UP20020820
君ヲ想ウ
1 ― 佐為
――おもいで。 出逢った時から、数え切れぬほどの昼と夜とを過ごして どれほどの時間を、あなたと私は過ごしてきたのだろう。 無邪気なあなたに影響を受けながら、私がどれほど変わっていった事か。 囲碁の知識も、この心さえも。 あなたが私を、この時代で導いてきた。 一泊二日で行われた観光ホテルでの囲碁ゼミナールからの帰路につきながら。 朝の新幹線の中で、ヒカルは眠りに就いていた。さんざん参加者を相手にした後で、朝方まで緒方と対局していた彼は、疲れきっていて目覚める様子もない。 ヒカルの傍に控える佐為もまた、静かに目を閉じていた。 実体のない佐為には、本当の意味での眠りは必要ない。しかし、これまでも彼は良く、ヒカルに合わせるかのように一緒に眠っていた。どうせヒカルが寝ている時は何もする事がないのだ。 そうして佐為も、夢を見ていた。 普通に見る夢とは、少し違う。 ヒカルと同じように意識を閉ざす事で、いつもは見る事のできない、離れた場所の光景をその目にする事ができたのかもしれない。 そこは、早朝までヒカルのいた、囲碁ゼミナールの会場。 佐為はその場の喧騒を、感覚だけで見つめていた。 会場を見回しながら、その場にいた人間に何事かを訪ねる緒方がいた。 クスリと、佐為は微笑む。 ――ヒカル。彼があなたを探しているようですよ。 昨晩、自分が佐為を相手に対局していたなどとまったく知らない緒方は、ヒカルに何事かを問い質したいのかもしれない。 ――逃げてばかりで、すみません。 佐為は、届かない想いを緒方へとぶつける。 目に見えないものを信じるという事は、不可能ではないけれど難しい。だからヒカルは、佐為のことを誰かに対して口にしない。けれどそれでも誰かと対局したいという佐為の願いのために、ヒカルは嘘をつき続けた。だから、逃げるしかなかった。 ヒカルに囲碁の楽しさを執拗に教えたのは佐為自身。 ヒカルがその事で囲碁に対して情熱を持ちはじめたのは、佐為にとってはこの上ない喜びであると共に、大きな計算外でもあった。他人との対局が減り、ヒカルとの対局だけが数を重ねはじめてから、その事に気付いた。そして、そんなヒカルとの対局すらかなわないことも、多くなってきて。 『ヒカルはどう?』 いつか佐為は緒方に対してそう呼びかけ、彼がヒカルの実力に目を見張るという事実に、喜びを覚えた。それと同時に、囲碁界の若手トップである彼と、自分も打ちたいという想いが叶わないもどかしさも感じて。 こんなに近くにいる人間にすら、届く事のない己の声。 哀しさと、不安は膨れ上がるばかりだった。 ――この者と、ちゃんと打つ機会はもう持てまい。 そう思ったのは、幾人かが持つヒカルに対する不信感をこれ以上強くしないように、というだけではない。 佐為自身に降り積もる、どうしようもない確信。 佐為の予想を越えて伸び行くヒカルに対して、未来のない自分自身。 多分もう、ここには長くいられない。 多分、もうすぐ自分は行くのだろう。 静かに、佐為はその瞳を開いた。 目の前に広がる、新幹線の座席が並ぶ光景。隣には瞼をおとしたままのヒカル。 佐為はそっと、ヒカルの髪に指で触れた。眠るヒカルは、それに気付く様子もない。 実体のない――己の指。 我が侭を言いましたね。何度も、何度も。 いつも、あなたを困らせた。 自分で命を断ち切ったこの魂が、千年の時を過ぎ。 その間に秀策となり、その後、あなたと巡り会った。 こんな風に永遠とも取れるような時を過ごしていながら なにひとつ、己の手では触れる事さえも、かなわない。 意思があり、魂は生きているのに。 与えられていない未来に、絶望した。 あなたの持つ未来がまぶしすぎて、見失っていたのです。 この魂が長らえたその事こそが――たったひとつの、奇蹟だったのだと。 ヒカル。 巡り逢ってからずっと、片時も離れず、想いを分かち合った少年。彼だけがこの姿を目にし、この声を聞き。 時にぶつかり合い、そして励まし合いながら、同じ時を歩み続けてきた。 それでも、自分には与えられていない『時間』という概念の中を、その足で歩むことのできる彼を、羨望と嫉妬とが入り混じった眼差しで見つめ続けながら。 自分ではなく、彼が、彼だけが。 自分が持つことのできない決定的な何かを当たり前のように所有する彼を、どれだけ羨ましいと思った事か。 そうして何よりも、どれほどに、愛おしかった事か――。 嫉妬の念に狂いそうになりながら、それ以上に己の心を震わせた、強い強い思い。 ヒカルと、別れたくない――。 だって自分以外に、誰がヒカルを高みへと導いてやれるのか。 誰が、彼の迷いや不安を受け止めてやれるのかと。 けれど、それは違った。 いや、杞憂だったと喜ぶべきなのかもしれない。 ヒカルの周りには、今や沢山の人間がいる。自分が育ててきたヒカルを、この先はそういう人間達が導いてくれるだろう。ある時は先導し、ある時は追い上げながら。 認めたくなかった。 けれど、今ならわかる。 ヒカルを導き、彼の持つ神の一手へと届く素質を高みへと引き上げる。それが、この世に留まった自分の役目だったのだと。自分が自由に囲碁を打つために与えられた、秀策との時間でさえ、いまこの時代にヒカルと出逢い、彼を高みへと引き上げるために用意された、重要な布石のひとつだったのだと。 そして、自分の役目は終わった。 一年後だろうか。いまこの一瞬後かもしれない。 役目を終えた自分は、ヒカルのもとを離れなければならない。 自分がいなくなったら、ヒカルはどうするのだろうか。きっと大慌てであちこち探し回るに違いない。そんな光景が、容易に想像できてしまう。 ――ごめんね、ヒカル。 でも大丈夫。ヒカルはきっと大丈夫。 アキラがいる。仲間がいる。そしてきっと、彼が。 これは、予感。 どれほど迷った時でも。時に壁にぶつかるような事があっても。 これまでに出会った彼らが、自分がいなくなった後、ヒカルを導いてくれるだろう。 消え行く前に、言葉を届ける事ができるだろうか。 ヒカル。出会えた事が、嬉しかった。 夢を引き継いでくれて、ありがとう。 永の時をかけて夢を叶える事など、普通に生きていれば、できようもない。 だから、その夢が大きければ大きいほど、受け継いで行く、次の世代が必要なのだ。 ヒカルですら、その高みには届かないかもしれない。その時には、また別の誰かに受け継がれて行くのだろう。そうやって、夢への軌跡はその跡を色濃く残して行く。けれど確かに、自分の時間は、間違いなくヒカルのために存在した。 そうして自分が消えた後も。ヒカルはここで、生きて行くのだ。 今は、安らかな気持ちでそんな未来を思う事ができる。 ヒカルと出会えた、幸福を。 あなたと逢えて、良かった。 伝えられるだろうか。 あなたと過ごした時間。とても、とても――楽しかった、と。 秀策となり、のちの時代への軌跡となるべき布石を残して。 そして神の一手へ。 それに近付くあなたを導くために。 かつて生に絶望した私に。 それは、神が与えた奇蹟だった――。 |