒカルは上へと駆け上がってくる。そんな風に、あの対局を見て思った。 稚拙でも、詰めが甘くても、それに負ける事のない輝きがヒカルにはあり、緒方はその輝きを彼の中の深いところに見つけた。 不思議な子だ。一見本当にただの子供にしか見えないのに。 いや、すべての子供にこんな風に可能性があるものなのかもしれない。自覚するかしないか、開花するかしないかの差なのだろう。 戦慄を覚えると共に、どこかワクワクするような、そんな得体の知れない感情が己の中に存在しているのを知って、緒方は自分自身に呆れ返ってしまう。 おいおい。一体どうしたっていうんだ? 桁外れの碁打ちなら、塔矢アキラで見慣れているだろうに。 しかしアキラにはアキラの個性があるように、ヒカルにも彼特有の不思議な何かがある。自分はどうやらそれに、少々当てられているらしいと緒方は自覚した。 「せいぜい俺を驚かせてくれ。期待しているぞ」 「へへーんだ。見てろよ〜ッ!」 半ばヤケになって緒方に食い掛かるお子様に、緒方は片手をヒラヒラ振って再び歩き出した。 「ほんっと、イヤミな奴!」 ヒカルは言うが。 『でも彼は、わざわざヒカルの対局を見るためだけに若獅子戦に出向いてきたのですよ』 佐為はそう言って、柔らかく微笑む。 「うん……そうなんだよな。変な奴。何考えてんだか、ちっともわかんねーよ」 ――きっと。 彼自身もその行動の意味がわからずに逡巡しているのだと思いますよ。 ヒカルには聞こえない密やかな声で、佐為は呟く。 あの時白川が言ったように。彼はある意味無意識の中で、伸び行くヒカルに期待をかけているのだろうと。 アキラを打ち負かした対局と、名人と向かい合った一瞬。緒方は知らないが、あれはヒカルの中の佐為の力によるものだ。あの段階でヒカルに興味を持っていたとしても、それは本当はヒカルへのそれではなくて、目には見えない佐為への興味だ。 だが、若獅子戦でのあの一瞬から、それは本当のヒカルへの情熱に変わったのだ。 佐為以外、誰一人その事に気付かないままに。 その事が、少し淋しくはあったけれど。 どうか見ていて下さい。ずっと。 この先ヒカルが大きな変貌を遂げる、その先までずっと。 必ずあなたの背に追いつく、この子の事を――。 何故だか、あえかな不安すら覚えるような、そんな未来への輝きを放つヒカルの傍に立ったまま、佐為は長身の男の後ろ姿をただひっそりと見守っていた。 |
●あとがき● 別に、某徳永さんの歌のタイトルではないんですが(笑)。この辺から緒方氏はヒカちゃんに興味を持ちはじめたらしいよ〜的なエピソードで。でもまだまだヒカルにとってはこの大人の人、得体の知れない人物らしいです。困ったね。 |