UP20020624

ナキウサギ  2





 少し広く取られた路肩に車を止めて、緒方は車を降りた。
 懐から取り出した濃い赤の箱から煙草を一本取り出し、火を点す。歩道の柵に寄り掛かって紫煙をくゆらせながら、夕闇に沈みはじめた景色を眺めた。
「どうかしてるぜ」
 何度となく己の中で繰り返した言葉。
 どうかしている。
 何故自分は彼に対してこれほどまでに深入りするのか。
 こんな風に関わり合うような理由なんて、どこにもないはずだった。いや、思い付かなかった。けれどいつも気付いた時には、ヒカルにちょっかいをかけている。単に特出した囲碁の才能だけを見るなら、ヒカルでなくともいくらでもいる。いい例が塔矢アキラだ。彼の囲碁に興味があるなら、ただ打てばいいだけだ。他の何事も、必要ではない。もちろんヒカルの打つ碁には他には見られない輝きが内包されているし、それには確かにとても惹かれるものがある。こいつとは近い将来、きっちりと打ち合って行きたいと思う。しかし、それだけではない。というよりは、それはそれ、これはこれ。まったく別物なのだ。
 では、それは何だ。
 自分と顔を合わせるたびに、必ず最初は一歩引くような素振りを見せるヒカル。けれどもさほどの時をおかずして、彼は本物の小犬のようにトコトコと傍に寄ってきている。そんな姿を不思議だと思う以上に、そうさせている自分自身が不可思議だ。
 そう。そうさせているのは――自分だ。

 助手席の影が、身じろいだ。
「緒方先生……?」
 風を入れるために開けておいた窓の内側から、呟くような声が聞こえる。どうやらお目覚めの様だ。
「ここだ」
 緒方の声に、目を覚ましたヒカルが車からのっそりと出てきた。
「ここ……どこ?」
「お前があんまり『起こすな』と言わんばかりに高いびきで眠りこけてたから、ここで休んでたんだよ」
「……ゴメンナサイ」
 眠ってしまった事が自分でも不覚であったらしいヒカルは、おどおどと俯いて素直に謝罪を口にする。
 そうして緒方と並んで柵に寄り掛かったまま、ヒカルは黙りこくってしまった。
 その横顔は、どことなく所在なさげだ。
「お前――」
 緒方に呟くように呼びかけられて、ヒカルは俯いていた顔を上げて緒方の方へと視線を移した。
「俺とこうやってて、楽しいか?」
「……え?」
 突然の質問に、目をぱちくりとさせるヒカル。
 それも当然だろうな、と緒方は思う。
 居心地の悪そうなヒカルの横顔に、ついそんな言葉が出てしまっただけなのだ。
「俺が絡むたびにお前ノッてくるけどな。お前にとって、俺って何だ?」
 妙な問いかけをしているな、と自分でも思う。だが、ずっと疑問に思っていた事でもある。けれどそんな緒方の言葉に対し、ヒカルの瞳は存外に大きく揺れた。
「そんな、そんなの――」
「そんなの?」
「お、緒方先生こそ、どうなんだよ」
 咄嗟にそんな風に切り返すヒカルだが。
「さあな。俺が先に質問してるんだぜ」
「――……」
 ヒカルはまた、俯いてしまった。
「そんなの――答えたくない、よ」
 答えたくない、ときたか。
 わからない、と言う訳ではないらしい。けれど、妙な戸惑いが、隠せていない。その横顔に、いま思い切り一線を張られたのを緒方は感じた。
 まるで何かを怖れるように。

 お前も――同じか。

 戸惑っているのは、緒方も一緒だ。
 思い返せば、ヒカルとの付き合いは彼が小学生の頃から始まっている。あの頃は、本当に歳相応な、ただの子供だった。それが中学生になって、そしてプロになって。もう顔つきから、あの頃とは違う。
 プロになってからのヒカルの対局中の姿を、緒方は何度か目にする機会があった。どちらかというとヒカルの打つ碁は冒険的で攻撃的だ。先読みが上手く、容赦がない。ここ最近見せるようになったその精悍な表情には、緒方ですら目を見張るものがあった。気の弱い者なら、対局中に向かい合っているだけで竦んでしまうだろう。
 そんな一面に、同じ道を行く者として心を惹かれるのと同時に、彼が見せるまったく別の顔に、逆に戸惑いを覚えるようにもなった。
 院生試験の頃。
 そしてプロを目指す院生時代。
 襲いかかる不安感にいきり立っていたあの頃は『ベソをかく』という言葉がまさにお似合いの子供だったのに。
 あの時――。
 緒方の部屋で彼が見せた泣き顔に、緒方は正直、驚愕した。
 いつの間に、こんな風に泣くようになったのかと。
 次々と零れ落ちる涙に、緒方は見とれたのだ。
 そうして今も。
 その横顔が見せる微妙な色に、惹かれている自分がいる。
 大人になったな、と思う。だからこそ、子供に抱くのとは違う、まったく別の形での保護欲を掻き立てられてしまうのだ。
 何かを畏れるようなその瞳のくもりを取り去って、まっすぐに己を見据えさせたいと。
「お、緒方先生は……ズルイよ」
「ズルイ?」
「時々、ズルイ」
 ヒカルはク、と、唇をかむ。
 一体何をやっているんだ、と、ヒカルは自分でも思っていた。
 おかしいと、わかっている。何故緒方なのかとも思う。こんな不安定な自分を見て、緒方がそんな質問をしてくるのも、もっともな事なのかもしれない。けれど。
 怖い。
 緒方が自分のために見せる緩みに、いつも素直に甘えてしまう自分が怖い。
 アキラとも、和谷や伊角、中学の部活で関わってきた人たちとも、違う。
 この人に心を許すのが、怖いのだ。
 元来ヒカルは、自分が好きになる人間も嫌いになる人間も、あるがままに素直に受けとめる質の人間だ。好きは好き。嫌いは嫌い。何を隠す事があるだろう。
 けれど今は、心の中に入り込んでくる『誰か』の存在に怯えている。
 心を許してしまったとして。
 特別になってしまったとして。

 その誰かを失う事が――怖いのだ。

 佐為を失った事が、ヒカルの心を変えた。
 大切な誰かを、もう二度と失いたくない。
 だから誰かが、特別な存在になってしまうのが……怖い。

 他の誰に対しても、こんな恐れを抱いた事はなかった。
 共に大切な時間を過ごしてきた先輩や同輩、生涯のライバルと決めているアキラに対してだって、こんな想いを抱いた事はない。
 実際のところ、もしも彼らを何らかの形で失う事になったとしたら、もちろんその時にはヒカルの心に傷が残るのだろう。けれど彼らの事を思う時に、そんな未来への不安が付きまとう事なんて、絶対にない。思い付きもしない。ずっと先までその存在がある事を、確信していると言っても良い。
 佐為に対してですら、その瞬間が訪れる時まで、不安なんて抱きもしなかった。
 では何故『彼』は違うのか。
 佐為との別離を経て、ヒカルは失う事を畏れるという気持ちを憶えた。
 ではなぜ、それを畏れるのか?
 わからない。初めてだから、見当もつかない。これまでに感じた事のない気持ちだから、参考にできる前例が存在しないのだ。

「緒方先生は、なんで俺をけしかけたり、甘やかしたりするのさ?」
「ああ?」
 ヒカルの歩みを乱して自分のペースに巻き込む緒方を、ヒカルは苦手としていた。それなのに、そんな事を繰り返しているうちに、何となくそれに慣れてしまっていた。緒方に乱される前に、そこに足を踏み入れる事を憶えてしまって。そうしたら、もっと深いところにある緒方の色々な面が見えるようになっていた。
 他に類を見ない、その心の強さ。
 静かな外見に隠されがちな、内面の熱さ。
 だからこそ未だに残されている、信じられないような子供っぽさ。
 そうして見え始めてしまったら、緒方の姿から目を離せなくなっていた――。
「緒方先生が俺に声かけるのって、何でさ? どうして構うんだよ。俺が困るの見て、楽しいの?」
「……何で困るんだよ」
「……」
 だって、こわい。
「だって、俺がもし緒方先生とこうやっているのが楽しいって言ったら、こういう時間が大事なんだって思っちゃったとしたら、そしたら緒方先生、責任とってくれるのかよ!?」
「ああん?」
 何だか話が飛躍しすぎというか、ヒカルの言っている事が良くわからない。
「だから――」
 ここでそうだと認めてしまったら。そうする事で自分の中で納得してしまったとしたら、ヒカルは緒方を失う事に怯えながら暮らして行かなければならなくなる。それが怖い。
 だって、もしそんなヒカルに対して、緒方が「俺はそんなつもりじゃない」などと突き放す行動に出たとしたら? 子供はすぐ本気になる。でも大人は違うんだって、その口で言われてしまったとしたら。
 そしてもしそうでなかったとして、緒方が佐為と同じようにヒカルの前から消えてしまうような事態が起こったとしたら? ありえない事じゃない。

 だから、認めたくないんだよ!

 認めたくない、と思ってしまった時点でもうすでに手後れだという事に、ヒカルはまだ気付いていない。
「あのなあ……」
 そんなヒカルの言葉には、緒方は嘆息するしかない。
「一体誰と比べてるのかは知らんがな、なんでこの俺がわざわざ、お前なんかを裏切らなきゃならないんだよ」
 そういう緒方の言葉も微妙すぎて、ヒカルにはその真意が読み取れない。
「俺が消える? 縁起でもねえ事言ってんじゃねえよ。失礼な奴だな。それを言ったら、誰だってそうじゃねえか。一瞬後には何が起こるかわかんねえだろ」
「それはそうだけど……」
 くだらない。人がそう思ってしまうような事で悩むのは、幼い人間の特権だ。そういう時期が、誰にだってある。
 実際の話、生きていれば誰だって、大なり小なり大切なものを失いながら暮らして行く事になる。ヒカルはその事に気付きはじめたところだから、不安も大きいのだ。それを受け流しながら生きて行くのには、まだ時間がかかるだろう。
「くだらねえ事で悩むな。失くして泣くのは、失くしてからで充分だろ」
 そうでなければ、とても今を生きて行く事なんてできやしない。
 失うのが怖いなら、大切にすればいい。そうすれば、少なくとも後悔はない。
「……」
「俺もお前も、気持ちに大差ねえよ」
「え……?」
「何で突き放すために近寄らなきゃならねえんだよ。そんな回りくどい事する理由がないだろ。俺は――」
 それでも不安な心には。
 言葉が、必要なのだろう。
 幼い心に答えを求めたのは、こちらが先なのだから。
「お前が『ここ』にいるのを望んでいるのなら、それを拒むつもりはねえよ」
 また微妙な言い回し。
 こういうところが緒方はズルイのかもしれない。自分でも自覚している事ではあるが。
 ヒカルの気持ちは揺れる。
「だって……だって、それって? どうして? なんで……俺?」
 どうして、俺なんだよ。
「ずっと、仔犬みたいな奴だと思ってたよ。長い事。だが今のお前は、どちらかというとウサギみたいだ」
「……ウサギ?」
 ウサギは、孤独にすると淋しさに負けて死んでしまうという。
 それが本当の事かどうかは知らないが、緒方にはヒカルの存在が、そんな風に見えていた。
「もっともウサギはもっと静かなモンだがな。さしずめお前はナキウサギ、ってとこか」
 よく泣くし、よく喚く。
「なんだよ、それ」
「我が侭でダダッ子だよ、お前は。頭撫でてやりゃあ、大人しくなるんだろうが。俺はお前のそういう部分を、他の奴に任せる気はねえよ。つまり、そういう事だ」
「……」
 それは、自分のいいように解釈してしまっていいんだろうか。
 ヒカルは思う。
「じゃ、じゃあさ、俺、何かあった時は、緒方先生に話していいの?」
「ああ」
「学校であった事とかも?」
「そうだ」
「楽しかった事も?」
「範囲指定が貧困すぎるぞ」
 カウンセラーじゃないんだから。
「だって……」
「とにかく。俺はお前にそういう事を許してるんだよ。いいかげん解れよ。だからお前はそれでいいのかって聞いてんだろうが」
 最初に緒方が「俺とこうしていて楽しいか」と訊いてきたのだった。
 正直、楽しいかと訊ねられたら、具体的に言葉で表すのは難しい。けれど。

「お、緒方先生が、俺といて、楽しかったら――いいな……」

 あくまで素直になりきれないヒカルの言葉。俯いたままで表情を見せようとしないその仕草に、しかし緒方はヒカルの本心を見た。
『私といてもオモシロクない?』
 そんな事を言った女がいた。
 あの時自分は、何と答えたのだったか。
 そうあの時は。囲碁よりおもしろいものなんてない、そう思っていたのだった。
 けれど、囲碁と人間は違うのだと、そもそも比べる対象ではないのだと、ここに至る道程で、緒方は気付いた。
 比べる必要なんて、ない。
「それじゃあ『楽しく』すりゃあいいんだよ。俺とお前で」
 こちらも素直じゃない物言いだ。
 そんな緒方に、ヒカルは笑った。
 やっと――笑った。
「変なの……」
「どっちが」

 この気持ちの形に付ける名前があるとするなら、それはどんなものだろう。
 わからない。
 それでもお互いが自分の中に、相手の居場所を作ってしまった。
 ただそれだけの事だ。
 細かい事は、今はまだいい。

「さて。そろそろ行こうぜ」
 緒方は寄り掛かっていた柵から身を離した。ヒカルもそれに従う。もうすっかり、日も暮れてしまった。
 助手席側のドアを開ければ、車内灯がほのかに灯り、そこに小さな明りの空間が生まれる。ヒカルが乗り込むのを待ってから、そのドアを閉めた。
 そんな緒方の仕草は、ヒカルの存在をその心の中に迎え入れる彼の心情に、どことなく似ている。


 独りにはできないナキウサギ。
 そばにいる限り、自分もひとりではない。
 必要としていたのはどちらだったのか、なんて。

 そんな事はもう、わからなくなってしまったのだけれど――。




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Precious image song - オフコース "愛をとめないで"




●あとがき●
緒方、エスコートしてますよ、ヒカルを! コリャ愉快だ! ていうか、目を付けるべきはそこなのか、氷村!? というわけで、今まで伏線を張ってきた部分に一応結論を付けられましたでしょうか。いや実はまだ、残ってるんだけどね(笑)。なんかここまできても、全くラブラブじゃないじゃん。おのれ。



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