UP20020716

好きのかたち  1





 緒方は今日、久しぶりの研究会で棋院会館に来ていた。
 一応は塔矢門下のメンバーが揃っているのだが、引退した塔矢行洋の姿はここにはない。正確には今回は、塔矢門下の人間が有志で招集をかけた集まりなのである。だから今日は名人宅ではなく、棋院の一室を借りての研究会なのだ。名人の息子であるアキラの姿もそこにはあったが、時には自宅ではなく違った会場での会合も悪くはないだろう。

 一度済ませた対局の検討の最中に、緒方の胸の内ポケットの携帯が一瞬震えた。
 ほんの一秒ほどのその震えにはまるで興味を示さないように、緒方は一度打った石をいくつか回収して、別の手の検討を始める。
 一通りの解説を終えて、隣にいた芦原へと席を譲った後で、彼は部屋の隅へと移動する。
 胸のポケットから取り出した携帯は、メールの着信を表示していた。
 送信者は『ヒカル』。

 ――『今、二階の売店。ロビーの方で待ってる。』

 少々待たせてしまったか、と思った。だがそれも覚悟の上だろう。じきに検討会も終わる。
 ふたたび携帯をしまう緒方の様子を、アキラは横目で興味深そうに眺めていた。操作の手順から考えるに、着信したメールを眺めていたのだろうと判断できた。
(めずらしい……)
 緒方が誰かと携帯でメールのやり取りをする姿というのを、アキラはこれまでに見た事がない。
 電話での会話ではついつい長話になっても、メールならば一言で用事が済む、といって頻繁に使用するケースもあるが、緒方の場合は電話でも一言で済む。むしろ言葉で済む事をいちいちコツコツと打ち込む作業の方が馬鹿らしいと考えるところだろう。パソコンを使ってのやり取りならばまだしも。
 もっともこの時点でアキラは知らないが、緒方の場合は携帯メールはほとんど対ヒカル着信専用に近い。ヒカルの方から用事のある時にメールを受け取り、何がしかの返答がある場合は、緒方はメールは使わず電話をかける。ある意味緒方らしいやり取りなのだろうが。

 どういう心境の変化なんだろうな、と漠然と考えながら、アキラは緒方へと近寄って行った。
「緒方さんは、これから予定はありますか? とりあえずどこかで食事でも、という話も出ているんですけど……」
 そんなアキラの言葉に、緒方はふと口許に手を当てた。
「ああ……すまない、アキラ君。今日はこれから約束があってな。一緒できないんだ」
「そうですか……残念だな」
 アキラにとっては、緒方は歳の離れた兄弟のような存在だ。共にいるのは楽しいし、色々と実になる事もある。今日はせっかく久しぶりの会合であったから、これからすぐに別れなければならない事には、あからさまに落胆の色が伺えた。が、アキラは普段から他人の行動を尊重する質のデキた子供だ。緒方に対しても無理強いはしないし、詮索もしない。
「また今度な」
 そんなアキラの肩にポンと手を置き、軽く笑みを浮かべる緒方に、アキラも静かに微笑みを返して頷くのだった。




「緒方先生!」
 エレベーターから出てきた緒方の気配を感じて、ヒカルはヒョイと顔を上げた。
 トトト、と緒方に駆け寄る。
「待たせたな」
「ホントだよ! もう来ないかと思った」
「んな訳ないだろうが」
 呆れたような顔で言うヒカルの頭を、緒方は軽く小突いた。
 検討会の時間は大体決まっているし、それが終われば緒方はここを通らなければ棋院の外には出られない。けれど、ヒカルが言っているのはそういう事でもないのだろう。
「それでどうするんだ? 俺の家で良いのか」
「うん。……あのさあ」
 課題があるんだ、とヒカルは呟いた。
 週末に向けて、ヒカルのクラスでは小テスト風の課題がいくつか出されていた。高校を受験しないヒカルでも、やはり学校に出てきた時くらいはとそれを課せられてしまった訳だが、提出期限は他よりも甘いものになっていた。けれどせっかく週末に緒方と会うのだから、この機会にチャッチャと済ませてしまおう、という目論見があるのだろう。
「ちょっと、見てくれないかなあ?」
 へへへ、と取り繕うように笑うヒカル。
 正直、学校を休む事が多いヒカルにとっては勉強はどれもこれも理解不能に近い。というか、心底理解不能だ。
「見てやるのは構わんが……代わりにやってはやらんぞ」
「ちぇ、わかってるよ」
 もとより、そんな事をこの緒方には期待していないヒカルである。

「進藤……!?」
「えっ?」
 背後からの声に二人が振り返ると、そこには目を見開いたアキラの姿があった。
「あれ、塔矢じゃん」
 パカ、とアキラと同じく目を見開いたヒカル。だが、それとは対照的にアキラの目は次第に据わってくる。
「何故君が、ここにいるんだ?」
「は?」
「君が、緒方さんの約束の相手、なのか!?」
「え?」
 ツカツカと歩み寄るアキラに、慌ててしまうヒカル。
 アキラの質問に返事をするとするなら答えはイエス。だが……。
「な、なに怒ってんだよ」
「何故君が緒方さんと一緒にいるんだ?」
 ――何故、と言われても……。
 アキラは、緒方とヒカルの関係を知らない。そんなアキラがこんな風に怒っているという事は、もしかして、自分のお兄さん的存在の緒方が自分と一緒にいるのが気に入らない、という事なのかとヒカルは漠然と思い付いたが……。
「緒方さんが、君なんかと……!」
「君『なんか』ぁ!?」
 アキラの一言に、今度はヒカルがキレてしまう。
「何でお前にそんな事言われなきゃなんねーんだよ! 俺が緒方先生といるのがそんなに悪ィかよ!」
「悪いね!」
「テメ……ッ」
「こらこらこら!」
 クワッとアキラに掴み掛かりそうになるヒカルを、緒方は後ろから押さえつけた。大きな手でふさがれたヒカルの口から、モガモガと言葉にならない声が漏れる。
 少しは人目も気にして欲しい、と、緒方は常々この二人に対しては嘆息の思いなのである。自分がいながらここでこれ以上騒ぎを大きくしたくはなかった。
「アキラ君、後で連絡するから」
 これ以上はカンベンしてくれ、と暗に匂わせながら、緒方はヒカルをズルズルと引きずり出した。
「緒方さん……!」
 アキラはそれでも何かを言おうと手を伸ばしかけるが、こうなると緒方がもう何も言ってくれないのを良く知っているから、それ以上の口出しはできなかった。
 一方ヒカルは、緒方の手を振り解こうと全身で暴れる。
「緒方先生ッ!」
「落ち着けよ、進藤。手間掛けると課題見てやらねーぞ」
「うッ……」
「わかったら行くぞ」
 やいやいと何事か言い合いながらひとかたまりになって棋院を出て行く二人を、アキラはただ呆然と眺めながら、立ち尽くすしかなかった。




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