UP20020820

君ヲ想ウ

2 ― 現のごとき夢





 五月、ゴールデンウィーク。
 この時期のプロ棋士は、何かと忙しい。緒方も例外ではなかった。
 今日も一日研修センターでの囲碁入門講座の講師を任されていたし、明日は高級ホテルでの囲碁祭りの仕事が入っている。
 同じ会場での仕事が入っているヒカルが、ついでだからと緒方の家に泊まりに来ていたが、お互い疲れているので早々に寝に入る事にした。ヒカルは明日の囲碁祭りの中で初心者向け囲碁教室の指導が入っていたし、緒方にいたっては中学生までの子供を相手に百面打ちという大変な仕事が待っている。日帰りなのが、せめてもの救いといったところか。

 浅い眠りの縁で。
 ヒカルが何かを呟いたような気がして、緒方は隣に眠る彼へと視線を向けた。
 こんな風に、時々眠りを共にするようになってから、しかしヒカルが眠りの中で何事かを口にするのは、初めてのような気がする。
 誰かの名前のようでもあったが、よく聞き取れなかった。けれどそれは、良く知っているはずの名前。良く耳にしていたはずの――。
 けれど襲い来る睡魔に勝てずに、緒方は再び、瞳を閉じた。




 夢なのか、これは。
 ぼんやりとそこに立ちながら、緒方は思う。
 夢の中にあって、それを夢だと自覚する事は、通常あまりない。が、現実味の薄い、微妙な空間。ここに立って、緒方はこれが夢であると、何となく感じていた。
 徐々に、ぼんやりと霞のかかっていた景色がハッキリと形をあらわす。
 見慣れない風景。
 薄闇にまぎれようとしているかのような今は、夕刻なのだろうか?
 その風景の中に、というか、己のすぐ隣にヒカルの姿を見つけて、緒方は驚いた。
「進藤?」
「あれえ、緒方先生?」
 ヒカルも、緒方の姿を捉えて目を見開く。
「なんか、リアルな夢だなあ」
 ぼんやりと呟くヒカル。やはりこれは夢か。そう思いかけたが、自分の夢の中に出演しているヒカルが「夢だ」などと呟くというのも変な話だ。しかし夢なら、何でもありだし。あまりにも夢特有の現実味の無さが欠落しているというか、現実にその場に立っているという実感がありすぎるのが妙な話だが。
「はは、夢の中に緒方先生が出てくるのって初めてだ」
「夢? お前の夢か?」
「うん」
「これは俺の夢だ」
「俺のだよ」
 なんだか良くわからない会話。緒方の夢の中にヒカルが? それとも逆? まさか同じ夢を同時に見ているとか。そんな、非現実的な。しかし、真相のほどはわからない。どちらにせよ、緒方にとってはこれが自分の夢である事は疑いようもない……筈なのだが。
「たまに、こういう事があるんだよね、俺。これは夢だって、自分でわかるんだ。前の時も……」
 そんな事を呟いて、ヒカルは口を閉ざした。
「ところでここ、どこ?」
「……さあな」
 とりあえずは、これがどちらの夢であるとかいう事はどうでもいい。どうせ夢は夢だ。それよりは、その夢の中で自分たちの立つここがどこなのか、という方が気になる。

 舗装されていない道。
 立ち並ぶ家々の軒先。どれもこれも古びている。というか、それらはまるで馬小屋か物置のようだ。
 どこの田舎町でも、ここまで古風な街の作りは、見た事がない。電柱のひとつも見当たらないのだ。どこかで見た事があるとすれば、まるでどこぞの時代劇のセットの中に紛れ込んだかのようだが、それともちょっと違う。
 シンと静まり返ったその場に立つのは、ヒカルと緒方の二人だけだ。人っ子ひとりいない。ひとつの街の風景の中にあって、それも妙な話だ。が。
 ふと、あたりが先程よりも若干明るくなっている事に、緒方は気付いた。
 もしかして。
 夕刻ではなくて、夜明け前?

 ガタン。

 突然の物音に、ヒカルと緒方は飛び上がらんばかりに驚いた。
 思わず身を竦ませながら、即座に音のした方向へと振り返る。
 何気ない仕草で古びた木戸から身を出した和装の中年女性が、こちらを凝視していた。決して華美とは言えないその装束は、どこかで目にした事がある。
 突然の人間の姿に、呆然と声を上げる事もかなわなかった二人だが、一方こちらを見つめ続ける女性の瞳は、見る見るうちに見開かれていった。それが一瞬後には、恐怖におののくように歪む。

「お、鬼――――ッ!!」

 ええ!? と思う間もなく、女性は木戸の内側へとその身を隠した。ガタガタとたてる音のけたたましさが、慌てふためく彼女の心情を如実に伝えてくる。
「あ、あんたァーッ! 物の怪が、外にいるよぉ――ッ!」

 ……物の怪だってェ!?

 それが自分たちの事を指しているのだと二人が認識するまでに、数秒の時間を要した。
 そしてその数秒は、状況を悪化させるためには十分すぎる時間だったのだ。
「物の怪だァ!? どこだどこだ!?」
 起き抜けらしい強持ての男が、それでもまなじりを釣り上げてその身を乗り出してくる。その手に握られているのは……農耕用のクワだ。
 ガタガタと、あちこちの家から音がたちあがる。
 この状況は……。
「し、進藤……。説明しろ。一体何が起こった?」
「俺に聞かないでよ……」
「ていうか、逃げるぞ!!」
 咄嗟の判断で、緒方はヒカルの手を取った。
 何が何だかわからないが、ここで追いかけられてクワを振り下ろされたら、かなりシャレにならない事態になるような気がする。夢とはいえ、それは絶対に避けたい。
 緒方はヒカルの手を引っ張って、彼らと逆の方向へ踵を返した。
「進藤、前を走れ!」
「て……ど、どこに行くのさ!?」
「どこでもいい! ここを離れろ!」
「そんな事言ったって……」
 しかし、とにかく走り出すしかない。大人数にクワで襲われたりしたら、ホラー映画の如くスプラッタは間違いナシだ。
 突如、緒方は背中に鈍い衝撃を感じた。
 一瞬後に、鋭い痛みが走る。
「……ッ!!」
 石だ。
 視界の端に、次々と石を拾う人々の姿が映る。
「くそ、冗談じゃないぞ……!」
 そもそも夢というのは、痛みを感じないものなんじゃないのか!?
「ちょっと緒方先生、大丈夫!?」
「いいから走れ!」
 ヒカルに前を走らせて正解だった。この小柄な身体に石なんかを投げつけられたらと、考えただけでもぞっとする。
「鬼――ッ! 鬼がいるよ――ッ!!」
 後方で喚き散らす声。
 どうしたら……。
「どこか道を折れて、路地へ入れ!」
「わ、わかった……」
 緒方の言葉に、先を行くヒカルは適当な場所で進路を曲げた。
 側方に、雑木林が見える。
 咄嗟に二人は、その林の中に身を潜り込ませた。ガサガサと、低木や篠の間を突き進む。無我夢中でそれらを掻き分ける二人の身体に、その枝や葉は容赦なく刃をつきたてた。
「チッ……かなわんな」
 何がどうしてこんな目に……。大体、人の顔を見るなり鬼だの物の怪だのとは何事だ。
 しかし今は、そんな事を考え込んでいる場合ではない。

 突然、視界が開けた。
「げ……」
 遮るもののなくなった視界で、目の前に鎮座するのは……小さな屋敷だ。
 ヤバイ……。
 ただの雑木林だと思っていたそこは、どうやらどこぞの誰かの屋敷の敷地内だったらしい。
「まずいぞ進藤、ここでまた誰かに見られたら……」
 囁いてから、緒方は慌てて口をつぐんだ。
 誰かいる。
 ギリギリあちらからは死角の位置になっているが、目に見える場所に佇んでいる人影があった。早朝だというのにキチンと装束を整えたその人物は、屋敷の中からぼんやりと庭を眺めている。昔の貴族のような、時代が勝ちすぎた装束だと、考えを及ばせている余裕もなかった。ここでまた誰かに姿を見咎められたら、再び武器を取って追われるのは必至だ。もう、これ以上不条理な追いかけっこをするのは御免被りたい。
「進藤、下がれ……」
 小声で言いかけて、緒方は仰天した。
 ヒカルが、ふらふらとその場から歩み出していたのだ。
「進藤……!」
 見つかる、と小声で訴えても、ヒカルの耳にはまるで届いていない。見開いたその瞳は、目の前に立つ人物にまっすぐに向けられていた。

 あれは。
 あそこに立つのは。


「佐為……」


 ヒカルは、呆然と呟いた。
 忘れ得ぬ、その姿。
 そこにいたのは、紛れもない懐かしい人物――佐為その人だった。
「佐為……佐為!!」
 ヒカルは我を忘れて駆け寄る。
「バカ! 進藤!!」
 そんなヒカルを追いかけて、緒方もそこを飛び出した。

「!?」

 その場を飛び出したヒカルと緒方の姿に、振り向いた佐為は一瞬驚愕の視線を向けた。
 ――何やってんだ、このバカ!!!
 気付かれて当然の状況に、緒方は舌を巻く。
「さ、佐為!!」
 駆け寄ったヒカルに、しかし佐為は、気を取り直したように優しげな視線を向けた。
「これはこれは……ずいぶんと可愛らしい物の怪ですね」
 それ見ろ、といわんばかりに、緒方は額に手を当てる。何のためにここまで逃げてきたのかわかりゃしない。
 しかし佐為は、慌てて武器を取るような行動には出なかった。
「物の怪じゃないよ! 俺だよ、ヒカルだよ!! 佐為!!」
「私の名を、ご存知なのですか?」
「何言ってんだよ! 俺だってば!!」
 目の前で叫ぶヒカルの口許に、佐為はそっとその手をかざした。
「そのように大きな声をたてては、誰ぞに見つかってしまいますよ。静かに。こちらにお上がりなさい」
 佐為の手が、ヒカルの手を掬い上げて屋敷の中へと促す。呆然とその光景を見守っていた緒方をも、佐為は視線で促した。
 取り乱していたヒカルは、まるで冷水をかけられたように目を見開いて、言葉を失う。
「篠にやられたのですか? 随分傷がありますね……。何もない屋敷ですが、何か薬を探して持ってきましょう」
 傷だらけのヒカルの手を見た佐為は、ヒカルの目の高さまでかがみ込んで、痛ましそうに目を細めた。
「さ、佐為……!」
「進藤!」
 思わずヒカルを押し留める緒方。そんな二人を尻目に、佐為は静かに立ちあがると「お待ち下さいね」と言い置いて部屋の奥へと姿を消した。
「佐為……」
「しっかりしろ、進藤! 何なんだよ一体!」
 強引にヒカルの肩を掴んで自分の方へと向かせた緒方だったが、ヒカルは完全に取り乱したままその腕を強く掴んだ。
「お、緒方先生、佐為が……佐為がいる……。生きてる。お、俺の手、触った……」
 立って。歩いて。佐為が動いて、床が微かにきしんだ。佐為はそこに『いる』のだ。
「落ち着けよ。なんであいつをお前が知ってるんだ。佐為って何だよ。……佐為?」
 佐為――sai?
 まさか。まさか?
「どうしよう、緒方先生。佐為がいる……!」
 ヒカルは、完全に混乱している。
「落ち着けって! いいか、進藤。これは夢だ。最初にお前も、そう言ったろうが」
 これは、夢。その夢の中に、ヒカルの知っている佐為という人物が出てきた。つまりはそういう事だと、緒方は自分を納得させた。そしてヒカルは、その事にひどく狼狽している。何故かと訊きたいのはその辺だ。
 そして先程の人物が――あのsaiなのかという事も。
「……ゆめ?」
「そうだ」
 夢……。
 ヒカルの肩から、ふいと力が抜けた。
「夢……そうだ、夢だよ。前もそうだった。こんな風に、まるで現実みたいな夢の中に、佐為が出てきたんだ……」
 でも今目にした佐為は、最後に夢に出てきたあの時以上に、ちゃんとそこに実体があって動いている。生きている。
「おい。sai……なのか?」
「……」
「進藤!」
「そう……sai……」
 未だ呆然としたまま、焦点の合わない瞳で呟くヒカルの肩を、緒方はこれまでになく強く掴んだ。
「話せよ、進藤。saiって誰だ? 今の奴は何だ? 一体どうなってんだ」
 sai。
 どういう人物なのだろうかと、緒方はこれまでにも人並みに想像したりした。しかしその人物像は、思っていたのとはあまりにかけ離れている。あんな風に時代の勝ちすぎた人物を見て、迷いもせずに佐為だと言ったヒカル。少なくとも緒方は、saiという人物は普通の現代人だと思っていた。
 一体彼は、何者だ?

 緒方のまっすぐな眼差しを受けて、ヒカルの瞳は揺れた。
 佐為。
 話してもいいだろうか。
 そう、だってこれは夢だし。ここには佐為もいる。今なら、全てを緒方に話してしまってもいいんじゃないだろうか。
 ヒカルは、ぼんやりとした頭で考えた。
「佐為なんだ……あれは……」
 呟いたヒカルに、緒方はその肩を掴んだ手を、思い出したようにそっと緩めた。




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