UP20020412
Hearts - Act.6 そして、今へ
郁実が微妙に変わったのは、近くにいるみんなが見て取れた。 それなりに活発だった昔の姿は見る影も無く、相変わらず物静かで時々遠くを見るけれど、その姿は幻を追いかけているようではなく、何かを模索しているようにも見える。無くしたピースをかき集め、壊れかけていた日常を組み立てているのかもしれない。 二年の頃まではぎりぎりだった学校での出席日数も、三年の皆勤で取り戻しつつあった。 今年はもう受験だ。 そういう事を何も考えていなかったから、今の郁実には、目標のようなものがまるで無い。けれど学校くらいは出ておくべきだという一般論から、郁実は近くの公立高校を受験する事にした。別に、だからどうだという感想は、何も無かったけれど。 ゆっくりと時を過ごす郁実の邪魔は、誰もしようとは思わなかった。 もっと色々考えなければならない事が山積しているはずのこの時期も、郁実はマイペースで一歩ずつ進む。もともと器用に物事をこなす方だから、そういう意味での心配はあまり無いように思われた。 全てを忘れるには、まだ早い。 記憶を思い出に変えられるまでには、きっともっと時間がかかる。 けれど、ちゃんと生きてみようと歩き出した郁実の姿に、周りの者は安堵していた。 そんな折、柚香が突然倒れ、病院に運ばれた。 郁実の受験当日である。 「かあさん!」 病室に駆け込んだ郁実を、柚香は弱々しい瞳で見つめた。 「郁実どうして……受験は?」 「ばかな事、言わないでくれ……」 想像していたよりも元気そうな母の姿に、郁実はその場にしゃがみ込んだ。誰かを失うかもしれないという状況には、郁実は過ぎるほどに敏感になっているのだ。 郁実が家を出ようとした矢先に、柚香は倒れた。当然郁実がここまで付き添い、ようやく面会許可が下りて室内に駆け込んだ訳だが、救急車で運ばれている間中、柚香はうわ言のように「郁実は試験に行って」と繰り返していた。 柚香は、胃穿孔になりかけていた。 不安や精神的ストレスにより、こういった症状が引き起こされるらしい。症状がごく軽い内だったから大事には至らなかったが、しばらくは入院する事になる。 「ごめん。俺のせいかな……」 郁実はうな垂れる。 長い間、この母には心配ばかりかけてしまった。本当に、何年間も。 「何で、郁実が謝るの……。郁実は悪くないよ。お母さんこそごめんね……。あなたの大事な時に、母親失格かな」 今にも泣きそうな母親の姿に、郁実は大きくため息をついた。 「俺が悪かった。もう少し、心配させないようにしっかりするよ。受験は、来年またするからいい」 それでも柚香はごめんねと繰り返していたけれど。 「いい? 正直に言うよ。俺はまだ色々と考えている最中で、母さんも不安に思うかもしれない。俺にもこれはどうしようもない。だけどきっと、何とかできるようになるから。できるだけ、心配かけないように、努力する。だからもう、こんな風に倒れたりしないで」 郁実の悲痛な表情に、柚香は神妙に頷いた。 郁実の事をゆっくりと待つつもりが、やはりどこかに無理が生じていた。お互いに仕方の無い事だ。 もう少し気を楽にしようと、柚香も思った。郁実にもその事を強要してきたのだし。 未だに沈みがちな郁実と、いつか本当に笑い合えるように。 「凄いじゃないか、郁実。あそこはレベルが高いんだぞ」 郁実の背中を喜孝が容赦なく叩く。 翌年になって、郁実は『大和武尊専門高等学校』を受験し、見事に合格を果たしたのだ。 近年になってにわかに騒がれるようになった妖魔事件。それに伴い設立された退魔庁の付属機関で、魔物と闘うべき人材を育て上げる専門学校である。 大和武尊の受験を郁実が決めた時は、周りの人間は皆一様に驚いた。自分の力にあまりにも無関心だった郁実が、よもや退魔官への道を目指そうとは、誰も想像していなかったのだ。 郁実がこの道へ進む事への不安が無い訳ではなかった。けれど、その事に関して周りの人間はすべて口を閉ざし、誰も異を唱えようとはしなかった。 「入学祝を買わなきゃな」 気の早い父に引きずられて、郁実は近所のデパートまで出掛けた。母もトコトコとついてくる。家族揃って出掛けるなんて、郁実としては何やら気恥ずかしいものもあったが、両親ともに嬉しそうだから、たまにはいい。 「何でもいいぞ。郁実、何がいい?」 うきうきと片手で店内を指し示す喜孝。 何でもいいと言いかけて、郁実は思いとどまった。 考えてみればこの何年か、郁実は自分の意志を人に伝えたり、欲求を口にした事が無い。そういう点は、いつもおざなりになっていた。いい機会だ。そんな自分とは、そろそろ訣別しなければならない。 けれど、急に自分を変えられる訳でもない。 郁実は、手近にあったガラスケースを指差し、一言「これ」と呟いた。 「郁実、これ万年筆よ? こんなの、使う用事あるかな」 柚香は首を傾げた。 実は適当に指したものだから、筆記具の種類などは確認していない。郁実の指差したそれは、深緑色で大理石柄の万年筆だった。 「いいじゃないか。郁実はこれがいいんだろ? じゃ、これだ」 喜孝は笑顔で言い、柚香を見た。 「そう……そうね」 柚香も笑った。 郁実が、これがいいと言ったのだ。本当に久しぶりに、郁実が自分で決めた。 郁実は適当に指しただけだったけれど、そんな事は大した問題ではないのだ。両親にも、郁実にも。親達にしてみればその事そのものが嬉しかったし、郁実にしてみても、ようやく自分で歩き出せるスタート地点のように思えた。それがどんなささいな事でも、自分の中で『きっかけ』として存在すればいいのだ。 それを丁寧に包んでもらってから、喜孝は郁実に手渡した。 「頑張れ」 そう言った父の笑顔に、郁実は深く頷いた。 そうして郁実は、次の四月から『大和武尊高等専門学校』に準退魔官として通う事になる。 夢を見た。 咲き零れるような、華子の笑顔。 救う事のできなかった少女の、あの頃と少しも変わらない、幼い姿――。 郁実は、静かに目を開けた。視界が徐々にはっきりとして行き、自室の天井が見て取れるようになる。 もう、あの頃のように飛び起きたりはしない。 今日は特に、ゆっくりと睡眠をとったような気がする。 「郁実――ッ!!」 ガラリと勢い良く窓が開き、次の瞬間、腹部に強烈な衝撃を受けた。 あまりの事に声も出せずにいると、幼なじみの少女が自分の上に馬乗りになり、元気にバウンドしている。 「窓の鍵くらいちゃんとかけなきゃだめだぞー!」 「……泉……」 仰向けのまま派手に咳込んでから、郁実は少女の名前を呟いた。 「勘弁してくれよ……。たまの休みくらいゆっくりさせてくれ」 「そりゃー無理だな」 その兄の圭斗が、妹に続き窓から顔を出す。相変わらず、玄関を使わずに人の家に上がり込む兄妹だ。 「そうよ。郁実ってば高校生になってからこっち、全然家にいないんだもん。卒業してやっと帰ってきたかと思えばすぐに北海道に行っちゃうし。すっごく寂しかったんだから」 仕事の関係上、それは仕方が無い。 二十歳も越えた女とも思えない泉の行動に内心舌を巻きながら、郁実は泉を足で振り落とした。 「嫁の行き手が無くなるぞ……」 「そしたら郁実にもらってもらうもん」 「やなこった」 郁実の即答に頬を膨らませる泉の後方で、突然扉が開いた。 「郁実!」 柚香が顔を出す。 「何だって郁実がここで寝てるのよ! 今日帰って来るって言ってたのに……もう、郁実って、どうしていつも帰るって言った日の前日に帰ってくるの!?」 素直に帰ろうものならクラッカーでも持ちながら大歓迎ムードで待ち構えていそうだからだ。 それにしても、柚香の言うように毎回前日に帰ってくるのに、その度に引っかかるというのはどうだろう。おそらく、父の方は前日の夜の内に帰っている事に気付いているのだろうに。相変わらず天然な母だ。 しかし、今度からは、ずっとこの家から職場に通う事になる。 「おかえり、郁実!」 気を取り直した柚香は、笑顔で郁実の腕にしがみついた。 「ただいま」 起き抜けから人に囲まれた郁実は、苦笑しつつ帰還の言葉を口にした。 しかし柚香の方は、密かに「またクラッカーが無駄になっちゃった」などと考えていたりする。本当に、懲りない母だった。 |