UP20020820
君ヲ想ウ
4 ― 幻想異聞
ふわりと、梅の花の香りが鼻をくすぐった。 「…………」 しばらく二人は、呆然とその風景を眺めていた。 今度は、どこだ? 夢の中から抜け出した訳ではないらしい。これも、先程までの続きなのだろうか? 二人が立つこの場所は、やはり見覚えのない場所。どこかの敷地内である事は見て取れたが、しかしその規模が広大すぎる。先刻まで見ていた、佐為のいた屋敷とは比べ物にならない。 梅が見事に咲き誇る広い中庭に、それを取り囲むような美しい作りの廊下。廊下がこれだけ長いという事は、一体屋敷全体はどれだけの広さになるのだろう。見当もつかない。 しかしこんな作りの建物も、やはり歴史関係の本で幾度か目にした事がある。 どこぞの平安貴族の屋敷? それにしても、でかすぎる。 「歴史探訪かよ……ったく」 一体何だというのだ。 「俺達、どうしちゃったのかな」 「さあな」 戸惑うヒカルの言葉にも、緒方は曖昧な返事しか返せない。しかしやはり、誰かに見つけられたら事のような気はする。こんな風に廊下に面した中庭にいるのはまずいのではないかと、緒方は考えた。 が、遅かった。 こちらを凝視する、人の気配。 「……あ……」 先刻よりも、状況は悪い。こんな大きな屋敷の中で騒ぎになったら、今度こそ命が危ない。夢だ夢だと自分を納得させてきたが、少なくともこの夢は、石が当たれば痛いのだ。弓で射られでもしたら、もっと痛い。 恐る恐る、二人はこちらを見つめる人物の方へと視線を向けた。 「……!?」 「……さ……ッ」 佐為。 またしても、佐為。 「さ、佐為! どうしてここにも佐為がいるんだ!?」 思わずヒカルは、大きな声をたてて廊下に立つ佐為を指差してしまう。またしても、緒方が止める暇も無かった。行く先々に彼がいるのだから、混乱するのも無理のない話だが。 「なんで……!?」 しかし目の前の佐為は、瞳を大きく見開いて、こちらへと寄ってきた。 「ひか、る? こんなところで何をやっているのですか?」 「!!?」 ひかる。 確かに佐為は、その名を呼んだ。 平安の時代を生きているはずの佐為が、ヒカルの名を。先刻会った時の佐為は、ヒカルの事などまったく知らなかったのに。 「佐為、俺の事、知ってるのか……!?」 「……何を言っているのです? ふざけていて頭でも打ったのですか? 早くお上がりなさい。まったくあなたは、内裏の中でそのような妙な格好をして、帝のお耳にでも入ったら大変ですよ」 内裏? 内裏だって? 帝!? 緒方は目を見張った。 「ちょっと待て、それじゃあここは、御所の中なのか?」 思わずの緒方の言葉に、佐為は心底困ったように眉間に皺を寄せる。 「緒方様? 何をおっしゃっているのです?」 緒方様ぁ!? 「何故俺を知っている? 俺は君を知らない。……はずだ」 佐為とは正真正銘今日が初対面だったし、先刻佐為と会った時にも緒方は名を名乗らなかった。ヒカルのもとに降りていた佐為ならばともかく、遠い過去に暮らす佐為が、ヒカルや緒方の事を知っているはずがないのに。それに加えて『緒方様』などという呼称で呼びかけられるいわれは無いはずだ。 「緒方様まで……おかしな事をおっしゃいますね。大体、ふたりで別室で待機しているはずではなかったのですか? 何故揃ってそのような仮装をしているんです? ……確かに今日は、つい夢中になって長い事待たせてしまいましたが……」 別室待機? 一体彼は何を言っているのだ。 「待つって誰が? 何を? 佐為、何言ってんだよ!?」 先程出会った佐為とは、別人なのだろうか。都を追われたはずの佐為が御所にいるという事は、それではそれよりももっと前の時間だとでもいうのか? それにしたって、では何故この佐為がヒカルや緒方の事を知っているのだ。 「ですから今日は、久しぶりの行洋様との対局だと言っておいたでしょうに。先ほど伊角殿や和谷殿とお会いした時にも、あなたが自ら説明していたではないですか。……本当に、頭でも打ったのですか?」 呆れたような表情を見せていた佐為が、今度は心底心配そうな顔になる。 が。 「こうようさま? 伊角、和谷!?」 ポンポンと出てくる知った名前に、ヒカルは驚きを通り越して蒼白になる。 なんだ、何なんだ。 「緒方先生……なんか、変だよ……」 「……」 緒方は、言葉を返せない。 いくら現実感があったとしても、やはりこれは夢なのだと思う他はなかった。帝のいる大内裏に緒方やヒカル、その他の知り合いと同じ名の人物がこんなにいるなどと。いくらなんでもおかしい。とても、現実に存在した平安の都だとは思えない。 けれど。だけど。 ヒカルは思った。 「佐為? ……なんだか、元気だよな?」 思わずそんな言葉が出てしまう。 目の前の佐為は、先ほど会った時の佐為とは表情からまったく違った。その顔は、ヒカルのもとに降りていた時の佐為が良く見せていた、晴れやかなそれだ。 「?? 元気ですよ?」 「い……囲碁の邪魔とか、されてないか?」 「邪魔?」 「う、うん。その、帝? の、囲碁指南役の事……とか」 ヒカルのそんな言葉に、佐為はいよいよヒカルがおかしくなったか、とばかりに袖で口許を覆った。 「その事なら、昨年にもう済んだではないですか。あなた方のお陰でしょう?」 「は?」 ……なんだって。 もう、済んだ? そのせいで佐為が入水したという事実は、どこへ行ってしまったのだ。 「佐為ー? もう対局終わったのかぁ?」 「えっ?」 「えっ?」 突然の声に、そこにいた三人は揃ってそちらに顔を向けた。 「佐為ってば。誰としゃべってんだよ」 そこに顔を出したのは。 「光!?」 「進藤!?」 「俺ェ!?」 見まごう筈も無い、ヒカル本人だった。 そこに現れた、平安の公達にも似た装束に身を包んだヒカルは、そこに迷い込んだもうひとりのヒカルの姿を認めて、目を真ん丸に見開いた。 「お、俺!? と、緒方さん!??」 「ひ、光がふたり!?」 それを交互に見た佐為が、信じられないとでも言うように両手で己の頬を押さえる。 ヒカルが口にしたいであろう疑問を、現れたもうひとりのヒカル――光が代弁するように叫んだ。 「なんで、お、俺が? 俺だよな!? どうして緒方さんまでそこにいるんだよ? その変な格好って何? だって、今の今まで、俺そっちの部屋で緒方さんと一緒に佐為達を待って……」 光は、今自分が出てきた後方の部屋を振り返った。 「近衛、何を騒いでいる?」 その部屋の中から、ヒカルも良く知っている声。 ヒカルのそばにいる緒方は、思わず顔をしかめた。 「お、緒方さん、やっぱりそこにいるよな!?」 「何を言っているんだ」 落ち着いた声の後に、さらりと衣擦れの音。やはりそこに、彼はいるらしい。 「緒方さんと、お、俺がもうひとり……ッ」 振りかえった光が言い終わるか終わらないかの時。 中庭で肩を寄せ合っていたヒカルと緒方は、突如として自分の体重がなくなるのを感じた。 えっ――。 目の前の光景が、再びブレた。体重を預けていた地面が姿を消し。 目を見張った光と、そして佐為の顔が霞む。 「ま、また……!?」 ちょっと待て、と声に出す暇も無く、その景色は急速に掻き消えた。 「そ、そんなぁ!」 訪れた暗闇の中で、落下するような浮遊するような、不思議な感覚。 「お、俺また、佐為に何も――!」 あまりの事に混乱していたヒカルは、せっかく訪れたふたたびのチャンスを、あっさりと逃してしまった事を自覚した。 あれは、ヒカルの知っていた佐為ではない。けれど、ヒカルの事を知っている佐為で、そしてどんな彼であろうとも、佐為は佐為だ。 かけられる言葉が、あったかもしれないのに! 混濁する意識を持て余しながら、己の姿さえも見て取れないような漆黒の闇の中で、しかしヒカルの手を取るぬくもりがあった。 緒方だ。 姿が見えなくても、わかる。 ぐちゃぐちゃに跳ね上がっていた心が、しんなりと静かになるのをヒカルは感じた。 騒がしかった鼓動が、ゆっくりと小さくなって行く。 「……何だったんだろう」 ヒカルは呟く。 「……さあな」 そして緒方の声。 なんだったんだろう。 ゆめ? まぼろし? 「これ、やっぱり夢かな。俺の願望から来た、夢」 「願望?」 「うん。佐為にもう一度、逢いたかったのかもしれない。忘れた事なかったから。色んな事、言いたかった」 でも結局、言えなかった。 先刻逢った佐為は幸せそうだったけれど。だけど、先に逢った佐為は。まさにあの後すぐに、永遠の安息を求めようとしている、絶望の中の彼。その先の遥か未来でようやくヒカルに出会えたというのに、ヒカルは佐為の願いを叶えてやる事はできなかった。 夢は生き続けているのだと、いつか緒方が言ってくれたけれど。 あんな風に死の淵に立つ佐為を実際に目にしてしまったら、やはり胸が詰まった。 その想いを、言葉にして吐き出してしまいたかったのかもしれないけれど。 「必要なかったよ」 「え?」 緒方の言葉に、ヒカルは姿の見えない彼を探した。 「言葉なんて必要なかった。俺はそう思う。だって彼は、その後でお前に会ってるんだから」 「でも……」 「御所にいた佐為は、幸せそうだったろう? お前がそこにいたからだよ」 「……?」 あの佐為は、とても幸せそうだった。これまで佐為を知らなかった緒方にすら、それがはっきりとわかった。それが何故かと言うなら、彼の傍らに、ヒカルの存在があったからだ。 その差は、絶対的に大きい。 けれど先に逢ったあの彼も、いつか時を越えて、ヒカルに会えるのだ。ヒカルはそんな彼をわかってやれなかったと、望みを叶えてやれなかったと言うけれど。きっと違う。ヒカルのもとに降り立った彼は、幸せだったに違いない。 ヒカルに巡り会えた、その事が。 だからそんな彼に、言葉はいらない。 「……そう? そうなのかな。どうしてそう思うのさ?」 そんな風に問うヒカルに、緒方は言葉を返さなかった。ただ繋いだその手を、ことさらに強く握っただけだった。 ――俺が一番、その事を知ってるからだよ。 大きな手のぬくもりに、ヒカルは訳もなく安堵した。 単純だけど、それで良いのかな、などと思えてきてしまう。 言いたかったけど。言えなかったけど。それでも――いいのかな……。 「でもさ……」 「でも?」 「それ以上に、緒方先生に、佐為の事知って欲しかったのかも」 「……」 たとえそれが夢の中の出来事でも。 どうして自分が囲碁の世界に足を踏み入れたのかも、そして、どうして緒方の前で涙を見せなければならなかったのか、も。 佐為というその人の存在を。 「そうだな。俺もsaiの事を、知りたかったよ」 saiが表に出てこない限り、緒方はその存在を深く詮索する事はできなかったし、またする気も無かった。けれど、心のどこかに引っかかっていたのは確かだ。 それはあまりに意外な人物で、とても受け容れ難い事実ではあったけれど。 けれど。 どうして、今になってなんだろう。 「でもさ。あの佐為は、本当に幸せそうだったよな。皆に囲まれて。緒方先生までいるなんてさ。びっくりだよ。きっと塔矢なんかもいたんだろうな」 楽しそうに笑うヒカル。 散る梅花の香いも濃い、華やかなあの世界。 「願望かもしれないけど。夢かもしれないけどさ。もしかして、別の世界があったのかもって思わない?」 「別の世界?」 「そう。俺達のいるのとは違う、別の世界。そう考えた方がさ、なんか楽しいじゃん。あんな世界も、あるんだって。そこでは俺も緒方先生も佐為も、みんな楽しく暮らしててさ」 「……まあな」 そうだ。きっとそうだ。 ヒカルが暮らす世界とは別に、あんな世界があっても良い。それも幾多の可能性のひとつだ。 ――佐為。 あの世界のお前は、死ななくても済んでるんだぜ。 そう、あんな世界もあるんならさ。みんながいる、あんな世界もあるなら。 バカだなあ、佐為。 この世に魂なんか残したりしなければ、俺達のこの世界でも、佐為も生まれ変わって、一緒に碁を打ってたかもしれないのに。 けれど皮肉だ。 佐為がこの世に魂を残してヒカルのもとに降臨しなければ、ヒカルは囲碁の世界に足を踏み入れる事すらなかったかもしれない。 やはりそれは、ヒカルを芽吹かせるための運命か。 でもさ。でも。 もう佐為は、俺のもとから離れたもんな。もうこの世に、お前の魂はない。 だからさ。 もしも、もしも生まれ変わり、なんてのが存在するとして、ずっと遠い未来にまた俺達が生まれたら、やっぱりきっとみんなで碁を打ってるよな。 その時には、きっと佐為もいる。 そう。きっと――いる。 なあ、佐為。俺たちは。 俺たちは――ずっと一緒だ。 |