UP20020412
Hearts - Act.2 記憶の少女
小さな店内の奥まった場所に陣取って落ち着くと、榊は脱いだ上着のポケットから細い物を取り出し、正面に座る郁実の目の前に差し出した。 「これは……」 それは、一本の古びた万年筆だった。 「結局お前は最後まで取りに来なかったからな。もう要らないだろうとは思ったが」 懐かしいそれを、郁実は手に取った。 「驚いた。まだ持ってるとは思わなかった」 「ご挨拶だな。俺だって捨ててしまおうかとも思ったが、一応は生徒の物だ。俺が盗んだ物でもあるしな」 この万年筆は、P2の刻鏡事件の時に、その計画の一端として榊が郁実の机から持ち出した物だ。これをきっかけに、郁実は刻鏡の怪談に関わりを持つ事になった。 榊が持ち出した品物はいくつかあったが、やる気を促すためという理由上、それぞれ個人が大切にしている物だった。だから後にこっそりと返すなり、持ち主が取りに行くなりという形で殆どが持ち主の元に返っていた。榊のもとに残っていたのは、この万年筆だけだ。 「確かに……あの時、これはもう要らない物になってた」 これは郁実が両親から大和武尊の入学祝にもらった物だが、郁実の中ではそれ以上の意味も持っていた。自分が独りで歩くための、きっかけとして郁実が選んだ物だ。だからこれに執着もしていたが、刻鏡の事件が解決する頃にはこの万年筆にかけた希望も想いも、すべて昇華されていた。 だから、いい意味で、もう要らなかったのだ。 「華子……というのか」 榊の呟きに、郁実はぎくりと彼を見た。 「先生……どうして」 古い古い、過去の記憶。けれど一度として忘れる事のなかった、少女の笑顔――。 「最初は付喪神(つくもがみ)の一種かとも思ったんだがな、違ったようだ。そんなに古い物でもないしな。その万年筆には、ずっと小さな思念体のような物が、憑いていたんだよ」 「思念体……?」 「思念体といっても、欠片のようなもの、ほんの一部だ。本体は別にある。浮かばれていない霊体という訳でもないから放っておいたが、それはお前をずっと見守っていたのさ」 ――はなこ。 郁実が忘れえる事のなかった、幼い少女。 「本当なら、とっくに上に行っていい筈の魂だ。お前の事が心配で、ここに残っていたのが、それに憑いたんだ。お前が卒業してしばらく経った頃にはいなくなったから、もういいと踏んだのかもしれないと思ったが……まだ、魂そのものはお前の近くに残っているようだぞ」 郁実は呆然としたまま、手の中の万年筆を見た。 華子。 あんなにも幼い頃に逝ってしまった少女は、その幼い魂を、郁実のためだけにこの世に残していたのだ。 「もう、昇れるんだな……?」 「そうだ。繋ぎ止めているのは、お前への想いだけだ」 榊は見た。少女の真っ白な心と、そこにいつもある、鮮やかな笑顔。決して自分と相容れる事はないと思えるような、純真で美しい姿。この世に残っているのが不思議なくらいの、浄化された魂。 それを見ていたから、2月のあの日、郁実が力を暴走させた時も、榊はその理由を知っていた。 P2計画のクライマックス時。学校の講堂での決戦の時に、自分を庇って負傷した少女を目の当たりにした郁実は、無意識の内に魔術を暴走させた。昔、郁実が経験した凄惨な事件がオーバーラップしたせいだ。郁実にとってその記憶は、永遠に癒す事ができないようにも思える深い痛みであったから。 慟哭の内に郁実が何を思っていたのか、それは郁実自身も憶えていないから、今となっては知る術もない。だがおそらく、声をあげながら見つめていたのは、この華子という少女の面影であったのだろう。 「あの時の涙の理由は、この子だな」 郁実を見つめ、何事もないような声音で問う榊。 郁実は万年筆を握り締めたまま、何時の間にかテーブルに付いた両腕の中に顔を埋めていた。 それに気付いたウエイトレスが近付いてくるが、榊はそれを手で制した。 「どうした。もういいんじゃなかったのか。あの魂の形も、俺にはそう見えたぞ」 「……ああ」 郁実は、ゆっくりと顔を上げた。 焦燥しきったようにも見えるその笑顔を隠すように、片手で顔を覆う。 「とっくに、良くなってたよ。ただ、きっかけを与えてやれなかっただけだ」 多分、華子がこの世に魂を残す理由は、もう無くなっていた筈だった。そう言えるくらい、郁実の気持ちも安定に向かっていた。しかしまだ、華子はここにいたのだ。華子は待っていたのだろう。郁実がくれるきっかけを。 郁実が「もういいよ」と言いに来てくれるのを――。 「死にたいと思った事はなかった。だけど、別段生きていなくてもいいと思っていた最低の時も、華子は、ずっとそばにいたんだ……」 「そうだとすれば、お前が死なずに今在るのは、その子のおかげだ。早いところ上に送ってやるんだな」 榊の言葉に、郁実は素直に頷いた。 「明日には、華子に会いに行くつもりだった。まさか今日、よりにもよってあんたから名前を出されるとは思っていなかったけど」 郁実の中で、華子への贖罪はとうに昇華されていたが、その後北海道への転勤もあったりして、ちゃんと華子に会いに行けた事はなかった。さすがに非番の日を使ってここまでは戻ってこられないし、所轄外に出るにはそれなりの渡航許可が要る。 やっと、彼女に会えるのだ。 水上の駅まで来る頃には、すっかり日が落ちていた。 「氷村」 隣の榊の呼びかけに、郁実はその視線を彼へと向けた。 「お前の脆さは、武器にも凶器にもなりうる。せいぜい気をつけるんだな。俺の事など、考えている余裕はないかもしれないぞ。強くなれなければ、あの時の時岡の二の舞にもなりかねない」 ニヒルな美術講師の面影が、二人の間をよぎる。 あの時、彼の胸に去来していたのはどんな想いだったのか。 そして、最期の瞬間に何を叫んだか。 それはもう、今の郁実には知る由もない事だったが、彼がもっと強くタフな男であったなら、あんな最期を迎えずに済んだのだと、榊は思う。 もちろんそこには特別な想いなど何もなく、あるのは愚かな彼に対する侮蔑の念だけであったが―― 「むやみに、俺のいる領域に足を踏み入れない事だ。お前では、引きずられて抜け出せなくなるのがオチだからな。怪我をしても知らんぞ」 脅しているつもりかは知らないが、榊の表情は穏やかなままで、今いち読み取れない。 「せいぜい、寝首を掻かれないように気をつけるよ」 フン、と、榊は笑った。どうせもう魔術は使えなくなるから安心しろと、冗談めかして言う。魔術が使えなくても人の命くらい簡単に手玉に取りそうだとは、郁実は思ったが口には出さなかった。 実際、魔術が使えなくなる事で、色々な無茶な事が、できなくなってはくるだろう。 その事を、榊自身がどう思っているかは、郁実にはわからないが。 「それじゃ」 ホームに向かい、郁実は榊に背を向ける。 「氷村」 ガコンという派手な音がして、自動販売機の取り出し口に手を突っ込んだ榊が郁実の方に向き直った。手に持った缶コーヒーを、郁実に向けて放る。 「忙しくなるぞ。覚悟しておけ」 「……わかった」 郁実の苦笑を見届けると、榊はそのまま背を向け、静かな足取りで駅を出て行く。 それを見送った後、コーヒーをポケットにしまった郁実も改札を抜け、電車の到着を待つホームへと歩いて行った。 |