UP20020412

Hearts - Act.3 決められた未来





 ――七の年に 盟約は遂行されん――
 汝の望みたる命の 代償を ここへ……

 遠くから、声が聞こえる。
 ――あれは、誰を呼ぶ声?

「……郁実ちゃん!」
「……え!?」
 ボブカットの少女が、にっこりと微笑みかけた。郁実は呆然としたまま、彼女の顔を見返す。
「どうしたの? 何回も呼んでるのに」
 郁実は我に返って、慌てて笑顔を作った。
「ごめんね。何でもない。何して遊ぼうか?」
「郁実ちゃんは、華子と遊んでていいの?」
 不安そうな少女の顔に、郁実はにっこりと微笑み返し、彼女の頭を優しく撫でた。
「華ちゃんは、これからたくさん友達を作ろうね。でも、まだひとりじゃ寂しいだろ? お隣なんだから、いつでも来ていいからね」
 華子の家族――沢渡家が郁実の家の隣に引っ越してきたのは、ちょうど一年前の冬の事。家族と言っても華子と母親の二人だけで、どこから、どんな理由があって引っ越してきたのかは知らない。もっとも、郁実はそんな事には興味がなかったけれど。
 華子は小学一年生で遊びたい盛りだろうと思うのに、学校から帰ってくると、いつも家でぼんやりとしているか、郁実の家に来て静かに遊んでいるだけだった。
 四年生の郁実が相手をするには華子は若干幼なかったが、もともと面倒見のいい郁実は、それを苦にする事なくいつも一緒にいた。
「華ちゃんは大人しい子だから、なかなかお友達ができないのね。郁実がたくさん遊んであげてね」
 郁実の母親は、いつもそんな事を言っていた。
 いつもは頭の上に花でも咲いていそうな人なのに、華子の話をする時は何故か哀しそうな顔をするのが気になったけれど、郁実の方からその事を問いただす事はできなかった。
 子供心に何故か、躊躇われてしまったのだ。
 華子について、何か悪い事も考えたくない。
 本当にお花のような子なのだ。
「あれ……」
 華子が、ふと気付いたように、郁実と遊んでいた縁側から和室のふすまの奥を見た。
「ママだ」
 郁実も振り返ると、何時の間に来たのか華子の母親が郁実の母親と何事か話しているのが見えた。
「もうお仕事から帰ってきたのかな」
 華子が無邪気にそこに近付こうとしたが、とっさに郁実はそれを押さえた。
 いつもと違う。
 華子の母親は普段から口数の多い人ではなかったが、今日はどこかおかしかった。
「華ちゃん。きっとお母さん同士、大切なお話があるんだよ。テレビでも見て待ってようか」
 何の疑いもなく華子が頷くのを待って、郁実は和室に置かれた小さなテレビのスイッチを入れた。華子の横に並び、聴覚だけは後方の奥に集中する。
「華子は……」
 微かに、声が聞こえた。
「華子に友達なんて、できる訳がないんです。そういう風に、私がしたんですから……!」
「透子さん、おちついて」
「柚香さん教えて、どうすればいいの。もうすぐ、華子の誕生日が来る。そうしたらあの子は……」
 郁実の母――柚香(ゆずか)は、透子(とうこ)の手を握ると、一言一言含ませるように囁いた。
「あの話は本当なの? 本当に、そんな馬鹿な願いを、華子ちゃんにかけてしまったと? 私がずっと華子ちゃんに見ていた影は、本当に、その暗示なのね?」
「こんな……こんなつもりじゃなかった!! 華子の、命を……ッ!」
 声を落とすようにと、柚香は身振りで透子に伝えた。
 けれど、薄く開かれたふすまの向こうで、郁実はその殆どを聞いていたのだ。
「……どういう……こと?」
 郁実には、母達の会話を上手く理解する事ができなかった。
 何を言っているのか解らない。
 だけど『華子の命』って、何だ――

 華子を家に帰して、郁実は自宅の階段を駆け上がった。自室に駆け込み、ぺたりと床に座る。
「郁実ー?」
 外から、声が聞こえた。カーテンに隠れた窓の向こうにいるのは、おそらく泉(いずみ)だろう。華子と反対隣に住む幼なじみの少女だ。ひとつ年下なのに郁実の事を呼び捨てにしているが、この位の年頃ではあまり気にならないらしい。古くからの付き合いでもある。
 郁実は、そっと窓を開いた。思った通り、ごく至近距離で泉が自分の部屋から郁実の方を眺めている。
「華ちゃんは帰ったのか?」
 泉の後ろからひょっこりと顔を出したのは、泉の兄、圭斗(けいと)である。彼はすぐに、郁実が泣きそうな顔をしているのに気付いた。
 圭斗はひょいと窓枠を乗り越えると、簡単に郁実の部屋の前に飛び移った。そのまま郁実の部屋に上がり込んでくる。
「あ、お兄ちゃん、あたしも!」
「お前は危ないから来るな」
「ずっるーいッ」
 いつものやり取りである。圭斗が郁実のもとを訪れるのに、玄関を使う事はほとんどない。
「どうした?」
 圭斗は窓枠に腰掛けたまま、優しい笑顔を郁実に向けた。彼は受験を控えた中学三年生だ。ひとりっ子の郁実にとっては、幼い頃から一緒にいる泉は妹、圭斗は兄のような存在だった。
「圭斗くん……」
 郁実は、どこか焦点の合わない瞳を圭斗に向ける。
「お母さんが……何を言ってるか、よく解らないんだ。でも俺、なんか、怖くて……だけど」
 郁実の言う事は、いまいち要領を得ない。
 けれどひとつひとつを根気良く聞き出す圭斗。
「……ふーん」
 ひとしきり郁実が話し終わると、圭斗は何事もないような表情で相槌を打った。
「そんなに心配するなよ、郁実。多分、大した事じゃないさ」
 あっけらかんとした顔で、圭斗は言う。
「そう、かな?」
 そうそう、と、郁実の頭をポコポコと叩く。
「泉、玄関回ってこいよ。郁実、おばさんにおやつか何かもらってきてやるから、待ってな」
「郁実、待っててね、すぐにそっちに行くから。今日ね、あたし初めてテストで100点取ったんだよ!」
 はしゃぐ妹を笑顔で促して、圭斗は階段を降りた。
 ダイニングに顔を出す頃には「おじゃましまーす」と声をかけた泉が、どたどたと圭斗の横をすり抜けて郁実のいる二階へと向かった。
「おばさん、お邪魔してます」
「あ、ああ圭斗くん。いらっしゃい」
 椅子に座る柚香の手許には、ひとまとめになったタロットカードが綺麗に積まれていた。
「占い、また頼まれたんですか?」
「あ、ううん、そうじゃないの……」
 柚香は時々、近所の女性方に頼まれて占いをしている。今は趣味でやっているようなものだが、易学もちゃんと取っていて、その気になれば商売道具にもなる。的中率に関しても、かなりの評判を得ていた。
「……郁実に聞かれてたよ」
 圭斗が呟いた瞬間、柚香の顔が強張った。
「……何を……」
「隠さなくていいよ。多分、おばさんと俺が華ちゃんに見ていたものは、一緒の筈だから」
「……」
「もうかなり、ヤバいはずなんじゃないの? 華ちゃんの周りに何も起きないのは、郁実がいるからだ。けど、あいつの弾く力にも限度がある」
 どういう訳か、郁実の周りには妙な能力を持つ人間が多かった。類友とでもいうのだろうか。柚香は未来透視、圭斗は霊視。泉も圭斗と同じ素質はあるが、本人はまだ自覚していないようだった。
 郁実自身も念を弾くタイプの力を持っていたが、これは自分では上手く扱えない。霊体だろうが邪念だろうが、自分に悪影響を及ぼすものは、小さなものならすべて勝手になぎ払ってしまうのだ。だから、郁実自身にはそういった類のものがまるで見えない。郁実がそれと気付く前に払ってしまうのだから、当然だが。
 ただし、払うだけで除霊や浄化ができる訳ではない。あまりにも大きなものに関しても、効力の保証はない。訓練すれば使える力になるのだろうが、郁実に自覚がないので、当然機会もなかった。
「最初は……占いを頼まれたのよ。透子さん達が引っ越してきた頃、あの人が私の占いを知って、すがるような目で依頼されたの。『華子の未来を占って』って」
「華ちゃんの未来?」
 柚香は、無言で頷いた。
「様子が変だとは思ったわ。きっと何か心配な事があるんだろうと思って、娘の華ちゃんの姿を見た途端……」
「あれが、見えた」
「圭斗くんには、何らかの姿が見えるのかしら。私には……華ちゃんの周りを取り囲む影しか見えない。だけどあの一瞬、はっきり見たのよ。華ちゃんの……未来……」
 何かの影が見えるという点では、圭斗の方も柚香と大差はなかった。しかし、未来透視の能力を持った柚香が華子に見たのは、一目でそれと解るほどの、あまりにもハッキリとした死相だった。
「どうしよう、私じゃどうにもできないわ……あんな……」
「理由は? 華ちゃんのお母さんから、何か?」
「この前、無理矢理聞き出したの。力になれるかもしれないと思って。でも、あんな事を……」
 信じられないと、柚香はポロポロと涙をこぼした。


「雪枝が悪いのよ。みんな、あの女が……」
 闇の中で、透子が呟いた。
 透子が膝をつく前方には、得体の知れない黒い影が存在した。肉食の獣のような息遣いを感じる。
「お願い。あの女を殺して。あの人を、私に返して。権力やお金で奪える愛なんてない。それを解らせてやるの……!」
『我との盟約を、受け容れるというのだな?』
「……ええ」
 透子の目の前に座する巨大な影が、暗闇の中でうごめいた。上方に光るふたつの目が、ゆっくりと細められる。笑っているようだった。
『汝には、我の姿がどのように映るか』
 透子が顔をあげた。
 闇の中黒いものは、妙な艶に煌き、少なくとも人の形には見えない。
「大蛇……」
 透子は、見た通りの事を、そのまま素直に呟いた。
『大蛇であれば、それは嫉妬の具象化よ。金? 権力? 汝もわかっておろうが。男が汝より離れ、他に走ったのはまさしくその者の意志。汝は事実を、それとわかっていて捻じ曲げているに過ぎぬ』
「違う……ちがう! 彼が私から離れたのは……あの女に無理矢理……」
『嫉妬の念に駆られ、見失ったか。私欲にまみれ、高位なる我らの力を悪戯に利用しようとするからには、それ相応の覚悟をしての事であろうな?』
「……」
『それでもなお、盟約を受け容れるというのであれば、その女の命をこの手中に摘み、男を汝に与えよう』
 黒い影――大蛇にとっては、個人の動機などは興味の対象外、どうでもいい事だった。ただ、嫉妬や悪意、他人を呪おうとする心の歪みが心地良いだけだ。
『ただし、その代償を我に捧げる事を、この場で誓え』
「代……償……?」
『汝と男の間に生まれ出ずる、最初の命だ』
 つまり、透子の最初の子供という事である。
「……」
『盟約を受け容れず、今この場で契約を中断するというのであれば、男はその意志のままに汝より離れよう。そしてそれを待たずに、我は汝の命をもらい受ける』
「……!」
『それだけの手間を、汝が我にかけさせたのだからな』
 透子の顔色が、蒼白になる。
 グルグルと音をたてて、大蛇は笑った。
 自分の目の前にいるのは、鬼だろうか。それとも――悪魔?
 けれどそれは、自分の願いをかなえてくれるもの――。
「……捧げるわ。最初の子供の命を。だから、彼を……!」
 ほとんど無意識の内に、透子は叫んだ。
『それでこそ、我を呼ぶにふさわしき黒き魂よ。……今ここに、盟約は結ばれた。我がその命をもらい受ける七の年まで、かの子供は我の力の磁場の内に守られ、一切の他の影響を受けずに育つだろう。白き魂のまま、大切に育てるがよい』
 そう言って大蛇は闇に溶け込み、その場を去った。
 後に残されたのは、魂を抜かれたようにがっくりと膝をついた透子ただひとりだった。


 柚香は、顔を覆って泣いていた。
「そんな、馬鹿な……」
 圭斗の呟きに、柚香はいやいやをするように首を振る。
「どこかで方法を知って、降霊の術を使ったらしいの……。そして、質の悪いものと、契約を結んでしまった……!」
「嫉妬の念で姿を現す大蛇……それは、リヴァイアサン?」
 圭斗は自分の能力を知っていたから、そっち方面にはやたらと詳しかった。リヴァイアサンは、簡単に言えば嫉妬を司る悪魔の名前である。その姿は、凶悪な大蛇に見えるという。
 しかし、彼のその問いに柚香は首を振る。
「きっと違うわ……。普通の人間が、生半可なやり方で悪魔なんて呼び出せる訳がない。きっと、悪魔の形を借りた、質の悪い霊……」
 圭斗も、頷く。
「そうだね。だけど、華ちゃんの周りには確かに磁場が存在しているから、きっとそれなりに力の強いものだと思うよ。……まったく、なんて事を、してくれたんだ……」
 華子に友達ができないのも、道理だった。魂を白く保つために華子は強力な磁場に守られ、人は皆そこを無意識の内に避けて通っていたのだ。
「彼女……わからなかったのよ。まだ結婚もしていなかったから、子供の命を捧げるという事が、どんな事か……!」
 それにしたって、普通の神経ではない。どれだけ他人を羨もうが恨もうが、一線を超えないでいるだけの理性が、人にはある。ただ、それを越えてしまうひと掴みの人間が、いわゆる犯罪者になるのだ。
「華ちゃん、死んじゃうわ……どうしよう、どうしたらいいの!?」
 しかし、回避の方法がわからない。
 そんなケースに都合の良い力の強い人間など、そうそういない。霊能者と名乗る人間に相談したとして、妙な道具で金をぼったくられるか、おつむの方を疑われるのがオチだ。
「占えなんて……占える訳がない……。未来はもう、見えてるのに」
 もうすぐ、華子の七歳の誕生日だと言っていた。
 その時に、契約が実行されてしまうかもしれないのだ。
 どうすればいいんだろう。
 そんな想いだけが二人を支配していたが、異変はこの後すぐに起こる。




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