UP20020624
ナキウサギ 1
「おや、進藤君」 棋院会館前。 聞き覚えのある声に呼びかけられて、ヒカルは振り返った。思った通り、その声は今や兄弟子となった白川である。 「あ、白川先生、こんにちは! 今日は大手合?」 「うん、そうだね。進藤君は今日はどうしたの? 手合いの日でもないし、研究会でもないだろう?」 相変わらずの白川の笑顔は、春の日だまりのようだ。 「うん。今日は学校に行ったよ。その後和谷の家に行って借りてたCD返して、帰りに通りかかっただけだよ」 ふうん、と相槌を打った後で、白川はふと微笑んだ。 「和谷君といえばこの前彼に聞いたんだけど、進藤君てラーメンが好物なんだって?」 「えっ? あ、うん。どうして?」 「前に……うん、プロになる前、若獅子戦の前あたりに一度一緒に食事した事があったじゃないか。あの時の事を思い出してね。そんなにラーメンが好きなら、気を遣う事なんかなかったのにと思って」 そういえば、そんな事もあった。 ヒカルはえへへ、と頭を掻いた。 「えー、あー、だってなんか、白川先生がせっかくおごてくれるって言うから、なんかラーメンに付き合わせるのって悪いかなぁ〜、なんて」 自分と一緒になって白川にラーメンを啜らせるのは、ちょっとだけ気が引けたのだ。何となく、彼はそういうイメージではないような気もして。 「ほぉ〜お」 突然背後からかけられた声に、ヒカルは仰天した。 この声は。 「イイコト聞いたなァ?」 「おッ……」 ガシッとヒカルの頭に手を置いたのは、誰であろう緒方先生その人だった。手合いや出張であちこちに出かけている緒方と顔を合わせるのは、ちょっとだけ久々といった感じだ。 しかし久しぶりに会う彼のこめかみには怒りの四つ角が浮かび、その微笑みは妖しく光っている。 「若獅子戦の後、腹減らしてる小犬ちゃんを拾ってやった優し〜い緒方先生を、そのワンころはどこに連れていったんだっけ?」 「あ、あの、あの……」 「さらについ最近、お手製の昼飯を用意してやった素敵な緒方先生に向かって『ミルクよりジュースの方がいい』とかほざきやがったのは、どこのどいつだったかなあ?」 「〜〜〜……」 そんな事もあった……。 緒方の家に宿泊した次の日の話だ。 「な、何だよ、ラーメン嫌いなら、そう言ってくれれば良かったじゃん……」 おどおどと、それでも反撃を試みるヒカルの言葉に、緒方の四つ角は更に増えた。 「んな事言ってんじゃねーんだよ! 白川先生に遣う"気"はあっても、緒方先生に遣う"気"はないのかって聞いてんだ」 「だ、だって〜〜」 「だってぇー?」 たしかに遠慮がないという点で言えば、言い訳のしようもないのだが。 他の高段者の前では多少はあらたまった態度を取るヒカルも、緒方と顔を合わせていると、何故だか素に戻ってしまうのだ。 緒方だって悪い。 とヒカルは思う。 普通、大の大人が感情に任せて中学生の胸倉を掴んだり、酔った勢いで絡んだりするか? 子供相手に、いう点を抜きにしても、緒方はヒカルに対して特に遠慮がない。だからヒカルも、自然そうなってしまうのだ。実際今だって、ずいぶん大人げない事で絡んできているではないか。 それに――。 今みたいに、こんな風にあけすけに文句を言ったりしながらも、緒方はヒカルに対しての先回りが非常に上手い。常に一歩先を行きながら、肝心なところで全部ヒカルのいいように動いているのだ。それは、後になってからでなければ気付かないようなやり方ではあるけれど。 だから。 そういう緒方だから、ヒカルもついつい甘えが出てしまう。 こんな風に遠慮なく文句を言われたりするから、なおさらなのだ。 あの時だって、なにも腹が減ったからといって、緒方を巻き込んで食事をする理由など、何もなかった。ヒカルは普段から、平気でひとりで食事を済ます習慣を身に付けている。 けれどあの時はただ、ほんの少しだけ、近い場所にいたかった。だからどことなく、誘うような素振りを見せた。 そしてあの時も。 佐為への想いを緒方にぶつけたあの時だって、緒方は黙ってそれを受けとめた。余計な事はせず、ただそこにいて、ヒカルの言葉を聞いて。 そうして最後にはやれやれといった体の仕草をとる事で、まるで何でもない事のようにヒカルに思わせる。だからヒカルが後になって恥ずかしい思いをするような事もなかったし、後悔する事もなかった。 遠慮しない分、遠慮もさせない。 そうしたくない相手であるなら、緒方はとっくに一線を引いている。そういう事が、ヒカルにもわかるから。 だから――。 「だ、だけどどーせ、俺が変に気を遣ったりしたら、緒方先生きっと『気色悪い』とか言うんだろ?」 「当たり前だ」 「〜〜〜〜」 言ってはみたものの、あまりに予想通りの返答にヒカルは二の句も継げない。しかしだから、今のこんな文句も心から言っている訳ではないのだとわかるけれど。彼流のコミュニケーションの取り方なのかもしれない。 「まあまあ」 さてどうしたものかといった風情で二人のやり取りを見ていた白川が、ようやく彼らを止めに入った。 「こんなところで立ち話もなんだから、緒方先生も進藤君も、どこかで食事でもどうですか?」 「え? 本当?」 食べ物と奢りに弱いヒカルの瞳は、白川の言葉に素直にハッキリと輝きを増す。緒方もチラリと腕時計に視線を向けた。 「……そうだな、いい時間か」 まだ少し早い時間のような感もあったが、ゆっくりと外食するには丁度いい時間だ。 「じゃあそうしましょうよ。進藤君は、何が食べたい?」 当然のようにヒカルに振る白川。 「え、俺は何でも」 「ハッキリしろ」 そしてやはり当然のようにツッコミを入れる緒方。 「あ、あ……じゃラーメン……」 「……」 ――俺を相手にした途端、これか。 緒方はそんな風に思うが、ヒカルのこういう態度を悪く思っている訳ではない。むしろ、この変わり身の速さを面白がっているフシさえある。こうやって、己に対して飾る事をしないヒカルの存在が。 心地良いと、思うのだ。 「じゃあラーメンにしようか。緒方先生もよろしいですか?」 微笑む白川も、この状況を楽しんでいるかのように見える。 「かまわんよ」 この状況で「いやだ」と言える大人はおそらくいないだろう。というか、別にもともと緒方はラーメンが嫌いな訳ではないし。 結局、奇妙な組み合わせのこの三人連れは、揃ってラーメン屋に足を運ぶ事になったのである。 会計を済ます大人達に屈託なく礼を言ったヒカルは、元気良く店を飛び出して行った。「車の前で待ってろ」という緒方の言葉に素直に頷くヒカルの姿に、白川はうっかり笑い出しそうになってしまうのを耐えていたけれど。 あまりにも当たり前のように世話を焼く緒方と、世話を焼かれるヒカル。 不思議な組み合わせと光景だが、どうにも微笑ましいものを感じてしまう。 実際、白川は対局中の姿とか、つまり囲碁に関わっている部分しか緒方の事を知らない。だがあまりにも想像と違う彼の姿に少々驚いていた。それがヒカル相手の時に限定されているものなのかは判断しかねるところだが。 しかし現在最強の若手として各所から一目置かれているタイトルホルダーの緒方が、あろうことか中学生相手にラーメンを挟んで、やれ一口よこせだのチャーシューを分けろだのと、やいやいやりあっている姿というのは……微笑ましいというよりは、むしろ笑える光景かもしれない。 やはりこれは。おそらくはヒカルと接する時限定なんだろう、と白川は思う。 白川から見ても、ヒカルは簡単に自分を素に戻してしまう不思議な子であったから。 「おい、進藤?」 信号待ちで緒方がふと隣を見ると、静かになったナビシートでは、ヒカルがしっかりと寝息をたてていた。 「ここで寝るか普通……」 車に乗せて僅かの時間しか経っていないというのに。他はどうだか知らないが、緒方はこういう経験は初めてだ。子供ならではか、とも思うが、生憎と子供はアキラくらいしか隣に乗せた事がないので今イチ感覚が掴めない。 「ずいぶん無防備なもんだな」 送り届けるべきヒカルの自宅まであと少しというところだが、このお子様はまた、起こすのが忍びないくらいに気持ち良さそうに寝息をたてている。 どうしたものか。 時間はまださほど遅くはない。 緒方は何となく、ルートとは反対の方向にハンドルを切った。 |