UP20020412

Hearts - Act.5 断罪





「呪いは、自分に返るのよ」
 柚香は呟く。
 郁実が発見された後の騒ぎは、思い出したくもない。
 透子と華子の惨殺死体。その一部始終を目撃していたであろう郁実。
「郁実……何も悪い事、してないのにね……」
 その事件は、人間にできうる事ではないと、半ばこじつけるようにして野犬か何かの仕業だという事で片付けられた。何故郁実だけが無事であったのか、そういった事は結局うやむやのままであったが、さすがに郁実が何らかの疑いをかけられる事はなかった。
 それほどまでに、凄惨な状態だったのだ。
 病院に収容された郁実が、精神に異常を来たしていなかった事はほとんど奇跡に近かったが、柚香にとっては唯一の救いでもあった。
 狂ってしまえたなら、いっその事その方がいくらか楽であったかもしれないけれど――。
 時間をかけて郁実の事情聴取に当たっていた警察側も、最終的には諦めた。郁実は口を閉ざし、何も引き出す事はできなかったのだ。
 野犬に襲われる現場を目撃していたのなら仕方がないという考えもあり、かえって同情を集めたくらいだ。
 本当のところ、この騒ぎが収まるまでには相当の時間を要し、関係者である郁実とその家族は、その間をずっとあわただしく過ごす事になってしまった。
 しかしそれ以上に長かったのは、郁実が普通の生活に戻るまでの時間である。
 郁実が普通に話し、元の生活に戻れるようになるまでの状態は、筆舌に尽くし難いものがあった。
 何度も華子の名を呼び、うつろに両手を伸ばし、時に狂ったように泣き叫ぶ。
 そんな状態が、長い事続いた。
 やっとの事で普通の生活に戻った後も、それは発作的に訪れた。
 郁実の口数は減り、いつもどこか遠くを見るようになった。
 学校には通っても、それ以外の時間はただぼんやりと過ごす。
 もともと付き合いの良かった郁実の周りにはたくさんの友達がいたが、そういう友人達と談笑の時間を持つ事も、なくなった。彼らは根気良く郁実の事を待っていたが、郁実が心を開く事はない。
 生きる事をやめてしまったかのように見える郁実の身体だけが、それでも静かにこの世の中で動いているだけだった。
 時間が解決してくれる。
 そんな外部の声も、柚香には、何の慰めにもならなかった。

 時々、郁実は夢を見る。
 遠くから聞こえるのは、自分の名を呼ぶ優しい声だ。
 けれど振り返ると、そこにいるのは哀しそうな瞳の、華子。
『どうして……』
 華子は、いつも呟く。
『どうして……?』
 郁実の目の前で、華子はいつも泣くのだ。
 郁実は、華子に向かって手を伸ばした。

 ――助けて!

 突然の声に、郁実はびくりと身体を震わす。

 ――郁実ちゃん、助けて!!

「あ、あ……」
 震える郁実の瞳に、尚も哀しそうな華子が映る。
『どうして……』
 華子は、同じ言葉を何度も繰り返した。


 ビクンと痙攣して、郁実は目を覚ました。
 ガバリと起き上がり、荒い息を繰り返す。頭に響くほどの動悸が、胸の奥でガンガンとがなり立てた。
「華……子……!!」
 郁実は、両手で頭を抱える。
「郁実!」
 バタンと音をたてて部屋の扉が開かれる。入ってきたのは、圭斗だった。
「華子!!」
 空を切る郁実の手を、圭斗が押さえる。
「郁実!」
「う……ぐゥ……ッ」
 押さえつけられながら、身体を折り曲げた郁実の背中が揺れる。ひどい蠕動を繰り返し、郁実は胃の中の全てを膝の上にぶちまけた。
 吐き出せるものなんて、胃液くらいしかない。けれども、強烈な吐き気は留まる事を知らない。
 止まらない涙が両頬を濡らし、その表情は苦痛に歪む。
「華子……ごめん……」
 バタバタと、階段を昇ってくる音が響いた。
「お兄ちゃん!?」
 郁実を押さえる圭斗が舌打ちする。
「泉、洗面器とタオル。それと水!」
「やだ、私も郁実の傍にいる!」
 部屋で何が起こっているのか、泉にもわかっていた。もう何度も何度も、繰り返されている事だったから……。
「泉! お前も、女の子だろ? 男のみっともない姿を見るもんじゃないよ」
「お兄ちゃん〜……」
 泉が泣きそうな声をあげても、圭斗は許さない。

 この時、郁実は中学二年生になっていた。
 あれから四年の時が過ぎていたが、今でも郁実は時々こんな発作を起こす。
「郁実、落ち着け」
「圭斗くん……」
 柚香が、伺うように部屋を覗き込んだ。足を踏み入れていいものかどうか、戸惑っているようにも見える。
 圭斗が促すと、やっと恐る恐る郁実の傍に寄り、その肩を抱いた。
「郁実、郁実? しっかりして」
「華子……ごめん……俺は、助けてあげられなかった」
 何度も、名前を呼ばれたのに。
 華子は俺を見てたのに。
 華子のお母さんが叫んでも、華子が助けを求めても、俺は一歩も動く事ができなかった。
 そこに、いたのに――!
「怖かった……。怖くて……動く事すら……だから華子は、俺を許せない……」
 夢に出てきては、どうしてと繰り返す華子。
 その顔はいつも、自分を責めるように涙に濡れていて。
 それを目の当たりにするたびに、郁実は自分を責め続けた。
「あなたのせいじゃない……!」
 柚香は叫ぶ。
 あの時郁実が何もできなかったというのは事実だろう。
 けれど、誰がそれを責められよう?
 目の前で繰り広げられた、想像を絶するような惨劇。ましてや郁実は、まだ子供だったのに――。

「郁実が見ている華ちゃんは、確かに本物だよ」
 圭斗は言う。
 郁実が夢に見る華子は、彼が創り出す幻ではないのだ。あの日から華子はずっと近くにいて、郁実はそれを夢に見る。
「華ちゃんは、郁実の事怒ってるの?」
 ダイニングでお茶を差し出されても、まるで気付かないまま柚香は震える。
 圭斗は、そっと首を横に振った。
「皮肉だね。悪霊が華ちゃんの周りに作り出した磁場のおかげで、華ちゃんはまるで汚れのないまま育った。もう、とっくに浄化されていい筈なんだ」
「じゃあ、どうして?」
「それを留めているのは、郁実だよ。郁実は、華ちゃんの本当の言葉を聞こうとしない。惨劇の記憶が、それを邪魔しているんだろうね」
 柚香は顔を覆う。
 だって、ではどうすればいいのだ。
 このままでは、郁実が駄目になってしまう。
「それこそ本当に、郁実が自分で何とかするしかないんだよ……」
 残酷な事を言っているのは、圭斗自身もわかっていたけれど、他に方法はなかった。
「なんとか、なるかな?」
 呟く圭斗は、何かを考えているようだった。

「郁実?」
 圭斗は大学から帰ると、縁側にぼんやりと座る郁実に声をかけた。その呼びかけに、郁実はゆっくりと彼の方を見る。
「お前まだ、そういうのちゃんと見る事できないのな」
「何が」
 ふいの圭斗の問いかけに、郁実はいぶかしげな顔を見せる。
「そこに、華ちゃんいるの見えない?」
 唐突すぎる圭斗の言葉。
 ビクンと身体を震わせた郁実は、圭斗の指し示す方向をぎこちなく見つめた。
「華子……」
「ま、仕方ないな。こういう思念体にも色々な形があるし。華ちゃんは結構高位な精神体になっちゃってるから、普通じゃ見えないか」
 あっけらかんと、圭斗は言う。
「華子は、俺の事……」
 にわかに震え出す郁実の肩を、圭斗が後ろから掴んだ。
「郁実、よく見ろ! 華ちゃんは、お前の事恨んだり怒ったりなんかしていない。お前が、彼女の声を聞こうとしないだけだ!」
「だって!」
「お前のせいじゃないんだよ! お前にも、誰にも、どうにもできなかった! だけどお前は華ちゃんの声をちゃんと聞いてやるべきだ。そこにいる、華ちゃんの!!」
 ほとんどイチかバチかの賭けで、圭斗は自分を媒体に、目の前にいる華子の姿を郁実に見せようとした。やった事のない真似だから、ちゃんとできるかどうかはわからなかったが。
「華子……?」
 郁実の瞳が揺れる。
 小さな花壇の花の上に華子は立っていたけれど、その姿を捕らえた郁実には、もう華子以外のものは何も見えなかった。
『どうして……』
 また、繰り返される言葉。
 だが、これはいつものような夢ではない。郁実は、思わず硬く目を閉じた。
 自分を責める、華子の姿を拒絶するかのように。
「逃げるな。華ちゃんの言葉を、最後まで聞くんだ」
 圭斗の言葉で、開かされる瞳。
『どうして……』
「華子」
『どうしてあの時、郁実ちゃんに助けを求めてしまったんだろう……』
 郁実は、目を見開いた。
『ごめんね。ごめんね。郁実ちゃんに言っちゃいけなかった。華子達の事は、郁実ちゃんのせいじゃないのに。助けてなんて、言う資格はなかったのに』
 そう言って、華子は泣いた。
 いつもいつも、華子は郁実ではなく、自分を責めて泣いていたのだ。その言葉に捕らわれる郁実の姿に、自分の罪を投影して。
「華……子」
 捕らわれていたのは、自分だけではなかった。お互いがお互いを、哀しい形で縛り付けていたのだ。
「……ちがう」
 かすれた声が、郁実の口をついて出る。
「それは違うよ。華ちゃんのせいじゃない。華ちゃんは、何も悪くないじゃないか。きみは巻き込まれただけなんだから」
 噛み締めるようにゆっくりと優しい声でそう言って、郁実は自分も間違っていた事を知った。
 半ば生きる事も諦め、それを華子のせいにして。自分勝手な想いで、華子を縛り付けていた。
 本当は、とうに分かっていた筈だ。
「ごめん……」
 華子は、笑った。
 その名の通り、綺麗な花のように。
『郁実ちゃん、大好き。華子のために、もう泣かないでね』
 笑う華子の姿が揺らぐ。
「華子!」
 華子の姿が陽炎のように揺らめき、空気に溶け込むように透明になって行く。
 生まれてきた事すら哀しい運命の歯車の一部であった少女。
 華子のいた場所には、まるでその代わりのように花壇の花が静かに揺れていた。




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