アリスブルーの伝説 第三話 海への回帰



 今日も、天気は上々、空が青い。
 何やら出掛ける準備をしているらしいリュミエールを見て、ゼフェルが声を掛けた。
「何やってんだよ、リュミエール」
 背後からの不意の言葉に、リュミエールは驚いたように振り返る。
「ああ、ゼフェル……えーと……」
 うっかり、名前の後に『様』を付けそうになるのをかろうじて押し留めた。それだけは「言ったらシバく」とゼフェルからきつく止められているのだ。ジュリアスの場合は構わないのに変な話だとも思う。
 今のリュミエールは守護聖の縦の関係を知らないのだから仕方のない事だ。
 しかしゼフェルに叱られるのは嫌だから、とりあえずは彼の言う通りにしている。本当は、守護聖様を呼び捨てにするなど、それだけで震え上がってしまうような行為なのだけれど……。
「食べ物と衣類を調達しようと思ったので……南の島へ出掛けてまいります」
「南の島ァ?」
「はい。ここより少し南に行った島に沢山の工場跡があって、そこで大抵の物は調達できるのですよ」
 ゼフェルがこの島に来てから初めての行動だったので驚いたが、考えてみればこのログハウスに充分な衣食住の備えがあるのも不思議な話だった。今いる小さな島には、実にこの一軒しか建物はないのだ。
 なるほど、他の島に調達できる場所があったという訳だ。多くの人間が暮らしていた頃の名残であろうか。
「そんな島があるなんて、良く知ってたじゃねーか」
「ええ、まあ、あちこち泳いで回っていますから……」
「……」
 泳ぐって。
 少なくともこの島の周りには、はるかな水平線付近に微かに見える島くらいしか存在していない筈だが、リュミエールはそこまで、いや、もしかしたらもっとずっと遠くまで、その身体ひとつで泳ぎまくっているというのだろうか。
 ……水の守護聖は、伊達じゃない。
「まさか、今日も泳いでいくのか?」
 思わず恐る恐るといった感じの口調になってしまうゼフェル。しかしリュミエールは、おかしそうに笑ってみせた。
「それでは荷物を持って帰れません。今日はジュリアス様が、モーター式のボートを操縦して下さるというのでお言葉に甘えようと」
「はあぁ?」
「私はそういった物を操縦するのはちょっと不慣れなので……。ただのボートだと時間がかかりすぎてしまうのですが、今日は早く済みそうです」
 ゼフェル達がここに来るまでは、手こぎの船を使っていたのだろうか。それもそれで恐ろしい事である。もっとも、そんなに多い回数ではない筈だ。自分はずっとこの島で暮らしていると思い込んでいるリュミエールの感覚ではどうだか、ゼフェル達には知る由もなかったが。
「バァカ。そんな事は俺に言やいいのによ。俺は鋼の守護聖だぜ。機械関係は専門なんだからよ」
 当り前のようなゼフェルの言葉に、リュミエールは感心してしまう。そういえば、彼は鋼の守護聖だったのだ。
 まだ今イチ、感覚が掴めない。
「どうせだから、俺も付き合ってやるよ。好きなモン、持って来ていいんだろ?」
 ゼフェルはニッと笑ってみせる。
 口には出さなかったが、この小さな島から離れてみてリュミエールの事に関して何か手がかりが掴めれば、という思惑もあった。おそらく、ジュリアスも同じ事を考えている筈だ。
「準備ができたぞ、リュミエール」
 そこへジュリアス。
 聖地での普段着である重たい衣装を着けずに、リュミエールと同じようなシャツとスラックスといういでたちのせいか、ここ最近の彼は妙に快活に見える。いつものジュリアスを見慣れているゼフェルにしてみれば、奇妙な薄ら寒さを憶えなくもなかったが、これはこれで、まあ一見の価値ありかもしれない。
「ゼフェル、そなたも行くのか」
「人手は多い方がいいだろ」
 あっけらかんと言うゼフェルの意味深な視線を受け、ジュリアスは「そうだな」と頷いた。いわゆる、アイコンタクトである。絶妙なまでにおかしな組み合わせである事については、この際不問という事にしておこう。
「んじゃ、とっとと行こうぜ」
 ゼフェルの言葉に、当然二人の思惑など知らないリュミエールが頷くと、三人揃ってモーターボートに乗り込んだ。

 大海原を、小さなボートが勢い良く駆け抜ける。
 突き刺さるように頬にぶつかる潮の臭いと、時々身体を濡らす水飛沫。
 ゼフェルの操縦するボートは確かに速いのだが、いくぶん速すぎて、慣れないリュミエールはおっかなびっくりといった感じで座席にへばりついている。
 リュミエールもジュリアスも、その長い髪をまとめて括っていなかったら大変な事になっていたところだ。
「どうだリュミエール、良い気分だろー!?」
「え、あ、はあ、はい……」
 本気で気分の良さそうなゼフェルの言葉にかろうじて返事をしたリュミエールだったが、ふとその視線が一点に釘付けになった。
「リュミエール?」
 隣に座るジュリアスが、その変化に気付く。
「ゼフェル! もう少し、静かに操縦できぬか」
「あ、いえ……」
 リュミエールの変化をゼフェルの操縦のせいだと考えたジュリアスの言葉に、リュミエールは静かに首を振った。
「あちらに見える島……あそこに、あのような島があったかと思いまして……」
「なに?」
「いえ、私の気のせいでしょう」
 独り言のように呟きつつ、リュミエールはその小さな島を見つめる。
 ログハウスのある島から大分離れた場所まで来たが、このあたりにはかなりの数の小島が点在している。そのひとつずつの位置を正確に記憶している自信は、リュミエールにはなかった。
「それより……見えてきたようですね」
 リュミエールが指差す方向に、目的の場所が見えてきた。
 南の島とリュミエールは言っていたが、それは既に島という大きさではなかった。この星に大陸はないからそれほどの大きさではないのだろうが、島というよりは陸地といった方がふさわしい。その陸地の両端は視界に入る位置にはなく、少なくともひとつの国家がつくれるくらいの大きさではある。
 ジュリアスは、この惑星のデータを頭の中から引きずり出してみた。おそらくこの陸地はこの星で最大の面積を持ち、過去に代表的な文化を作り上げていた場所だ。

 港の一角にボートをつけ、陸地に降り立つと、そこは硬いアスファルトに覆われていた。周りに点在する島々はどこも人工的な臭いはあまりしないのに、ここだけは異様に文化が発達しているように見える。
 もっとも、それも過去の産物であるから、見渡す景色はどこもかしこも色褪せ、かすんで見えた。
 無人の惑星。
 どうして、この星の人々はここから消えてしまったのだろう……。
「この辺り一帯、工業地帯なのですよ」
 リュミエールの先導に、大人しくついて行く二人。
 日を追えば追うほどに、どんどんリュミエールが別物になっていくような気がする。人格はまさしく本人に間違いはないのだが、何か、どこかが違う。ひとつの部品が無くなってしまったというだけで、こんなにも印象が変わってしまうものだろうか。
 守護聖であるという事を忘れ、守護聖でない時間を過ごしているのだから、ある意味当然の事なのかもしれないが……。
「ゼフェル」
「何だよ」
 ジュリアスの、前を行くリュミエールに悟られないほどの小さな呼びかけに、ゼフェルも小声で答える。
「私の記憶違いでなければ、この地こそがリュミエールが最初に調査に降りた場所の筈だ」
 ジュリアスの言葉に、ゼフェルが一瞬目を見開く。
「じゃあ何で、あんな離れた小島なんかにいたんだ?」
 それが分れば苦労はない。
 それを調査するのも、二人の仕事の筈だ。
「それも考えねばならない事だが、私が今考えているのは、つまり、この場所で何かがあったのではないかという事だ」
 厳しい表情のジュリアスを横目に見ながら、ゼフェルもまた考え込んでしまう。
 この地で調査を行なっていたリュミエールが何事かの事件に遭遇し、何かが起こった後であの小島に送られたか、あるいは辿り着いた。
 確かに、その可能性が一番高そうだった。
「ジュリアス様、ゼフェル?」
 コソコソと何事かを話し込んでいる二人を振り返り、不思議そうに微笑むリュミエール。
「いや、何でもない」
 数日共にいて、やっとリュミエールの警戒心も解けてきたのだ。ここへ来て、それを御破算にはしたくない。
 二人は何事もなかったかのようにリュミエールに近寄ると、その案内で工業地帯に足を踏み込んだ。

「今日は、本当にありがとうございました」
 小島に帰ってから深々と頭を下げるリュミエールに、ゼフェルが屈託なく笑い返す。
「気にすんなって。自分達の用事でもあるんだからよ」
 洋服も食物も、自分の好みのものを調達できてゼフェルはまんざらでもなさそうだった。
「ジュリアス様は……?」
「あいつなら、さっき裏に出てったぜ」
 きっと今日考えた事を整理にかかっているのだろうが、それはあえて口に出さない。
 それを聞いてふらりと外に出ていくリュミエールを見送ると、ゼフェルもまたどっかりとソファに沈み込んで己の考えに耽りはじめた。

 この島から眺める夕日は、いつも美しい。
 ジュリアスがこの地に来てからそう長い時が過ぎた訳ではないが、大抵においてこの地の天候が崩れる事はなかった。
「ジュリアス様」
 ここへ来て初めてリュミエールを目にした場所にジュリアスは立っていたが、小さな呼びかけに静かに振り返る。
「今日は、ありがとうございます」
 ゼフェルの時と同じように頭を下げるリュミエール。
 律義な彼を微笑ましく思い、ジュリアスは「大した事ではない」と小さく笑った。
 思えば、聖地にいた頃からリュミエールは妙に律義なところがあったように思うが、こんな風に穏やかにそれを受け留めた事があっただろうか。
 どうにも気に食わないあの男にいつも寄り添っているという事もあったが、大抵の時を穏やかな表情で過ごしているリュミエールの事を、理解に苦しむと考えていた事も事実だ。
 ここへ来て分った事もある。
 リュミエールのそのおだやかな微笑みに、いつでも偽りなどなかったという事だ。
 争いを好まない平和主義。怒りを悲しみに変えてしまうようなその性格。普通なら誰もが「嘘臭い」と考えてしまうようなその優しさは、彼に限っては紛れもない本物なのだ。
 守護聖という、ある程度の枷を外してしまった今も変わらない彼を見て、ようやく理解する事ができた。
 しかし……。
 そういうところは変わらないが、どこか、別な部分でリュミエールがどんどん変わっていってしまっているという危機感は、変わらずある。
 それが何なのか、具体的な事は分らないままだが。
「ジュリアス様……?」
 リュミエールの小さな呼びかけ。
 いけない。ひとりで考え込んでは、また彼を不安にさせてしまう。
「ここは、美しい場所だな」
 思わず口にした言葉に、リュミエールは頷いた。
「はい、とても」
「故郷に帰りたいと、思った事はないのか」
 ずっとこの島にいた筈のリュミエールは、ジュリアスの言葉に少しだけ考え込んだ。
「故郷とこの星は……似てはおりますが、やはり違う星ですね。ですが私は……いつか私の還る場所は、きっとこんな海だと思うのです。それは国や星といった境の中に存在するものではなく……すべての命が帰り着く、魂の源だと」
 抽象的な、リュミエールの言葉。
 ある種の危惧に対しカマを掛けたジュリアスだったが、その危惧が現実の物になりそうな予感が、大きく膨れ上がった。
 ある種の危惧――ここでのリュミエールの生活。
 おかしいと思いはじめたのは、ここ数日のことだ。
 故郷を離れ、ほんの数十年前まで人間が存在していたこの惑星で、たったひとりで暮らすリュミエール。
 人間が作った筈であるこの家で暮らし、普通と変わらない食事と睡眠をただ繰り返す彼。
 しかしリュミエールは、その生活に何の疑問も抱かず、他の人間を探そうとすらしないでいたのだ。
 たったひとりきりで、生涯を過ごそうとしていたのだろうか――。
 人である限り、それは不可能に近い事だとジュリアスは考える。しかしリュミエールは、数日前にふとした拍子に言ったのだ。自分は「ひとりではない」と。
 島にも海にも多くの生命が存在していて、共に命の道程を歩んでいる。
 だから、ひとりではないと。
 彼が、人であった事すらも忘れようとしているのではないか――そんな不安を、ジュリアスは拭い去る事ができずにいた。
「あ、ジュリアス様……」
 呟くような声と共に、己の肩に回されたリュミエールの両手。
 突然の事に、ジュリアスの心臓が跳ね上がった。
「解けかかっていますね……失礼致します」
 そう言って、リュミエールはジュリアスの髪を括っていた結い紐を優しく解いた。
 リュミエールの手が離れると同時にふわりと広がる金の髪。緩やかな風になびくそれは、波のように穏やかな煌きを放つ。
「ジュリアス様の髪は、夕日を受ける水面に良く似ていますね……」
 微笑むリュミエールの瞳も、夕暮れの光で水のように輝いていた。
 無意識の内に、ジュリアスも微笑を返す。
「……そうか」
 リュミエールを人として繋ぎ止める。
 今ここでそれができるのは、多分己ら以外にいないとジュリアスは考える。
 守護聖としての執務だけの問題ではなく。
 目の前で微笑む彼を失わないように、その為にできる事全てを。

 夕日の中でジュリアスが思うのは、その事ただひとつだけだった。



To be continued.


☆三人しか出てねえ(笑)。しかもジュリアスが笑える。ところで、いつまでこの人達はのんびりとバカンスを決め込むつもりなのでしょう。やっぱり、メンバーがメンバーだからねえ。不測の事態への対応に弱そうだ(笑)。次回どうするつもりよ、鯨波……(笑)。

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