UP20020412
Hearts - Act.4 狂気に散る花
「沢渡さんが消えた」 硬い表情で、郁実の父親――喜孝がそう告げたのは、その翌日、日曜日の事だ。 喜孝は柚香から相談を受けていたから、沢渡家の事情の殆どを知っていた。氷村家の中でも、彼は唯一何の能力も持っていなかったのだが、柚香との付き合いの中で彼女の力も目の当たりにしていたから、そういう事には理解があった。 「消え……た?」 「手荷物を持って華子ちゃんの手を引く沢渡さんを、近所の人が見てるんだ。普通ならともかく……」 「喜孝さん……!」 確実に、透子はこの場から逃げようと姿を消したに違いない。 しかし、どこへ行こうと言うのか。形を持たないものから逃げおおせる事など、できる訳がないのに……。 けれど透子は、そうやって今までも放浪し続けていたのだ。 「透子さんの旦那さん……華ちゃんが生まれたすぐ後に亡くなってるの。それだって、霊障に違いないのよ。人間の願いを、そんなに都合よく聞いてくれる悪魔なんて、いる訳ないのに……!!」 悪魔の名を語る悪霊。 しかし、運悪くそういったものと接触してしまったとして、何の予備知識も持たない人間が、その本当の恐ろしさを知る筈がない。 そういう曖昧なものに頼ろうとする弱い心こそが、そもそも己の視界にフィルターをかける原因になるのだ。そして、その心の隙間に付け入られる事になる。 「郁実に……なんて言ったらいいの……」 柚香は涙ぐむ。 しかし、その郁実までもが姿を消してしまった事に二人が気付いたのは、その夜になってからの事だった。 郁実は、華子と一緒に透子に連れられて、来た事もない小さな道を歩いていた。 様子のおかしい二人の姿を見掛けた郁実を、透子が連れてきたのだ。電車を乗り継いで知らない町まで来てしまう事になるとは思わなかったが、昨日の母親同士の会話が、郁実は気になって仕方なかったのだ。 「……郁実くんの傍にいるとね、華子の周りの空気が変わるの。柚香さんが、郁実くんの力がそうさせてるんだっていうような事を言っていたわ」 郁実の手を掴んだまま離さない透子が、静かに呟く。 「俺、わからないよ」 透子が何を言っているのか、郁実には良くわからない。 透子の逆の手を握っている華子は、いつもと違う母に戸惑っているようだった。 「ママ、どこにいくの? またお引越なの」 どこに行けばいいのかしらと、透子は誰にともなく呟いた。 「郁実くんなら、華子を助けてくれるのかしら?」 他人の家の子供を遠くまで連れ出して、己の問題に巻き込んでいるのだという自覚は、今の透子にはなかった。 ただぼんやりと、華子の周りの空気を変える郁実を連れて行こうと考え、実行してしまっただけだ。それ程に、透子は判断能力を失っていた。 既に、正気じゃなかったのだろう。 ――逃げるの? 透子の耳に、地を這うような女の声が届いた。 「……!!」 『どこまで逃げるの?』 その声に、透子はガタガタと震え出した。 「なんで……どうして!?」 『……あんた……が……』 夕闇に包まれはじめた辺りの空気が、陽炎のように歪んだ。 『あんたが私を、殺したんじゃない』 目の前が揺れ動き、そこに姿を現したのは、注意をして見れば女性にも見える細い影だった。 「どうして……アンタが」 透子は、信じられないものを見たとでも言うように、その瞳を見開いた。 『ばかな女……巡り巡って……ここに、戻ってくるなんて』 「!?」 透子が立つそこは、何時の間にか柔らかな草が一面に茂る何もない草地だった。 地平まで続く草。その先には何もない。気も狂わんばかりに燃え立つような、赤色の空があるだけだ。身体に纏わりつく空気も、まるで血の海に沈んだかのように、赤かった。 「華ちゃん」 郁実が、華子を引き寄せた。 どこかおかしな場所に紛れ込んでしまった事を、とっさに感じ取ったのだ。 身体中が、粟立っていた。 人が立ち入るべきではないような空間、目の前の影。あれはきっと、生きている人間ではない。 何がどうなって、こんな状況になっているのかは全くわからない。 けれど。 郁実の瞳が、恐怖に揺れる。 まるでこれから来る悲劇を、予感するように―― 『どこまで逃げても、あんたはここに戻ってくる事になってたの』 「そんな、そんな!」 透子も、もう気付いていた。 ここは、透子があの悪魔と契約を結んだ場所。 逃げて逃げて、またここに戻ってきてしまうなんて。 「雪枝……何で……アンタがここに」 『あんたが私を呪い殺したんじゃない。本当にばかな女……あんたが契約した悪霊は、私と彼の命を摘んだ後、どこかに行っちゃったわ。くだらない契約より、私があんたを呪う力の方がよっぽど強かったって事』 「そん……な……」 『かりそめの愛の営みはいかがだったかしら?』 雪枝は、微笑したらしかった。 『幸せなんて、感じる暇も無かった筈よねえ。あんたの呪いは、彼の命をも奪ったんだもの』 透子は、信じられないというようにゆるゆると首を振った。 生ぬるいほどの、穏やかな結婚生活。偽りの愛で固められたその生活すら、壊したのはあの時の契約だというのか。 「華子を……残してくれたわ!」 『平気で悪霊に捧げられるような命しか生み出せなかったくせに』 苦し紛れの叫びも雪枝の言葉に一蹴されて、透子はかぶりを振った。 「違う……ちがう!!」 私はあんたが許せない。 望んだものが手に入らないから、人から奪い取るの? 命の領域までも犯して。 私は何故死んだの。私が何をしたの。 だけど、あんたはきっと満足してる。 だって、代わりの命を、私に差し出すんだもの……。 「そんな、ばかな!」 透子は叫んだ。 『どっちでも一緒じゃない。あんたは自分の周りのものを、自分の欲望のために、すべて捨てたんだもの』 「願いの代償は……悪しき霊ではなく、彼女の魂に払われる……」 後方からの声に、透子は振り返った。 そこでは、郁実が華子を抱きしめて呆然としたまま、無意識で言葉を紡ぎ出していた。 「郁実ちゃん? 郁実ちゃん、どうしたのぉ!?」 華子がその身体を揺らしても、郁実は正気に返らない。 「その代償は……華……子」 郁実がどこを見ているのか、誰にもわからない。 強すぎる念を、その身体で拾ってしまっているのだ。 「華子……華子の命……い、いやあああぁッ!!」 叫ぶ透子の目の前で、雪枝は般若の如く顔を歪めた。 契約は不履行。 些細な約束など、守られる筈も無かった。大蛇の形をした悪霊にとっては、愚かな人間の願いなど、どうでも良かったのだから。しかし相手が悪霊であろうと呪い殺した筈の女の魂であろうと、透子が己の欲望のために華子の命を代償に捧げたのは、紛れも無い事実なのだ。 『もらうわよ。あんたの子供の命。だって、あんたがいいって言ったんだものね』 それは、醜い微笑に変わる。 理不尽な死を迎えた、その恨みと憎しみに歪んだまま、雪枝の魂は透子を待っていたのだ。 郁実の腕の中の華子が、ふらりとそこを抜け出した。 「は、華ちゃん」 そこで、やっと郁実は正気に返った。 「華ちゃん、華ちゃん!」 華子は振り返らない。 しかし、雪枝に向かって歩いていく自分の身体に一番驚いているのは、華子本人だった。 「マ、ママ……やだぁ……」 「華子!」 雪枝の影が透子と郁実の視界いっぱいに広がり、その中に華子を取り込もうとするかのように揺れ動く。 「やめて、やめてェ!!」 透子が、華子を庇うようにその身体に覆い被さった。 「わ、私の命をあげる! 私をあげるから、華子を助けて!!」 雪枝は再び妖しく微笑み、華子を庇ったままうずくまる透子の背中から彼女の首にその手をかけた。 『ばーか。もともと、あんたを生かしておくつもりなんかないんだよ。私の恨みは、あんたの命で晴らしてもらうんだから……』 「は、華子は!!」 『あんたの子供の命は、ちゃんと役立ててあげるからね』 嬉しそうに微笑んだ雪枝は、透子の首を掴んだ両手に力を込めた。 「う……ぐ、う……」 透子の目が見開かれる。 「マ、ママぁ!」 腕の中の、華子の叫び。 「郁実くん……華子を……助けて……」 見開いたままのその瞳から、涙が溢れ返り零れ落ちる。 その顔が赤黒く変色していき、開いたままの口からは唾液が流れ落ちた。 「は、な、こ……を……」 「ママぁ――――ッ!!」 ゴトリと、透子の首が地上に転がった。 最上部をもぎ取られたその身体は、朱の鮮血を吹き出し揺らめきながら、草地に崩れ落ちていく。 「あ……あ」 母の血を、その身体に受け止める華子。 彼女は、自分が今どんな状況に置かれているのか、まるで理解できなかった。 少し離れた場所に座り込んだままの郁実の身体も、その機能をすべて忘れ去ってしまったかのように動かない。 震える事すら、もうできなかった。 華子を助けて。 助けて……! 叫んだ透子の声だけが、郁実の頭の中を渦巻くように駆け巡る。 郁実の瞳は、目の前の光景を焼き付けたまま瞬きすらしようとはしなかった。 透子の姿を嘲笑うかのように揺らめいていた雪枝の手が、母の血に染まった華子の身体に伸びた。 「や、やだ……」 華子は動けない。 郁実も、動けなかった。 「華ちゃん……!」 やっと絞り出す声も、かすれている。 「郁実ちゃん、助けてェ!!」 溢れ出した涙でぐちゃぐちゃになった華子の顔。 その瞳が、郁実を見ていた。 「助けて、助けて!!」 雪枝の両手が華子の身体を捕らえても、華子は叫び続けた。 華子の肩にかけられた手が、力を増す。 「い、痛い、痛いィ……」 「華ちゃん……」 郁実の身体は、動かない。 封じられている訳ではない。 恐怖のあまり、動けないのだ。 「郁……ッ」 叫びかけた華子の肩から、メリメリと音をたてて引き千切られる、腕。 郁実の名を呼んでいたその口から、大量の血が溢れ出た。 既に鬼の形相になった雪枝は、微笑みながら華子の四肢を更に引き裂く。 想像を絶する、狂気。 微かに動く華子の唇は、しかしもう何かの言葉を発する事はできなかった。 バラバラにされ、見開いたままのその瞳が色を失っていくのを、飛び散る鮮血を浴びながら、郁実はただ見つめていた。 もう、華子の名前を、叫ぶ事すらできない。 華子が事切れる瞬間を目にしても、もう何も、考える事はできなかった。 雪枝は、涙に濡れた瞳をうつろに開いたままの華子の顔を、いとおしそうに撫でる。 その姿は、恐ろしい鬼のようなものから、生前の美しいものに変わっていた。 『なんて勝手な女……でも、これでやっと、私も行ける――』 恨みの念で透子を手にかけ、華子の命を代償にした雪枝の魂は、真っ白に輝きを放った。 その光が、一瞬にして天空高く飛び上がる。 余韻を残して光が消えた後の暗闇の中に残されたのは、無残に転がった二人分の肉塊と、郁実ただひとり。 元の空間に戻ったのか、遠くで車の走る音やざわめきが蘇った。 けれどその音を感じる事もなく、郁実の記憶はそこで途切れた。 |