UP20020820

君ヲ想ウ

3 ― 発ち行く君に





 要領を得ない様子で捲し立てるヒカルの言葉を上手に拾いながら、しかし緒方の頭の中は混乱を極めていた。何にかといえば、ずっと闇の中だったsaiとヒカルの馴れ初めと、その関係に。
 この夢の不条理さなど、話にならないほどに。
「平安の都に生きていた帝の囲碁指南役の魂が、進藤の中に、宿っていた?」
 そしてヒカルに囲碁を教え、共に打っていたと? そしてプロになるまでを導き、その後姿を消した!?
 そんな馬鹿な話があるか!
「緒方先生、信じてよ」
「無茶言うな……」
 まるでおとぎばなしではないか。
 しかも彼は、あの本因坊秀策でもあったと?
 バカバカしいにも程がある。
 しかしそうだ、これは夢だと、自分で言ったのではないか。
 けれど。
 これが自分の夢であるなら、自分の深層意識の中で、こんな突拍子もない事を無意識に考えていたという事なのだろうか。そんな馬鹿な。
 緒方の夢? それともヒカルの夢に、緒方が迷い込んでいる?
 もう、何がなんだかわからない。
 けれど、ヒカルの話をかみ砕いてみれば、全てにおいて合点が行く。アキラを打ち負かした小学生の頃のヒカルの打ち筋、そしてその後の、むらのありすぎた強さにも。時々ヒカルが妙な独り言を言っていたのも、緒方は知っている。
 それらがすべて、ヒカルの背後にいたsaiのせいだというのなら。
「緒方先生!」
 必死の形相で訴えてくるヒカル。
 バカバカしい話ではあるが、だからこそ、ヒカルがこんな事で嘘をつく人間ではないと、緒方は良く知っている。
 ここは彼を、信じてやるべきなのではないか。
 緒方は微かに息をついて、ヒカルの頭をクシャリとかき混ぜ、ポンポンと軽く叩いた。何も言葉にしなかったが、ヒカルにはそれだけで通じたらしい。緒方が信じてくれたのだと確信して、ふっと肩から力を抜く。
 緒方は、混乱する頭で必死に考えをまとめた。
「つまりが、その佐為とやらが今ここで生きているというのなら、ここは平安の時代、という事になる訳だろう?」
 珍しくたどたどしい緒方の言葉に、ヒカルは今はじめて気付いたかのように目を見開いた。
「……そう、か」
 先程見た事があると思った女性の装束は、歴史の教科書やらどこぞのテレビ番組やらで見たのではないか。そうだとするなら、見た事も無いような妙な格好をした二人が物の怪呼ばわりされるのも納得が行く。それに、佐為がヒカルを知らなかったという事も。
 ここが、佐為の生きていた平安の世であるなら。
 けれど、いくらなんでもリアルすぎる夢のような気がする。
 とはいえ、これが夢ではなく、実は二人揃ってタイムスリップでもしたのだ、などとイカれた事は考えたくはなかったが。

 しかし。
 ――藤原佐為。
 その存在を落ち着いて考えると、何とも複雑で不可思議な心情に包まれてしまう。
 運命とか人の縁というのは――希有なものだ。
 様々な人との繋がりがあって、それが複雑に絡み合って、今の緒方とヒカルがある。しかし、一番最初のきっかけは、佐為だ。佐為がいなければ、何も始まらなかった。
 その佐為が何故ヒカルのもとに降臨したのかと考えれば……ヒカルに、それだけの器と可能性があったからに他ならない。他の誰でも、こんな未来は用意されていなかっただろう。
 ヒカルでなければ駄目だった。
 けれど、佐為がいなければ開花すらありえなかった。
 だが、それだけでも足りない。ヒカルの手を引き上げた、すべての人間。誰が欠けても、今のこの状態にはならなかった。
 置かれた石と石の間に打ち込む、それらと同じ色の継ぎ石のように。
 人の歩む道は、盤上に繋がる石に似ている。そこにひっそりと置かれていた『佐為』という大切な石を、緒方は今はじめて知ったのだ。
 まるでそう、彼――佐為自身が、神の一手そのもののように。
「奇妙なもんだな……」
 とても信じられない。けれど、真実。
 緒方は天井を振り仰いで、軽く首を振った。
「……あん?」
 その視界の端に、緒方は見慣れたものを捉える。
「……碁盤?」
 緒方が普段見ているものとは多少違うが、隅に無造作に置かれているのは確かに十九路の碁盤だった。そこにはいくつかの石が打ち込まれ、打ちかけの状態になっている。
「佐為が……打ったのかな?」
 ヒカルもそれに気付いて、そっと近付く。
 確かにそれは、佐為が打ったであろう石の形だった。非の打ち所のない、隙のない布石と手筋。ヒカルが以前、毎日のように目にしていた形。緒方にもわかる。はっきりと見覚えのある、ネット上でのsaiの打ち筋だ。
「見事なもんだな」
 この一局からは、黒も白も相当の技量の持ち主である事が見て取れた。
「うん……すごいんだよ」
 自分なんか、及びもつかない。なのにそんな佐為が碁盤に向かうのを邪魔していた事を、随分後悔したっけ。それで、緒方も困らせた。

「先日打った対局なのですよ」

 突然の背後からの声に、二人は飛び上がった。
「さ、佐為!」
「すみません……お話が込み入っていたようなので、そちらで待たせて頂いたのですが、驚かせてしまったようですね」
 はんなりと、申し訳なさそうに微笑む佐為。
 ずいぶんと綺麗な青年だ、と、緒方はあらためて思った。何故か世を儚んでいるような、どこか翳のある表情が、なおそれを引き立たせているのかもしれないが。
「佐為、聞いていい? ここは平安の都なのか?」
 今の佐為がヒカルを知らなくても、ヒカルにとっては佐為は旧知の仲だ。昔に戻ったように、至って普通に訊ねてしまう。しかし佐為の方は、その事はあまり気にしていないようだった。物の怪だと思っている少年を相手に、度胸が据わっている。
「都……ですか。ここからそう遠い場所ではありませんが……今の私にとっては、とても遠い存在のように思えます」
「……佐為?」
 哀しそうに、佐為は微笑んだ。
「私は都を、追われてしまった身なので」
「……!」
 今の今までヒカル達は知らなかったが、佐為はつい昨日、この古びた家にやってきたばかりなのだ。
「佐為」
 それは。
 それでは、この碁盤の上に並べられた石は。
 無実の罪をきせられて敗北したという、あの一局の?

 ――佐為。

「佐為、だめだ! ……!?」
 咄嗟に叫びかけたヒカルだが。
 突然に霞のかかり出した佐為の姿に、驚愕した。
 一寸の予告もない、その人の消失の予兆。
「佐為、佐為!? なんで? どこ行くんだよ。消えるなよ、佐為!!」
「おい、進藤!」
 手を伸ばすヒカルを押さえながら、緒方は感じた。
 ちがう。
 彼がここから消えようとしているのではなく、自分たちがこの空間から消失しようとしているのだ。霞がかかっているのは佐為の姿だけではなく、風景全体がノイズがかかったかのように歪み乱れている。
 これは、目覚め? なのか?
「進藤!!」
「佐為――ッ!!」
 ヒカルの叫びは、しかし先程までいた場所の空気を揺るがす事はできなかった。

 ほんの一瞬の――逢瀬。




「……?」
 突然に姿を消してしまった二人のいた場所をぼんやりと見つめて、佐為は一度、瞬いた。
「どこへ……?」
 見回してみても、不思議な二人の姿は、もうどこにも見当たらない。やはり彼らは鬼か物の怪だったのだろうかと、考えを巡らせる。
「……」
 佐為は、そっと瞳を閉じた。
 この世の見納めは、やさしげな魔物であったか。

 美しい瞳の、二人だった。
 もう生きて行く術を持たない自分を、彼らは迎えに来たのだろうか。あんなに綺麗な瞳を持った鬼が導いてくれるのならば。
 これから行く己の旅の道行きも、きっと安らかなものとなるだろう。
 佐為はそっと、打ちかけの碁盤に視線を巡らせる。
 それでも本当は、諦めきれなかった。
 神の一手。
 それを己の手で極める事を、人生をかけた願いとしていた。
 けれどもう、それは叶わない。
 もっともっと、碁を打っていたかった。
 せめてあの時の対局を、美しい一局として、打ち終えたかった――。

 打ちたい。打ちたい。素晴らしい、一局を。あの一手を。
 我が侭かもしれない。今更かもしれないけれど。
 ねえ。あなたは導いてくれるのでしょうか?
 神の一手に続く、その道程へと――。




「佐為、佐為……」
 景色の消えた空間で呆然と呟くヒカルの肩を、緒方は強く揺さ振った。
「進藤!」
「だって、佐為が死んじまう! 駄目だって言いたかったのに。止めたかったのに!」
 佐為がその命を自ら絶ったのは、都を追われたその二日後。このままでは、佐為は。
「無駄だ」
 緒方の一言に、その腕を掴んでいたヒカルの両手が静止した。
「緒方先生……」
「彼がこの世に未練を残して死ななかったら、お前たちはそもそも出会ってないんだろうが。それを止めたりしたら、俺たちの過去に矛盾が生じるだろ」
 それに多分――やはり、どうやったって歴史は変えられないものなのだろう。過去は、過去でしかないのだ。人は、過ぎ去った時間を操る事はできない。
「でも、だけど」
「進藤」
「それに俺、佐為に言わなきゃいけない事、沢山あったのに。伝えたい事が、山ほどあったのに……!」
 言えなかった事が、沢山あった。もう一度、佐為に逢いたかった。
 叶ったのに。目の前に、いたのに!
「たくさん、ごめんって。ありがとうって。嬉しかった、楽しかったって……お前と出会えて、良かったって――!」
「進藤……」
「なんでいつも、言えないんだよ――!!」

 ヒカルが叫んだのと同時に、あたりを眩しい光が包み込んだ。
「!!?」
 まるで強い風が濃霧をなぎ払うかのように、サアッと空気がかき流される。
 二人は、息を呑んだ。

 彼らの目の前に、先程とは別の風景が、また現れたのだ。




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