UP20030503

笑顔  2





 緒方のマンションのエントランスにたどり着いたところで、ヒカルはふと顔を上げた。
「緒方先生、韓国語わかるの?」
「なんで」
 歩みを止めないままに、緒方は訊き返す。
「さっき高永夏に何か言ってたから。あいつの言ってた事がわかったのかと思って」
 案外早いとか何とか言っていたような気がするが、あれは直前に永夏が言った事に対する返答なのではないかと思った。
「韓国語は知らんよ。だが、彼は案外わかりやすい。それだけだ」
 ダイレクトに伝わってきた闘争心。その後のアレも、それゆえの軽い嫌がらせのつもりだろう。確かに効果はてきめん、ヒカルをすっかり怯えさせていた。
 今回彼は勝ちを拾ったのかもしれないが、これでヒカルに捕まってしまったのは確かだ。たとえ、彼自身がそうと意識していなくても。
 碁を打つ誰もが、そうであるように。
「……」
 ヒカルは悩む。
 あの場の雰囲気と永夏の態度だけで、彼が何を言ったのか理解できたというのだろうか。
 ヒカルにはわからない世界だ。
「それより部屋に帰ったら検討でいいのか? もう他の人間と散々やったか」
 玄関までたどり着いたところで、緒方はヒカルに問う。
 ヒカルは秀英に「絞られる」などという言い方をしたが、緒方の態度は柔らかだ。
「ああ……検討でいい。昨日もやったけど、いろんな人の展開見たいし」
 そうでもしていなければいたたまれない、というのが正直なところかもしれない。
 玄関のドアを開く緒方の後姿を、ただ見つめるヒカル。
 両の手が、スウッとその背中に伸びた。
「進藤?」
「……」
 言葉もなく背中を抱きしめられて、緒方は振り返った。
「どうした?」
「……」
 ほんの僅かの間そうして、ヒカルはヘヘ、とその腕を解いた。
「ごめん。緒方先生の背中みてたら、あいつの顔が浮かんじゃってさ。思わず殴りそうになっちゃったから、その勢いで抱きついちゃった」
 フン、と緒方は笑って、その髪をクシャリとかき混ぜた。
「俺の背中を殴ったりしたらタダじゃおかないぞ」
「わかってるよ」
 ヒカルは笑った。




「そろそろ終わるか」
 中国戦と韓国戦の二局を初手から並べて一通りいじりまわした後で、緒方は盤上の石を回収した。
「え、もう?」
「なんだよ、まだ足りないのか?」
「あ、いや」
 そんな事はないけれど。
 検討を始めて、二時間あまり。
 もっと色々と言われるかとも思ったし、本当に一晩絞られるんじゃないか、などとも考えていたのだ。初めての国際棋戦で、結局全敗して。
 普段から緒方はヒカルの打つ碁に多くを言う事はないし、勝っても負けてもあくまで第三者としてそれを眺めているような処はあったが。
 今回の戦いは、ある意味日本の名誉がかかった戦いでもあった。
 それなのに強がって、いきがって、ムキになって。
 韓国戦で通常通りのオーダーを通していたら、あるいは日中韓同点で終える事が出来たかもしれない。いや、その前に中国戦でもっと自分がしっかりしていたら。
 何よりも、自分が高永夏に勝っていたら。
「二局とも、見事に負けてくれたよな」
 ヒカルの思考を読んだかのような緒方の言葉に、ヒカルはうっと言葉を詰まらせた。
「だが検討ならイヤになるほどやっただろうし、各所からありがたーいお言葉も死ぬほどもらってるだろう?」
 まさにその通りだ。
 返す言葉のないヒカルに、緒方はニヤリと笑ってみせた。
「俺のおしおきなら、一晩かけてゆっくりしてやるぜ」
 俺にしか出来ないおしおきをな、と囁く。
「……え」
「ベッドの中でだ」
「ええーッ!?」
 ヒカルの叫びもまるで意に介さないように、緒方はヒカルを立ち上がらせ、その腕をグイグイと引っ張った。
「お、緒方先生」
「つべこべ言うな」
「そ、そんなぁ――ッ!」
 だってそのおしおきって囲碁と何か関係あるのかとか、北斗杯の前の合宿からこっち、ずっとへとへとだとか。色々な言い逃れが頭の中をよぎるが、いきなりの事で、ちゃんと言葉になってくれない。というか、言葉にしても聞き入れてもらえないだろう。
 ヒカルのささやかな抵抗も空しく、彼は緒方によって、あっという間にベッドルームへと引きずって行かれたのであった。




 昏々と眠るヒカルを、緒方は同じベッドの中で上半身だけ起こして眺める。
 相当な勢いで苛めたから、きっと朝まで目を覚まさないだろう。
 疲れ果てて意識を手放したヒカルの、閉じたままの瞼に指を這わせる。涙の痕を、そっと拭った。

 本当は、どんな形でもいいから叱ってほしかったのだろう。
 ヘタな慰めや励ましなんかよりも、自分を責め立て叱咤する言葉こそを必要としていたはずだ。そうでなければ、とてもやりきれない。
 一番悔しくて、一番自分を許せないのはヒカル自身なのだから。
 どれだけ責めたって、後の祭りだ。
 どんなに詫びたって、何にもならない。
 それは誰だって、ヒカルだってよく承知している。
 だからヒカルは、緒方に何も言わない。
 悔しくて悔しくて。自分を責める言葉がほしかっただろう。あの時背中に伸ばされた手は、緒方の何を望んでいたのか。
 けれどヒカルは、緒方にすらその本音を見せない。いや、むしろそれが緒方であるからこそ。緒方を煩わせずに、ひとりで感情の波が去るのを待つつもりで。ただ何も考えていないかのように、お気楽に笑ってみせた。
 そんな風に強がるヒカルを、そしてその強がりを本当の強さに変えて行こうとするヒカルを、緒方は好きだと思うけれど。
 弱音を吐きまくって、爆発した方が良い時だってある。
 そうして早く、その重い荷物を降ろす事が出来るなら。

 ベッドの中で絡まっている間中、ヒカルは緒方に縋りついて声を上げていた。
 何度も何度も緒方の名を呼んで。
 艶を帯びた鳴き声と、掠れた泣き声と。幾度もしゃくりあげながら、とめどなく緒方を求めた細い腕。
「……ベッドの中でなら、泣くのに言い訳はいらないからな」
 緒方の呟きは、眠るヒカルには聴こえない。
 ――忘れろよ。負けた事への後悔は。
 疲れて、眠って、上へと伸び行く決心だけを持って行けば良い。これから何度でも訪れる、勝ちと負けの瞬間のために。
 緒方はクシャリと、ヒカルの前髪を静かにかき混ぜた。




「緒方先生、ベタすぎ……」
 朝、目覚めたヒカルの第一声。
 何がベタなのかといえば、今の自分たちの姿が、である。
 ひとつのパジャマを、二人で分け合っていた。ヒカルは上半身を、緒方は下半身を。
 ヒカルは余りすぎて先端の出ていない両袖をブラブラと振って見せた。
「しょうがねえだろ。面倒くさかったんだよ」
 大きな枕にもたれたまま、ムッスリと煙草をふかす緒方。
「緒方先生って、たまにすげえおもしれー」
 ヒカルはアハハ、と笑った。
「うるせえ」

 今歩いているのは、勝負の世界だ。
 勝負に負けたって、その過程や結果が人を成長させる事だって多々ある。
 けれど勝ちは勝ち、負けは負け。
 どんなに賞賛をもらっても、健闘をたたえられたって、大半の評価は勝つか負けるかで決まる。評価はあくまで評価だが、それを受けるのは勝負に出た本人で、一番評価を下しているのは誰でもない自分自身だ。

 ――厳しいな。厳しい世界だ。
 でもだから、お前のこんな笑顔を見る事も出来る。

 ひれ伏した身体を起こした時。躓きそうな石をやり過ごした時。
 大きな壁を、乗り越えた時。
 そんな時に見せてくれる笑顔が、何よりも大切だった。
 結局のところ、苦しみと喜びは振り子のように対極にあるものなのだ。苦しみが大きければ、喜びも大きい。だから。こんな厳しい世界でヒカルが喜びを手にした時の笑顔は、何よりも眩しくて、愛おしい。
 この世のどんなものとも代えられない。
 ヒカルが乗り越えて行く限り、失われる事のない輝きだ。

 緒方は、ヒカルの腕を引き寄せた。
 その頭を抱え込んだ手で、クシャクシャと柔らかな髪をかき混ぜる。
「笑えよ」
 唐突な緒方の言葉に、ヒカルは目を丸くする。
 余計な事を一切付け足さない緒方の言葉は、けれど今のヒカルには充分すぎるほどにその思いを伝えるものだ。
 そんな思いの断片に、ヒカルは「変なの」と呟いて――。
 笑った。
 ゆっくりと倒れこんで、パタリとその膝に頭を預けて。
「……先生」
 呼びかける。
 なんだ、と頭上からの囁きが答えたが。
「なんでもない」
 ヒカルは呟いた。

 緒方が何も言わずにしてくれた事だから。ヒカルも何も言わないでおこうと思った。
 ありがとうも――大好きも。きっとあなたはわかってる。
 時に言葉に乗せることもあるのかもしれないが、わかりきった言葉よりも、この人の欲しいものがあって、自分はそれを持っている。
 通じ合うっていうのは、きっとこういう事を言うのだろう。
 だから。

 だから今は何も告げずに。ヒカルはただ――笑うのだ。




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●あとがき●
夢でした〜、秀英、永夏の描写。楽しかったです。ヒカルと秀英の対局結果は、それぞれ皆様のお好きなように想像して下さいませ。
なんだか久しぶりに、読みかえして恥ずかしいラブラブです(笑)。



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