スプラッシュホーリー

 聖地。
 宮廷の日当たりの良い執務室の窓際で、女王アンジェリークはフウ、とため息をついた。それは何がしかの憂いから来るものではなく、軽い仕事を終えた後の一息、である。
 コツコツというノックの音。これだけで誰が来訪したのかすぐにわかる。
「開いているわ、ロザリア」
 女王アンジェリークは少々面持ちをほころばせると、友人であり、有能な補佐官である彼女の名を口にした。
 そして、扉を開ける前に、声すらたてていない段階で来訪を当てられてしまったロザリアは、しかしそんな事は当然であるかのように女王の執務室の扉を開ける。毎日の事である。
「陛下。先日の惑星の件はどのように?」
 早速用件を口にするロザリア。のんびり屋の女王に付き合っていると、日が暮れるどころか翌朝になってしまう事を、彼女は良く心得ていた。
 それに対し、右頬に人差し指を当てて考え込むアンジェリーク。
「先日の……というと、惑星ノイスのことかしら」
「左様ですわ」
 アンジェリークはにこにこと笑う。
「先だってからリュミエールに調査、水の作用の依頼をしていた星ね。問題ないわ」
「というと、すでに安定期に入ったのでしょうか?」
「ええ。この聖地から水のサクリアを送り続けて、あとは仕上げを残すのみです」
 無邪気な笑顔は一見何も考えてなさそうに見えるが、女王としての仕事はしっかりとこなしているらしい。
 ロザリアは優美な笑顔を見せた。
「それなら結構ですわ。後は水の守護聖にお任せする事としましょう」
 惑星に関する資料を机の上に置くロザリアに、アンジェリークもあでやかな微笑みを返す。
「それでは、リュミエールを呼んでいただけるかしら」

 今問題になっているのは、偏狭の惑星『ノイス』の星全体の干ばつだった。
 それほど重大な問題ではなく、リュミエールがしばらく聖地からサクリアを送り続けた事で解決しつつあり、あとは現地に赴き仕上げをするのみとなっている。
「陛下、リュミエールをお連れしましたわ」
 言いつつ入室するロザリアに「ありがとう」と微笑んだアンジェリークは、ゆっくりとリュミエールに向き直った。
「先日もお話したとおり、あなたに惑星ノイスに赴いていただき、星全体の水の復活を促していただきたく思います」
 神妙な顔でリュミエールが頷く。
「わかりました。お任せ下さい」
「ノイスは干ばつの影響で小物の魔獣が頻繁に出現すると聞きます。くれぐれも、お気を付けて」
「ご心配には及びません……安心なさって、吉報をお待ちになっていて下さい」
 リュミエールが微笑み。
 ほんの一瞬、女王と水の守護聖の間に、微かな優しい空気が流れた。

 聖地の女王のあり方は、現在の女王になってからずいぶんと変わった。
 以前のように厳格なものではなく、女王との目通りの機会も普段から増えているため、守護聖のみならず聖地全体の女王への印象も、少しずつ変わりつつあった。
 それが良い事なのか悪い事なのかはわからない。
 しかし女王が決めた事だ。
 少なくとも、守護聖はその事をそれぞれ好ましく思っていたから、さしたる問題もなかった。ただひとり、リュミエールを除いては。

 惑星『ノイス』に立ったリュミエールは、人気のないその場を静かに見回しながら、聖地の女王を思った。
『私の星を潤してくれたように、この星にあなたの水の優しさを』
 そう言ってリュミエールを送り出した女王アンジェリーク。
 リュミエールは、まるで昨日の事のように思い出す事の出来る、女王選出の試験の事を考えた。
 穏やかな心を通わせたあの頃。
 あの頃から、アンジェリークはその身に金色の輝きを纏い、全ての者を魅了していた。リュミエールも例外ではなく、ふと気付けば彼女の事を考え、足繁く彼女の許に通い続けたりしたものだ。
 そして、アンジェリークがリュミエールの事を、他の者とは明らかに違う視線で追い続けていた事もまた周知の事実であった。当時は本当にリュミエールがアンジェリークを連れて逃げてしまってもおかしくないと、誰もが思っていた。
 しかし、リュミエールはそれをしなかった。
 こんなにも、誰からも愛され誰をも愛する権利のある、女王になるために生まれてきたようにすら思える彼女を聖地から奪い去る事など、リュミエールにはできなかったのだ。
 アンジェリークもまた、リュミエールに『連れ去ってほしい』と望む事はしなかった。彼女が何を考えその結論に達したかは周囲には測り知る事ができなかったが、これでいいのだと、アンジェリークも、リュミエールも考えていた。
 アンジェリークがどう考えていたかはリュミエールは知らない。けれど、彼は自分が守護聖だからとか、そういう理由からこの道を選んだ訳ではなかった。
 アンジェリークの前では守護聖である前に、男性でありたいと思っていた。男であるなら、愛する女性を自らの手で幸せにしてあげたいと思うのは当然だ。リュミエールがそれをしなかったのは、ひとえに『彼女の創りあげる未来』に思いを馳せていたからに他ならない。
 リュミエールの愛するアンジェリークが、この宇宙をその目で見据え、導いて行くのだ。それはどんなに輝いた世界になるだろう。
 彼は、そんな風に変わって行く世界を見ていたかった。女王となったアンジェリークの傍で、彼女を助けながら。
 それが今あるふたりの姿だった。

 しかし、そんなふたりであったから、今の状態はリュミエールにとっては、ほんの少し胸が痛むものだった。
 いっそのこと、アンジェリークが先の女王のように本当に手の届かない至上の存在になってしまったなら、今のように頻繁に顔を合わせる事もなく、女王と一介の守護聖としていられたと思う。
 もちろん、今の状況とどちらが良いかと問われれば、今の方が良いのだと思う。しかし、いつまで経っても心の方は平穏に落ち着いてはくれないのだ。
 それは、これまで消えた事のない彼のジレンマだった。

 リュミエールは、ノイスの乾いた大地にそっと手を当てる。
 この星は聖地の存在を知り、交信すら取れる状態にあったので、干ばつの問題解決はノイスから正式に依頼されたものである。しかし仕事が済むまではお忍びであるという形を取っていたので、今ここに聖地の守護聖がいる事は僅かな人間しか知らない。リュミエールとしても、その方がやりやすかった。
「状態は良さそうですね……」
 手を離し、屈めていた腰を上げたリュミエールは、ふと感じた気配に何気なく振り返って、思わずぎょっとした。
 そこに佇んでいたのは、聖地にいるはずの、美しい金の髪を揺らす最愛の女性であった。
「女王陛下……!?」
 そこにいるはずのない存在に驚いたリュミエールの声に、アンジェリークはイタズラっぽく微笑んでみせた。


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