UP20030503
笑顔 1
北斗杯翌日。 碁会所の入り口に顔を出したヒカルの姿に、秀英は瞳を大きく瞬かせた。 「! 進藤……!」 「よお」 ひょこんと手を上げて見せたヒカルに、秀英は駆け寄る。 「進藤」 「何そんなに慌ててるんだよ?」 「あ、いや……」 急いでヒカルの傍まで駆け寄ってしまった後で、秀英は我に返って口ごもる。 北斗杯で対局は出来ないから、その後で会おうと約束していた。けれど昨日永夏に負けたヒカルの様子を見ていたから、もしかしたら今日は来ないんじゃないか、などと懸念していたのだ。 そんなはずはないと、自分に言い聞かせてはいたけれど。 「なんでもない。よく来たな、進藤」 秀英は、言いながらスイと右手を差し出す。ヒカルは握手のために差し出されたその手を握り返した。 ゆっくりと顔を合わせるのは本当に久しぶりだ。イベントの間はそれどころではなくて、ちょっと立ち話をするのがせいぜいといったところだった。 「秀英が日本語を覚えてきてくれたおかげで助かったぜ。通訳無しで話せるんだもんな。ホント、すげえよなー、お前って」 国際棋戦に備えての外国語の勉強ならば、アキラだってたしなんでいる。今のところそんなつもりもないらしいヒカルは、お気楽に笑ってみせた。 秀英は大人びた仕草で呆れたように嘆息する。 「進藤だって少しは韓国語勉強しろよ……」 「そーのーうーち。……ところでさ」 ス、とヒカルの目が細められる。 なんで、あいつがいるわけ? そう言って、ヒカルは秀英の数メートル後方、対局場の一角に腕を組んで仁王立ちする人物を指差した。 不本意そうな、苦虫を噛み潰したようなしぶいヒカルの視線の先にいるのは。 高永夏。 ヒカルが負けたばかりの、あまりにも印象の悪い韓国棋士。 負けたのは、自分の力が及ばなかったからだ。ヒカルは自分の弱さを自覚している。しかし、最初に永夏が見せたぶしつけな態度を、きっとヒカルはいつまで経っても許せない。 秀策を、バカにした事だけは。 本当は、そんな風に一番見返したい相手に勝てなかった自分が愚かしくて、誰より一番許せないのだけれど。 「あ、あのな、進藤……永夏は」 秀策を悪く言ってなんかいない。 通訳が悪かっただけで、レセプションでの発言も意地になってヒカルをあおっただけなのだと、秀英は説明したかったのだけれど。 ギロリと睨みを利かせた永夏が、秀英の言葉をさえぎった。 「ナニ人を指差してるんだよ。失礼なヤツだな。俺は秀英と同じ韓国棋院の棋士だぞ。秀英の打つ碁を見たいと思ったっていいだろ。お前なんか眼中にないんだよ、バカ」 「よ、永夏!」 「訳せ」 「永夏〜〜ッ!」 ひとり青ざめてしまう秀英。 そのままの言葉を伝える事なんか、とてもできやしない。 「あのな、進藤。永夏は今後のために、僕たちの対局を見学したいんだって……」 まさにおそるおそる。そんな風にしか言う事が出来ない。 「ふーん……」 ヒカルの目は据わる。 「ま、どーだっていいけど。んじゃ始めよーぜ」 無表情のままさらりと受け流して、秀英を促すヒカル。さすがのヒカルも、ここでいきなりリベンジに持ち込んだりするほどバカではないつもりだ。 やるならいずれ、ちゃんとした棋戦で。 しかしまさにその存在をキッパリとシカトするかのごとくに、フイと永夏から視線を外した。そのままひとつのテーブルへと向かう。 ヒカルのそんな静かな態度に、秀英のヤツちゃんと訳さなかったな、などと鋭く察しながら、永夏も彼らの後に続いてテーブルに歩み寄った。 「バカ秀英」 ゴツ、と永夏は秀英の後頭部を小突く。 「〜〜〜〜〜ッ!」 秀英は頭を抱えた。 ――どうしてこう、碁打ちってのは大人げないヤツが多いんだよォーッ! 自分も人の事を言えた義理ではないのかもしれないが、この二人は特に、むしろ徹底的に合わないような気がする。 けどな。だけど。 間に立つ人間の身にもなれってんだよー! 心の中だけで、激しく泣きの入る秀英だった。 先程までの対局を何度も並べなおしてやいやいやっていたヒカルが、不意に顔を上げた。 壁にかけられた時計を見る。 「そろそろかな」 「……なにが?」 「ん、今日さ、夜に約束があるんだよ。だから迎えが来るんだ」 「へえ?」 首をかしげる秀英に、ヒカルはちょっとしかめた表情をみせた。 「北斗杯の対局の検討とかさ、やるんだよ。きっと怒られるし絞られるぜ〜。オレ、二回とも負けてるしさ。一晩かけて検討碁かも」 ハハ、と笑う。 困ったような仕草をしている割に、その表情は穏やかだ。秀英は更に首をひねる。 「検討? 師匠か?」 当然の疑問を投げかける秀英に、ヒカルはんーん、と首を振って見せる。 「一応先輩、かな?」 「師匠でもないのに一晩かけて? それでここまで迎えにも来るのか? 随分面倒見がいいんだな」 たたみかける様な疑問符の羅列。とりあえず、ヒカルに関する事は何でも気になってしまうらしい秀英だ。 「んー、師匠じゃないけど……」 ヒカルはフ、と笑った。 「すげえ、大切なヒト」 「!……」 そんなヒカルの笑顔に気圧されて、一瞬赤面してしまう秀英。 なんて顔で笑うんだ。コイツは。 誰を思ってかは知らないが、そんな人を圧倒するような笑顔で、ていうか、なんでこっちが赤面しなきゃならないんだ!? 「……」 真っ赤になってヒカルに見入ってしまった秀英の背後で、これまで無言を決め込んで盤上を眺めていた永夏が瞳を眇めた。 なんだよ。 随分態度が違うじゃないか。 そういう顔だって、出来るんじゃねえの。 何を話しているのかはわからないが。 そんな顔だって出来るなら、はじめからそんな風にしおらしい態度でいれば、いくら自分だってあそこまで苛めたりはしなかったぞ。 永夏は片眉をつり上げる。 確かに通訳が悪かったのは永夏のせいではないし、彼に悪気はなかった。それなのに勝手に敵対心を燃やされてムカついたというのは事実だが、その後意地になってヒカルをあおったのは、間違いなく永夏自身の意志だ。 この場合、自業自得と言えるだろう。 本当に、見かけによらず大人げない。 「進藤」 ふいに、入り口付近から声がかけられた。ヒカルにとっては聞き慣れた、その声。 「あ」 迎え人現る、だ。 その人物の登場に、碁会所の客がにわかにざわついた。 ――緒方十段だ。 ――若手トップの。 しかしそんな周りの反応もまるで意に介さないように、緒方はヒカルへと近付く。 「終わったのか」 「うん。……秀英、この人は日本棋院のプロで、緒方さん」 ヒカルの紹介に、秀英は椅子から立ち上がった。 「はじめまして。洪秀英です」 「ああ。はじめまして。……今更だが、ようこそ日本へ」 緒方の方は、北斗杯の事もあったが、以前からヒカルに話を聞いているので秀英の名前だけは良く知っている。 大切な人って――この人? 秀英は、緒方を見て思わず考え込む。 何がしかの先入観があったわけではないというか、ヒカルが大切だなんて表す人間像が、今イチ掴めていなかったのだ。それにしたって意外というか、一体どんな関係の人なのだろうかと思ってしまう。 永夏もまた、黙ったまま緒方を見つめていた。 彼の事は、知っている。 実物を見たのは勿論初めてだが、あの塔矢行洋からタイトルを奪った男だ。日本の若手プロの中でもトップクラスの人間。低段者のヒカルから見ればはるかに先輩で、しかし同じ棋界にいるからには目標とするライバル関係にもある訳だ。 しかしヒカルを見れば、随分なついているように見える。個人的な付き合いが深いのかもしれない。 碁の強い人間にはのべつまくなし突っかかって行く、という訳ではないという事か。 ――こっちには出会い頭にケンカを売ってきたくせに。 ムカつく。俺が何したって言うんだ。 充分に色々したし、元はといえば生じてしまった誤解を広げてしまったからこうなっただけなのだが。別にヒカルだって、相手が強いからというだけで節操無しに闘争心むき出しにして突っかかっていく訳ではない。 冷静に考えればわかるはずだが、本当に永夏、しつこく根に持っている。 「じゃあ、そろそろ行くか」 ポンと、緒方がヒカルの背を叩いた。 「あ、うん……じゃあ、秀英」 「ああ、また連絡する」 簡単な連絡先を交換し合ったヒカルと秀英は、再び手を握り合う。 二人、なかなか良いライバル関係かもしれない。 「待てよ」 不意の声に、ヒカルは歩き出しかけて立ち止まった。 永夏を見る。 「さっさと俺を見返せるくらい強くなってみせろよ。今度会った時に今と変わらなかったら許さないぜ」 「……??」 ギッと睨みつけてくる永夏が何を言っているのか、ヒカルにはわからない。 そんな彼の手を掴むと、永夏は強引にそれを引き寄せて、あろうことかその甲に口唇を押し付けた。 「!!!!!!!!!!」 「よ、永夏……!!」 驚愕の秀英。 顔面蒼白になったヒカルは、よろよろと後退した。ボスンと背中に当たった緒方の身体に、力の抜けた全身を支えられる。 「おい、進藤……」 「お、おが……」 予想だにしていなかった永夏の行動に、ヒカルは心底動転している。 怯えていると言って良いかもしれない。 「あ、あいつ狂っ……」 「しっかりしろよ、進藤」 パニックに陥っているヒカルとは逆に、永夏の表情はまるで悪魔のそれだ。してやったりと微笑む姿は、秀英でもなかなか見る事がないくらいに凶悪である。 「刻み付けとけよ、進藤」 あくまでヒカルを睨みつけている永夏。 ガタガタと震えるヒカルを、緒方は嘆息とともにグイグイと引っ張った。このままでは一歩たりとも自分で動きそうにない。 しかしクルリと振り返り、永夏を見つめる。 「案外早いだろうから、覚悟しておいた方がいいと思うぜ……高永夏くん」 ニヤリと笑ってみせた緒方の後姿を、永夏は眼で追った。何を言われたのかはわからないが、おそらく挑戦的な事であると窺える。 思えば緒方と永夏、これが最初の挨拶だ。 別にお互いに他意があったわけでなく、単にヒカルが紹介しなかったから無用の挨拶を交わさなかっただけの話だ。本当に大人げない連中というか、一歩間違えれば国際問題である。 本当に、ムカつくなァ。 永夏はといえば、茫洋とした表情でそんな事しか考えていなかったのだが。 「永夏! 何考えてるんだよ! 進藤に、あんな事するなんて……ッ」 クワッと永夏に噛み付く勢いの秀英。 「ナニって、別れの挨拶だよ」 「何だよ、別れの挨拶ってッ! あ、あんなのが……」 「うるさいな」 ほんの嫌がらせじゃないか。そのくらいでカリカリするなんて、カルシウムが足りないんじゃないか。 鬱陶しそうにがりがりと後ろ髪を引っかく永夏。 まあ大人げないのは事実だし、言い訳はしないが。 別に、ヒカルだからという訳ではないのだが、ああも自分に突っかかってくる人間が、他の人間には穏やかだというのが何となく癇に障る。それだけだ。 「あれくらい、たいした事じゃないだろ」 フフン、と永夏は笑う。 今度こそ、秀英はキレた。 「永夏のバカ!! ホントにもう知らないからな――ッ!!!」 こうして完全にへそを曲げた秀英のご機嫌を取るために、永夏は多大な時間を使うこととなったのだが、それはまた別のお話。 |